第34話 ジェラる綾女と名を知る養護教諭


 背中に貼られた湿布が効いてきた。その存在を肌で感じ取れる。


「次はお腹ね。自分で貼る?」


「そうします」


 俺が養護教諭から二枚目の湿布を受け取ろうとしたら、横から手を伸ばしてきた綾女に横取りされる。


「私が貼ります!」


 さっきから気にしていなかったが、養護教諭に湿布を貼られている時の綾女の表情が少し固かった。何かに怒っているような、むくれているような、そんな顔だ。何か気に障ることでもあったのだろうか? ひょっとして、今更、岩田先輩と喧嘩になったことを気にしているのか。でも、岩田先輩と喧嘩した直後はもっと柔らかい表情だったのにな。幼馴染を続けていても、女心は時々分からない。


「ふふふ。そう、仲がいいのね」


 俺が事態を飲み込めないでいるのに、養護教諭は何かを察したように柔らかく微笑んだ。母性のような、何かを見守るような、菩薩染みた笑顔だった。


「幼馴染ですから!」


 綾女が強く答える。


 そして綾女は湿布のフィルムを剥がし、俺の腹部に湿布をあてがう。


「ここ、痣になっているね。痛い?」


 綾女が湿布を貼って、その上から手で擦りながら聞いてくる。岩田先輩の正拳突きを受けた場所に触れるたび、ピクリと痛みが走る。


「ちょっと、な。正け、コホン、階段が堅かったからな。でも、二三日もすれば治るさ」


 岩田先輩の正拳突きは真っすぐに俺の腹を捉えていたが、俺は及び腰で後ろに下がった。結果、スウェイバックのように岩田先輩の打撃のダメージを減らすことに繋がった。俺のとってラッキーな展開だった。まともに岩田先輩の正拳突きを受けていたら、べろんべろんに胃液を吐いていたことだろう。


「そう? まあ、太一がそう言うなら信じるよ。うん。信じる」


 綾女は自分に言い聞かせるように、言葉を口にしながら、ゆっくりと頷いた。


 その俺たちのやり取りを見ていた養護教諭は、先ほどまでの明るい表情から一変、実にいやらしそうな、下卑た表情になった。


「あらあら。青春ね。このままベッドを使うなら、私はしばらく席を外すけど、どうする? ああ、避妊はするのよ?」


 ニヤニヤと意地悪そうに笑っている。


 ベッドを使う、とは暗喩だが、その後の避妊ってワードが台無しにしている。だが、既に岩田先輩との一仕事こなし、ここで肩を並べている相手は家族同然の綾女だ。そんなつもりも、空気も、毛頭ない。


「遠慮します。教室に戻ります」


 ベッド脇に置かれている小さなデジタル時計に目を移すと、そろそろ午後の授業が始まりそうな時間だった。もう少しで予鈴が鳴る。


「あら。残念ね。ゴム持っていないの? 男子の必需品よ?」


 茶化すような養護教諭を無視する。が、綾女はその言葉に食いつく。


「あ、私ゴム持ってるよ。太一、使う?」


 ああ、このやや天然の幼馴染は、輪ゴムと勘違いしているだな。養護教諭は目を輝かせて俺と綾女を交互に見やる。


 その視線が鬱陶しい。


「要らん。……輪ゴムに用事はない」


 綾女の名誉のため、わざわざ「輪ゴム」を強調して否定する。養護教諭はがっかりしたように肩を落とした。


 綾女に制服を取ってもらい、袖を通す。何度も投げられたので、制服はやはり土臭かった。ベッドから立ち上がる。綾女も俺に続いて立つ。養護教諭は俺が制服をちゃんと着たのを確認してから、カーテンを開けた。


「湿布。ありがとうございました」


 丁寧に頭を下げる。俺につられて、綾女も慌てて頭を下げた。


「いえいえ。ああ、そうだ。名前、教えてくれる? 保健室の利用者は記録しないといけないの」


 養護教諭はスタスタと保健室の扉まで歩き、その横に置いてある机の上から、A4サイズのクリップボードを手にした。クリップボードにはボールペンが紐づけされている。


「日付とクラス、性別、それと名前ね。丁寧に書いてね」


 養護教諭からクリップボードを受け取る。クリップボードには利用者の名前が列挙されていた。今日の日付の利用者は三人だった。


 そのリストの一番下に、自分のことをサラッと書く。そして、クリップボードごと養護教諭に返す。


「えっと、一年六組の根本太一君、ね。……ん? 根本君?」


 何か気になることがあるのか、養護教諭が首を傾げる。そのまま五秒くらい考えて、クリップボードを脇に挟んで、突然パンと手を叩いた。


「ああ。君、子猫の里親を探している根本君? 昨日、校内放送していた。あの『にゃ~ん』の」


 どうやら、この保健室まで校内放送は届いていたらしい。鳴いたのは綾女だが、里親探しの連絡をしたのは俺だ。


 また猫姫の正体探しか、と嫌な考えが思い浮かぶ。生徒だけじゃなく、教師からもその正体を探られているのではいか、と。


「はい。その根本です」


 しかし、俺の懸念は一瞬で溶解する。


「よかったー。私、猫を飼おうと思ってたの。もしよかったら、詳しく子猫の話を聞かせてくれない? 私、昔から猫派なのよー」


 文字通りケガの功名。岩田先輩と喧嘩して、ケガして、保健室に送りにされて、それが里親探しに繋がるとは。


 子猫の里親探しは、今の最優先事項だ。猫姫の正体云々よりも、ずっと建設的な話だ。それに、通っている高校の教師なら、多少なりとも信用できる。少なくとも昨日の岩田先輩の学校で飼う発言よりもずっと好ましい。


「はい。喜んで。っと、もう昼休みが終わりますね。写真入りのポスターがあるので、放課後に持ってきます」


 昨日、学生カバンに入れたままにしてあるポスターが役に立ちそうだ。


 俺が保健室の扉に手をかけた時、狙いすましたように間延びしたチャイムが鳴った。予鈴だ。五分後に午後の授業が始まる。


「ええ。分かりました。じゃあ、放課後に。保健室で待ってるからね」


 養護教諭に見送られながら、保健室を後にした。


 俺は綾女と二人、教室に戻る。その足取りは軽い。


「やったねー。太一。お嬢に続いて二人目だよ。二人目」


 階段を上りながら、綾女は嬉しそうに俺の肩を叩いた。


「だな。あと一人だ」


 嬉しいのは俺も同じだった。


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