第33話 養護教諭とは一定の支持が得られる癖の一つ


 綾女の肩を借り、校舎裏から校舎へ入り、廊下を抜ける。


 綾女は無言だが、怒ったような気配はなく、むしろ少し嬉しそうに見える。


「ん? 太一、どうかした?」


 つい綾女の顔をジッと見てしまい、綾女が不審そうに首を傾げる。


「いや。……聞かないんだなって思ってさ」


「何を?」


 綾女は大きな瞳を丸くして、本当に分からない、といった風に首を傾げて尋ねる。


「いや、何で喧嘩してたの、とかさ」


 俺は構ってちゃんじゃない。でも、いざ喧嘩をした幼馴染を前にして、興味が湧かないものだろうか。俺なら、矢継ぎ早に質問しそうなものだけれど。


 綾女は柔らかく微笑んだ。


「だって、太一の、男の子のすることだからね。きっと、譲れないところがあったんでしょ? それなら、私が口を挟むことじゃないよ」


 何だか、いい女みたいなこと言う綾女が少し憎らしくて、意地悪に綾女の頬を指でつつく。綾女のほっぺたは柔らかくて、温かかった。


 ムニムニ。


「もうー。太一。止めてよー」


 ムニムニ。


 そうやって二人で生温くじゃれている間に、保健室が見えてくる。保健室は一階で、校舎裏からそう離れてはいない。土まみれの俺を呼び止める生徒とも、教師ともすれ違わずにたどり着く。保健室の前で軽く制服の土を落とし、扉を三回ノックする。


「はーい。どうぞー」


 若い女性の返事が聞こえた。そう言えば、養護教諭の顔は見たことがなかった。まだ入学して少ししか経っていないが、保健室に世話になるのも初めてだ。


「失礼しまーす」


 保健室の扉を開け、綾女に支えられながら中に入る。保健室の広さは小学校の頃から変わっていないような気がする。ベッドが三台並んでいて、仕切りの為のカーテンが天井から吊り下げられている。それから、体重計や身長計が並んでいる。保健室の扉から一番遠いところに、養護教諭が事務仕事をするための机が一台置いてある。白衣に身を包んだ養護教諭は、机の前にある椅子にゆったりと座っていた。


 年齢は二十歳後半くらいだろうか。髪は肩に少しかかるくらいの長さで、色は黒い。銀縁のメガネをかけていて、その奥には大きな黒い瞳がある。インテリジェンスを感じさせる大人の女性だった。しかし、身長はそれほど高くなく、綾女と同じくらいだ。標準的な成人女性よりかなり小さめだ。


「あら、土まみれじゃないの。どうしたの?」


 養護教諭が椅子から立ち上がり、俺と綾女に近づいてくる。


「……転んだんです」


 手持無沙汰に右手を口元に持っていき、肌を撫でる。カサカサと乾いた肌に、砂ぼこりが付着していた。


 綾女はそんな俺の仕草を見て、クスッと笑った。ああ、嘘を言ってる時の仕草だったか。無意識ってのは怖いな。


「まあ、本人がそう言うなら、深くは聞きません。秘密保持は原則だからね。でも、カウンセリングもやってるから、何かあったらちゃんと相談してね」


 養護教諭は少し馴れ馴れしかった。その言動に少しだけ気が楽になる。カウンセリングをやっているだけあって、他人の懐に入るのが上手いのかもしれない。


「打撲したみたいなので、湿布を貰えますか?」


 もとより、保健室に長居するつもりはない。骨にも筋肉にも深刻なダメージはない。あるのは打ち身と疲労感だ。時間が経てば勝手に回復する。


「はい。じゃあ、ベッドに腰かけて待ってて」


 養護教諭に促されるまま、一番廊下に近いベッドに腰かける。綾女も俺の横に腰を下ろした。養護教諭は薬品とか包帯とかが収納されている棚に近寄り、上から二番目の棚から湿布を取り出す。メジャーな製薬メーカーから販売されている普通の市販品の湿布だった。


「一枚? 二枚?」


「えっと、じゃあ、二枚で」


 投げられたせいで背中が痛い。正拳突きを受けたせいで腹が痛い。本当は背中一面に湿布を広げたかったが、それは流石に遠慮しよう。


 養護教諭が湿布二枚を手に持ち、ベッドの周りのカーテンを閉めて、ベッド脇の椅子に座る。


「痛むのはどこ? 足? 腕?」


 養護教諭が一枚の湿布のフィルムをぺりっと剥がす。そのままぴちっと広げて、湿布を貼る準備を整える。


「背中と腹です」


「そう。どんな転び方をしたのかしら?」


 養護教諭はクスリと苦笑する。確かに、養護教諭の言う通りだ。不自然すぎる。


「階段で転んで、そのまま滑り落ちたんです」


 苦しい言い訳をする。右手は自然に口元を触っていた。また綾女がクスッと笑った。


「そう? まあ、そういうことにしておきましょうか。じゃあ、制服を脱いでくれるかしら」


 養護教諭に言われるままに、俺は制服のボタンを外してササッと脱ぐ。肌着もそのまま脱いで、上半身裸になる。ベッドの上に脱いだ服を乱雑に置くと、綾女が口を尖らせた。


「もう。皺になるよ。畳むからね」


「頼む」


 綾女は俺の制服を手に取り、丁寧に畳み始めた。


 勝手知ったる幼馴染だ。半裸の男が隣に座っているというのに、全く動揺した気配がない。綾女にとって、俺の裸は特別じゃないようだ。


「あら。結構筋肉質なのね」


 養護教諭が感心したようように俺の身体の感想を述べる。大人の女性から褒められるのは、何だかくすぐったい気持ちになる。綾女に見られることには少しも恥ずかしくないが、養護教諭に裸を見られるのは少し緊張する。


「じゃあ、背中から貼りましょうか。こっちに背中を向けて」


 養護教諭が立ち上がり、俺に近寄る。俺は上半身を反転させ、養護教諭に背中を向けた。


「どう、この辺り?」


 湿布を持っている人差し指と親指以外の左右六本の指が俺の背中に添えられる。その指先が冷たくて、俺はちょっとドキッとする。


「えっと、もう少し下です」


 養護教諭の指が背中をツーッと這う。その刺激に俺は身体をピクピク震わせる。


「ふふふ。敏感ね。……この辺り?」


 養護教諭の指が痛みのある個所に触れる。


「はい。そこでお願いします」


 俺が合図を出すと、背中にピタッと湿布が貼られた。湿布が浮かないように、養護教諭が何度も俺の背中を撫でる。


「脂肪が少ないのね。いい背筋ね。運動部?」


 最後に軽く湿布の上からポンと背中を叩かれる。一瞬痛みが走るが、親しみが込められた一発だったので、特に怒りの感情は浮かんでこない。


「帰宅部です」


 端的に答えて振り返る。養護教諭を正面から捉える。銀縁のメガネがキラリと輝いていた。


「もったいない。せっかくの高校生活なのに。青春は戻らないものよ。運動部とは言わないけど、部活動に精を出すのも青春だと思うわ」


 つい今しがた岩田先輩と青春っぽいイベントを終えたばかりだ。アレが毎日続くようなことは、遠慮したい。


「そっちの彼女は? 部活はやってないの?」


 養護教諭が綾女の方に視線を移す。この場合の彼女は「シー」なのだろうか、それとも「ガールフレンド」なのだろうか。


 俺は少し言葉の意味が気になったが、綾女は特に気にした様子はない。そう言えば、昔から綾女は俺の彼女扱いされるのを自然に受け入れていたな。まあ、嫌がられないだけマシか。


「はい。家が少し遠いので、部活をすると帰りが遅くなるんです」


 綾女は丁寧に受け答えをする。


「そう。女の子だから、遅くなると親御さんも心配するものね。まあ、人生の先輩のアドバイスよ。実行するかどうかはアナタたち次第」


 養護教諭は笑っていた。他人を明るくするような、気持ちのいい笑顔だった。


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