第3話 間接キスで騒がない


 綾女の弁当箱から、弁当特有の美味しさが熟成されたような匂いが広がった。それが食欲をくすぐったので、俺はお預けを食らっていた総菜パンを頬張った。


 五口でメンチカツパンを食べ終え、俺は五百ミリリットルのジュースのペットボトルに口をつけ、一呼吸置いた。


「あれ、そのジュース……最近テレビでCMしてるやつ?」


 綾女が俺の持っているペットボトルに視線を合わせる。


「そう。安かったから買ってみた」


 興味本位で買ったため、味はそれほど期待していなかったが、まあ、マズくて飲めない味じゃない、といった評価だ。緑色の科学的な色のジュースだが、そのくせ、味に尖った部分はなく、マイルドに甘い。


「私も飲んでいい?」


 綾女が箸を止めて、懇願するように手を顔の前で組みながら尋ねる。こういった仕草に、俺は昔から弱かった。


「いいよ。どうせ、全部は飲まないし。でも、冷えてないぞ?」


 人によるだろうが、俺は一食で五百ミリリットルのジュースを空けることはない。だから、中途半端に余すよりも綾女に飲んでもらった方がいい気がする。


 俺がキャップを開けたままのペットボトルを差し出すと、綾女は丁寧に両手でそれを受け取った。


「うん。じゃあ、いただきます」


 ペットボトルが傾く。


 ああ、間接キスだな、なんて思ったが、俺と綾女の幼馴染の仲でそれを指摘するのは無粋だし、今更だ。小さい頃には結婚の約束までした記憶がある。第三者からは「何で付き合わないの?」なんて聞かれることもしばしば。まあ、幼馴染と恋人は違う気がするので、その質問はいつも適当にはぐらかしている。


「う~ん……まあまあ?」


 綾女は微妙な表情を浮かべ、首を傾げた。


「特に美味しくもないだろ?」


「うん。私ならお金払ってまで買わないかな」


「俺もだ。試飲させてくれればいいのにな」


 スーパーやコンビニ業界はライバルとの競争が激しいと聞く。試飲試食はその攻略の一つになるのではないだろうか。


「太一、ありがとう」


 綾女が俺にペットボトルを返そうと手を伸ばす。俺も受け取ろうと手を上げる。


 しかし、不意にペットボトルではなく、ひんやりとした綾女の手に触れてしまい、思わず手を引っ込めてしまった。


 その結果、ペットボトルの口が俺の方へ傾いた。


「あ――」


 液体が俺の制服に、特にズボンに、滴った。


 俺は慌てて席を立つが、もう遅い。ジュースまみれになったズボンを伝って、膝に、足首に、水滴がツーッと垂れた。


「ご、ごめん。太一、平気?」


 悪いのは急に手を引っ込めた俺であるが、俺以上に綾女が動揺した。


 不幸中の幸いだが、この南斗高校の制服のズボンは黒色である。緑色のジュースとは言え、シミは分かり辛い。


「平気だ。ティッシュ持ってない?」


 俺はハンカチを持っているが、ポケットティッシュは持ち歩かないタイプだ。そして、綾女は小さなポーチにそういった小物を入れて持ち歩くタイプだった。


「あるよ。待って。私が拭くから」


 そう言うと、綾女は立ち上がって、俺の傍に近寄った。そのまま、俺が何か言う前に、俺のズボン――股間のあたりをティッシュで拭き始めた。


「どう? 冷たくない?」


 綾女はぎこちない手つきで俺の股間を撫でまわす。その感触がとてもこそばゆかったので、綾女から離れるために一歩遠のいた。


「へ、平気だ。自分でするからティッシュくれ」


 綾女はまだ何か言いたそうだったが、俺は綾女から強引にポケットティッシュを奪い取り、乱暴にズボンを拭いた。


 その俺と綾女のやり取りを見ていたであろうクラスの女子が、ボソッと呟いた声が耳に届いた。


「えっ、根本、デカくね?」


 誰の声かは分からない。少なくとも、綾女とお嬢ではない。


 だが、その言葉の意味するところは察しがついた。


 俺は身長も体重も並みの中背中肉だ。だから、背も、腹も、デカいと言われるほどじゃない。


 だが、ある一か所に限り、俺は人よりもデカい。


 そう。綾女がジュースをこぼしたことで浮かび上がった股間の輪郭である。――俺は巨根だった。


 俺は急に気恥ずかしくなって、ズボンを拭く手を止め、ズボンのポケットに手を突っ込み、カシャカシャとズボンの中に空気を送り込むように手を振った。そうして、股間に密着しているズボンを離すことに注力した。


「お、俺、トイレ行ってくるわ。ティッシュちょっと貰うからな」


「う、うん」


 ポツンと立っている綾女を残し、俺はそのまま逃げるように教室を出ていった。



 ◇  ◇  ◇ 



 利用者はいるものの、トイレは混んではいなかった。もう高校生だ。トイレの個室で用を足したくらいで、人を馬鹿にするような年齢ではない。だから、そういった風体みたいなことは気にせず一直線に個室に向かった。


 扉を閉めて、カギをかける。そのままズボンのベルトを外し、ズボンを脱ぐ。パンツは濡れていなかったが、ズボンからはジュースの甘そうな匂いとべたつきがあった。できれば水道で洗って干しておきたいところだが、今日は体操服のような代わりになるズボンがない。仕方なくペタペタと叩くようにジュースで濡れた個所をシミ取りのように処置を施す。


 ジュースの水気が大体取れた頃には、トイレに入って五分くらいが経過していた。これ以上、個室を占有するのは他の人に申し訳ないと思い、扉のカギに手をかけた時、個室の外で自分の名前が呼ばれた。


「さっきの根本さあ――」


 俺が知る限り、この南斗高校の一年に根本は俺一人しかない。十中八九、俺のことだろう。俺は好奇心から、扉のカギから手を離し、扉にそっと耳をつけて聞き耳を立てた。


「見た?」


「ああ、見た見た。すげえよな」


「あんなにデカいのは外国人級だぜ」


 ああ、やはり俺の股間の話か。


 俺はそのやり取りを聞きたくはなかったが、トイレの個室から出てその噂話の横を通り抜けるのは気分が悪かったので、仕方なく個室でそのやり取りが終わるのを待つことにした。


「だよな。勉強も運動もできて、おまけに外国人級のナニを持っているとか、アイツ、チートじゃね?」


「ああ。そう言えば、この前の中間テスト、学年で一番だったらしいな」


 俺は自分の学業成績を言いふらすような性格でもなければ、そんな友人も少ない。必然、その犯人に心当たりがある。ほぼ間違いなく、綾女だ。綾女に直接テストの成績のことは言っていないが、俺の両親には報告した。俺の両親が知っていることは、綾女の両親も知るところだろう。すると、その娘にも伝わっている可能性が高い。そして、綾女は俺よりも社交的で、友人は多い。


 綾女に釘を刺しておかないといけないな、と思いつつも、まだ続きそうだったので俺は洋式の便座に腰を下ろした。

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