第2話・オニギリ屋『おにひめ』

 離れの裏戸を開け放ち、道沿いに営業中と書かれた赤色のノボリが立て掛けられると、オニギリ屋『おにひめ』の開店の合図だ。二限目に講義の無い学生が先を陣取り、午前の授業を終えて駆けて来た者がその列の後ろに並んでいく。あっという間に、狭い店から外へ続く短い列が出来上がる。


「日替わりって何すか?」

「ごぼうと人参のきんぴらです」

「……きんぴら、かぁ」


 微妙な表情を顔に浮かべた男子学生は、レジに入っているツバキへと百円玉を四枚差し出して、透明のパックに入ったオニギリ三個のセットを受け取った。その顔はどうやら今日の日替わり具材が期待外れだったようだ。

 すると、すぐさまレジ裏の厨房から真知子の威勢のいい怒声が飛んでくる。


「文句は食べてから言いなっ!」

「べ、別に何も言ってないっす……」


 少し焦りつつも半笑いを浮かべて、男子学生は奥のキッチンを覗き込んだ。真っ白の手拭いを頭に巻いた割烹着姿の真知子は、炊き立てで湯気のたつ白米を両手で三角形に握り、手際よく海苔を撒いていた。

 後ろから会話に割り込んで来た店主のことは気にする素振りもなく、ツバキは淡々とレジ前に並ぶ客達を捌いていく。完全に慣れた状況だ。


「友達が昨日の肉入ってるやつ、めっちゃ旨かったって言ってたし、また作ってよ」

「ああ、牛肉が安く入った時にな」


 「肉しぐれは儲けが少ないんだよ」と冗談とも言えない真知子のボヤキに、レジ待ちの列からもクスクスと笑い声が湧き上がる。「あざーす」と小さく頭を下げて出ていった彼は、週に三度は買いにくる常連だ。


「ここって、まとめて何パックかを予約するとかできますか? 今度のサークルで集まる時に食べたいんですけど――」

「その日が店を開ける気分かどうか、保証はできないねぇ」

「えーっ、普通に営業日ですよ、平日だし」

「平日だろうが、こっちにも都合ってもんがあるんだよ。運良く開いてたら、そん時に買いに来てくれたらいいだけだ」

「うわ、マジか……商売する気、全然ないじゃん」


 土日祝が定休日ということを完全に無視した勝手な物言い。注文を拒否された学生も、先ほどの男子学生と同様に笑いを堪えた顔をしながら、今日買ったパックを大事そうに抱えて出ていく。こういった自由奔放な真知子とのやり取りもまた、この店の売りの一つなのかもしれない。


 店を開ける時間は準備が出来次第。閉めるのはその日に炊いた米が無くなった時か、高齢の真知子の腰が悲鳴を上げそうになった時。或いは、本邸の方に客が訪れて来た時だ。


 今日は白米を全て出し切った後に、翌日の仕込みで高菜を細切れにしているタイミングで、玄関前の玉砂利を踏み歩く音が聞こえてきた。真知子は玄関チャイムが鳴らされてから気付いたみたいだが、耳の良いツバキがさっと先に出迎えに向かう。


「先生。昨日お見えになられた男性が――」

「おや、次は明日来るって言ってなかったっけ?」

「急いで自宅に来て欲しいそうです」

「……もう動いたのか、難儀だな」


 ハァっとわざとらしいほど大きな溜め息を吐き出すと、布巾で手を拭ってから真知子は手拭いと割烹着を脱ぎ捨てる。ツバキは慣れた風にそれらを手早く回収した後、店主に代わって仕込み途中の食材を冷蔵庫へとしまい込んでいく。


 玄関前で青褪めた顔で立ち尽くしていた男は、真知子の姿を見つけると必死の形相で縋りついてくる。昨日はそれなりに身なりも整っていたはずだが、今はスーツのボタンは掛け違え、シャツの右襟は裏返って折れ曲がっている。髪も乱れた、そのヨレヨレっぷりな様子から、彼の余裕の無さが嫌でも伺い知れた。


「せ、先生っ、助けて下さい……は、母が、母がっ……」


 よく見れば、男の首筋には数本の長いミミズ腫れ。薄く出血しているようだから、そこそこ深い傷だ。爪でえぐられた痕のようなそれは、冷静になった時にヒリヒリと鋭い痛みを感じるはずだろう。これが生きた人間の仕業かと思うと、狂気の沙汰じゃない。


 あわあわと状況を説明しようと試みるが、焦りと恐怖から言葉をまともに紡ぐことが出来ないようだ。真知子の腕を指が食い込みそうなほど強く握って、必死で助けを求めてくる。平静を保ちながら、真知子は掴まれている手を振りほどいて、屋敷の中へと一人で入っていく。


「そこで待ってな。護符はもう用意してあるから」

「お、お願いします……」


 玄関前に残された男は、石畳の上に膝をついて項垂れる。ついさっき遭遇したばかりの恐ろしい体験でも思い出したのか、ガタガタと身体を震わせていた。両目を強く瞑り、ここに駆け込んでいること自体が夢であればと必死に願っているようにも見えた。


 ほどなくして、紙の束と数珠とを握りしめて戻ってきた老女は、屋敷の前に停められていた男の車へと急いで乗り込む。シルバーの乗用車は急発進して男の自宅へ向かって走り出した。


 丸投げされた離れの片付けを済ませて本邸へ戻ってきたツバキは、遠くにもう一人の家人の気配を感じて、普段と同じように電気ケトルに水を入れて湯を沸かし始めた。食器棚から昨日の残りの焼き菓子を取り出し、いつでも淹れて出せるようにとティーカップを盆の上に乗せて準備する。


「ただいまー」


 引き戸がカラカラと開き、普段と変わらない調子の美琴の声が、屋敷の玄関内に響いた。

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