◆編訳者解説

①暦と時刻について


 大公国を含む、この大陸の大半の地域では、かつての帝国時代に制定された太陽暦および年号を用いている。帝国は言語と暦、度量衡などを規定して版図の全域に適用させており、いずれも合理的で理解しやすいこともあって定着していった。これが帝国崩壊後も、ほぼそのまま各地で使い続けられているのだ。


 年号は「紀元」で示すのが通例(帝国が制定した正式な年号は「代紀」)とされるものの、むしろ年号表記を省略する用例が圧倒的に多く、一般的には年号を意識する必要すら認識されていない。帝国の版図は大陸のほぼ全域に及び、帝国の暦や年号に馴染んだ多くの地域では帝国崩壊後もそのまま使い続けたため、他の年号を必要としなかったし、年号や暦について考察を巡らすほどの知識を持つ者すら極めて稀だ。

 それでも、帝国版図だった地域でありながら帝国の伝統を否定した一部地域で、暦そのものを使い続けながら年号のみ独自に制定した例や、そもそも帝国版図になったことがない離島などの一部地域で異なる暦年体系を使う例がみられる。ただ、これらは極めて例外的で、他地域への影響もほとんどなかった。


 帝国の暦は太陽の動きを元にした太陽暦だが、月の動きに基づく太陰暦も、一部で利用されることはある。特に海の近くでは、太陰暦の方が潮の満ち引きを把握しやすいといった実用面もあって、帝国時代より前からの暦が廃れずに残った例も多い。ただし五世紀頃において、純粋な太陰暦で生活しているのは、帝国との接触すら確認されておらず、帝国の暦を近年まで知らなかった絶海の離島の民などごく一部に限られ、しかも彼らは年号の概念を持たないことがほとんどだ。

 帝国の暦を使いつつ、生活の一部に太陰暦を取り入れている例は、大陸沿岸部や大陸周辺の島嶼部を中心にみられる。比較的多いのが、月齢に基づく祭礼日や忌み日などを決めるだけの目的で太陰暦を用いる例だ。このような使い方は古い民の末裔たちの間で伝えられてきたものとみられ、帝国以前の諸民族の分布や移動の様子を解き明かそうとする者たちの手掛かりの一つとされる。その一つが、大公国がある大陸南西部において代表的な太陰暦として知られる「月の暦」だ。月の暦は大陸南西岸一帯を中心として広い範囲に伝わっており、様々な民が用いている。暦とともに拡散した古い民が、後に入ってきた民と混ざり合って特徴を失っていきつつも、暦などの文化は残していったと考えられる。また、その分布域の周辺でも、太陰暦を日常的には使っていない集落で、この「月の暦」に由来するとみられる特定の月齢の祝祭日や忌日があることが知られている。たとえば、大公国平原の大河下流域における調査では、同様の月齢祝祭日や忌日を用いる集落の分布が、大潮の際に海水が大河を遡行する範囲とほぼ一致しているため、海から遡上してきた古い民が一定数いたとする説が有力だ。

 一方で、特定の職業の者たちだけが月齢を意識して生活している地域もある。わかりやすい例が伯爵領だ。帝国の遺風が色濃く残る伯爵領では、もちろん帝国の暦が広く用いられている。ところが伯爵領は航海術に長けた国でもあるため、船舶や港湾の業務に携わる者たちは数多い。こうした人たちが業務の都合から、月齢を常に把握し、潮の満ち干を踏まえて活動しているのだ。


・一年間の暦

 暦法でいえば、帝国の暦は概ねグレゴリオ暦に近い。一年間の日数は地球と同じく約三六五日で、十二の月に分けられており、月とは別に七日で一週間という区切りがあるなど、多くの共通点や類似点がある。一日の中での時刻も、定時法で二十四時間制、一時間を六十分とし、一日の始まりとされる時刻も我々がいう〇時に相当するなど、やはり違和感は少ない。それどころか、むしろ我々の暦より合理的な考え方に基づいて作られているらしく、秩序正しく整理された暦体系となっている。

 帝国の暦では、一年の始まりは冬至の当日で、この日が必ず一月一日かつ日曜日となる。同じく春分は四月一日、夏至は七月一日、秋分は十月一日で、いずれも必ず日曜日と決まっている。冬至から三カ月間が冬季とされ、帝国の正式な表記では「冬至の一の月」「冬至の二の月」「冬至の三の月」、短縮形の略記法でいうと「冬一月」「冬二月」「冬三月」となる。同様に春分から三カ月が「春分の一の月」「春分の二の月」「春分の三の月」、あるいは「春一月」「春二月」「春三月」となり、これらが四月から六月に相当する。夏至や秋分からの三カ月も、その規則性は全く同様だ。

 一カ月の中での日付や曜日は、春夏秋冬それぞれの「一月」が三十一日間、「二月」「三月」は各三十日間と決まっており、各四半期は九十一日間で十三週、十二カ月は三六四日で五十二週となる。また曜日については表に示したように、四季ごとの「一月」が必ず日曜日から始まり、「三月」が必ず土曜日で終わる。


四季ごとの曜日配列


日 月 火 水 木 金 土


1月(1,4、7,10月)

1 2 3 4 5 6 7

8 9 10 11 12 13 14

15 16 17 18 19 20 21

22 23 24 25 26 27 28

29 30 31


2月(2,5,8,11月)

1 2 3 4

5 6 7 8 9 10 11

12 13 14 15 16 17 18

19 20 21 22 23 24 25

26 27 28 29 30


3月(3,6,9,12月)

1 2

3 4 5 6 7 8 9

10 11 12 13 14 15 16

17 18 19 20 21 22 23

24 25 26 27 28 29 30


 ただし訳出時には煩雑を避け、特に必要がない限り一月から十二月の表記に置き換えた。冬至/春分/夏至/秋分の日付でわかるように、グレゴリオ暦とは若干のズレがあるため、季節感を読み解く上ではその点を留意いただきたい(帝国歴の日付より一週間ないし十日ほど前の日付を想起すると、概ねグレゴリオ暦での季節感に近い)。また、曜日も本来はそれぞれ全く異なる語句だが、訳出時には便宜上わかりやすい「日月火水木金土」に置き換えることを基本とした。


・越年の日と越年祭、閏年

 帝国の暦には、十二カ月/五十二週の三六四日とは別に、どの月にも週にも属さない日、「越年の日」があるのが大きな特徴だ。毎年、冬至直前の一日間、閏年なら二日間が越年の日に定められており、平年であれば十二月三十日(土曜日)の翌日が越年の日、さらに翌日が冬至すなわち一月一日(日曜日)となる。これによって閏年を調整しつつ、月日と曜日を毎年規則正しく繰り返す。

 閏年は四年に一度を基本としつつ、閏年に当たるはずの年でも天体運行に合わせた調整で越年の日が一日間となる場合がある(概ね百年に一度くらいの頻度とされる)。閏年の調整については毎年夏から秋にかけて、帝国の宗教体系に従う各地の宗教組織から、現地の為政者や民に周知される。なお、越年の日が二日間となる場合、必要に応じて初日を「閏一の日」、翌日を「閏二の日」などとして区別することもある。このうち重視されるのは、閏二の日だ。越年儀礼は一月一日を迎える深夜〇時を祝福し、来る一年間に向けて思いを新たにするといった意味合いを持つためである。ちなみに、越年の日に誕生した者が誕生した日付や曜日を必要とする場合、通常の暦にない「十二月三十一日(日曜日)」を便宜上の誕生日とするのが通例だ。閏二の日に誕生した者も同様で、閏年でない年には閏一の日を誕生日とみなす。また余談だが、一年が始まる一月一日に対し、閏年を調整する越年の日は前年の最終日でもあることから、一部の宗教関係者の間では「年末調整日」と称することもあるらしい。

 越年の日から一月一日にかけては、多くの地域で越年の宗教儀礼やそれに伴う越年祭(または冬至の祭り)が催される習わしだ。一年のうち最も重要な季節の祭礼とされ、祭礼を司る宗教関係者や、人出で混雑しがちな市街地の警備に就く街役人や番兵など一部の人たちを除き、ほぼ全ての人々が仕事を休むものとされている。台所を預かる者たちも、作り置きの料理を大量に作って食卓に積み上げるようにしておき、家族や来客が自由に飲み食いできるようにして、この日ばかりは多くが休みを取るのが基本だ。こうした作り置きの料理が、農村などの集落では近所の人たちへ飲食を振る舞う習慣につながり、さらに都市部では屋台などの出店へと発展して販売するようになり、多くの人が祝祭の行列で練り歩いたりしつつ食べ歩きをする風習ができていったと考えられている。

 大公国の内乱が終わった四八一年の越年の日は、本編にもあるように閏年で二日間となった。多くの人にとって、越年祭が二日間に渡る閏年は休日が一日多くなり、それだけでも嬉しいものである。辛く苦しい内乱が終わった安堵感や開放感、そして内乱で失われた多くの命を弔う思いなど、様々な条件が重なって、この年から新たに始まった風習も多い。


・時刻表記

 時刻は一般的に二十四時間表記を用いるため、何ら違和感はないことから訳出時も原則としてそのまま用いた。ただし帝国の表記では、一日を六時間ずつ四分の一に区切って、それぞれの区切りの中での〇時から五時とする六進法が正式だ。この六時間の区切りは「四半日」と呼ばれ、午前〇時からの六時間を「一の四半日」、午前六時から六時間を「二の四半日」として表記、たとえば〇時は「一の四半日〇時」、あるいは略記法で「一の〇時」「一・〇」などとなる。十時は「二の四半日四時」または「二の四時」、十七時は「三の四半日五時」や「三の五時」といった具合だ。

 多くの地域では、教会や神殿など各地の宗教施設が鐘や太鼓、喇叭などを用いて近隣の人々に時刻を周知しており、このとき帝国の正式表記を使って、長短あるいは高低の音の組み合わせとして伝えることが多い。長音あるいは低音の数が四半日を、短音あるいは高音が刻限をそれぞれ示し、たとえば鐘の音の高低で十時を示す場合は低音二つに続けて高音四つ鳴らし、喇叭の音の長短で十七時を示すなら長音を三回吹いた後に短く五回吹いて伝える。なお、一時間より短い時間の単位は、「半時間」や「四半時間」など大まかな分割で認識する者が多く、分刻みで時刻を意識する者はほとんどない(綿密な作戦行動の中で反乱軍の指揮官たちが使うことはあったようだが)。



②学齢と学校制度について

 大公国の貴族学校や商業組合の学校は夏至に年度替わりを設け、七月一日時点の満年齢に応じて学齢が区切られる。この年度区切りは貴族学校から始まったもので、主食として最も広く栽培されている麦の収穫が終わりつつある頃、収穫物が他の用途で消費されてしまう前に学費として納められる、といった考えがあったらしい(諸説あり)。実際には、寄宿舎生活を送る者たちでも里帰りして(もちろん近郊から通う者たちも)収穫などを手伝えるよう、年度替わりの前後合わせて一カ月間ほどの休暇がある。貴族学校より少し遅れて開設された商業組合の学校も、ほぼこれに合わせて日程を決めた。穀物商や茶商など夏場が繁忙期となる商家は割と多く、好都合と判断された模様。

 入学や卒業の年齢についても、貴族学校の規定を商業組合の学校も取り入れており、基本的に共通だ。初等教育課程への入学は七月一日時点で満八歳、中等教育課程の入学は満十三歳、卒業は満十八歳を、それぞれの目安とする(つまり標準的には5年間ずつ。事情により例外的に異なる年齢での入学や卒業、新旧などが認められる場合もある)。貴族学校の高等教育課程では、貴族学校の中等教育課程修了が正規の入学条件とされ、内乱後には商業組合の中等教育からでも入学できるよう条件が変わった。その他、貴族学校の一部校舎(城下本校と離宮校)には、初等教育よりも前の満五歳から任意で学ぶ幼年教育課程もあり、裕福かつ教育熱心な中堅貴族などが子供を通わせている。


 貴族学校も商業組合の学校も主に中流以上を対象とした教育機関だが、それとは別に、大公国時代から修道院や一部の教会が運営する寺子屋で、基礎的な読み書きと計算を無償あるいはごく安価な費用で教わることができる。大公国の寺子屋は修道会が発足する前はほとんど存在せず、各地に修道院ができて広まっていった。寺子屋には特に年齢の規定はないが、概ね六~十二歳程度の子供たちが通って学ぶことが一般的だ。子供たちまで働かないと生活が成り立たないような貧困層や、近隣に寺子屋が存在しない辺境の民、その他の事情で学校に行けない者を除けば、多くの庶民が学んでいる。庶民の生活においては、寺子屋で学ぶだけでも多くの不利益を回避することが可能になり、恩恵を感じる者は多い。また、寺子屋で学ぶ程度の読み書きを前提とした平易な書物も数多く印刷・出版され、歴史的には庶民の娯楽や教養の幅が大きく広がったと評価されている。

 内乱後、修道会や教会が運営していた寺子屋のほとんどは、暫定政府や新政府、あるいは地方自治体の管理下に置かれ国公立の基礎教育学校となった。これらの学校は、寺子屋だった頃とほぼ同じく六~十二歳の子供たちを主な対象とし、共和国の民は基礎的な教育を無償で学ぶことができる。ただし、国公立の全ての学校には政府が定めた基準に準拠した教育を行うことが義務づけられており、この政府による指導要領と教科書の中には、元貴族に対する蔑視を助長する内容が少なくなかった。元貴族の中には、様々な場面で元庶民から不当な扱いを受けることがあり、原因の一つがこの指導要領ではないかとの指摘が出てくる。何年も後に議会で宮廷派が問題提起し、教育庁の姿勢を繰り返し批判して、ようやく改善がみられるようになるまで、この問題は長らく続いた。

 そもそも、本編にも書かれている宗教と金融の事業分離政策の影響で、多くの修道会や教会が寺子屋の運営を維持できなくなったところを、すかさず政府や自治体が取り込んだ形だ。反乱軍時代から公約のように布令で示していた全国民への無償教育を実現するためとはいえ、いささか卑怯かつ姑息な手法ではなかったかとの批判も、指導要領や教科書の問題と関連して取り沙汰された。

 とはいえ、城下女子修道院が運営していた寺子屋のように、国による「買収」を辛うじて回避した寺子屋も、一部には残った。また共和国外でも、宗教組織や自治会、商業組合などが寺子屋を運営する例は数多く、共和国にも内乱の数年後からは同種の学校が増加していく。例えば城下の商業組合では内乱の三年後、商業学校や家政学校の初等教育を拡充する形で、六歳からの幼年教育課程を設置している。また、軍でも内乱の五年後、主に駐屯地の官舎に暮らす軍人・軍属の子供たちが容易に通える学校が必要だとして、教育庁の枠組に含まれない幼年学校を橋の街校外の駐屯地に設置、その後も他の多くの駐屯地に展開していった。共和国の教育庁もそれらの動向を無視できず、国による教育内容の規定を緩めざるを得なくなっていった。



③大公城下の旧市街および周辺地域について


 大公国の首都は、国土の中でも北東の端に近い場所にある。大公の先祖となる武将が大公国平原の平定に乗り出してほどなく、平原各地へ進出する軍事拠点として丘の上に砦を置いたのがその発祥という。

 平原北辺は北の王国の南端に接しており、緩やかに起伏する丘陵が広がる中に、平原を流れ下る大河が一筋、広い谷間を作っている。大公の先祖が拠点とした丘は、その中でも特に大きいだけでなく、頂上付近に泉が湧く不思議な丘だった。守りやすい地形で豊富な水も得られ、しかも当時の平原に住まう民はその丘を魔の丘として忌避していたことから、大公の先祖にとって拠点を置くのに最適な地という判断だったのだ。

 最初の砦は全て木造で、泉のほとりに武将および家臣たちの居館と高い櫓、さらに周囲に厩や納屋を建て、馬を運動させたり兵たちを終結させられる程度の広さに塀を巡らしたもの。建物や塀の材とするため、また見通しを良くするため、丘の頂上付近の木々を伐採したため、平原を広く見渡し、彼らがいう「荒ぶる民」を警戒できるようにもなった。この最初の砦の敷地が、後の大公宮殿や私邸、そしてその周囲を取り巻く上屋敷町の領域に重なる。


 砦の周囲には麓へ通じる道がいくつか作られた以外、初期には自然のままの森林が丘の中腹から裾野まで広がっていた。しかし平原の荒ぶる民を平定するという武将、すなわち後の大公の先祖の活躍に期待して、北の王国などからの民が砦の近くに次々と入植してくる。このうち畑作や牧畜を手掛ける者たちは、丘の麓の緩やかな斜面や平野部に入り、疎林や草原を開墾していき、荒ぶる民の襲撃に備え集村形式の集落をいくつも作っていった。初期の入植者は自営農が多かったようだが、当時は未だ荒ぶる民の勢力が根強かったこともあり、農民たちの自衛手段には限界があったことから、民の多くは武将に保護を嘆願。これを受けて武将は、農村を敵から守り治安を維持すべく、配下の騎士たちを領主として送り込んだ。多くの領主は、その所領の中で守りやすそうな立地に館を建てて石積みの塀を築き、有事の祭には領民たちを塀の中で保護する役割を担った。

 一方で商工業を生業とする者たちは、いざというとき砦に逃げ込めるよう、塀の外側の出入口に近い地区から順次、木々を伐採しては住居を建てて定住していった。初期に入植した民たちは、砦を取り巻くように集落を作っていく中で、集落ごとに独特の役割を担うようになっていく。そこから発展していったのが、御蔵町と鍛冶屋町、そして材木町だ。

御蔵町には穀類をはじめ食料品を扱う者たちが多く集まっており、後に彼らは穀類卸を営むようになって、多くの領主たちから穀類を買い付けては各地の小売商へと販売していく。鍛冶屋町は、武器や武具のほか工具や農具など様々な品物を作り、修繕する金工職人の町として発展し、特に騎士たちのための武具職人が代表的であることからその名がついた。そして材木町は名前の通り材木を主に商う者たちが集まってできた町で、初期には材木卸や製材職人、大工などが大半を占めていた。しかし後の大火で街の建物が石造に切り替わるのと同時に、材木卸や製材職人に代わって石材商や石工が主流となっていき、他に建築資材、家具や什器などを扱う商家が軒を連ねる。

 これら三つの町が成立してきた頃には、さらに外側、より標高の低い地区にも人々の住居が広がるようになってきていた。その中で御蔵町に隣接するのが、酒や油などの商家が集まる樽甕町と、雑貨乾物商などを中心とした萬町だ。この二つの町内は、御蔵町が成立・発展していく過程で多数の穀物倉庫が建ち並ぶようになったことから、穀物卸以外の食料品関連商家が隣接する地区へと移転し、それぞれ似た業種が集まって町を形作っていった。また鍛冶屋町でも同様に、武器武具職人以外の金工職人たちが隣接する地区に移り、さらに他の様々な職人たちも集まって、鋏町を形作っていく。ちなみに、この鋏町の職人たちの中には写本職人も含まれており、その末裔の一部が後の『稀覯本を守る怪物』となった。


 大火は木造時代に何度かあり、最後の大火が最も広い範囲を焼き尽くした。そこで時の大公は街を石造で再建することを決定。恒久的な建物などでの木材の使用を厳しく制限すると同時に、各町内の区割りを整理し上下水道も整備、道路や路地もほとんどを石敷に作り替えた。この大規模再建の結果、後の時代に震災で一部地区に火災が広がったことはあるが、それを除けば大規模な火災のない街ができあがった。

 しかし一方で建築費が高騰、賃貸物件の賃料も大幅に値上がりし、木造建築が許される城壁外へ移り住む者も増加していく。また商家でも、広い敷地を要する倉庫などを郊外へ移す例が増えていった。特に、御蔵町の穀物卸や樽甕町の酒類卸、そして材木町の材木商や石材商などは、その商品倉庫の多くを郊外に持つことが一般的となり、取引も次第に郊外で行うことが主流となっていく。

 これらの町内の土地や建物は、住宅や事務所のほか小売店や飲食店へと転用されていくことになる。御蔵町では麦の挽き売りやパン屋、焼き菓子などの小売店、および富裕層向けの高級料理店などが主流となり、樽甕町では酒の量り売りから転じて飲み屋、さらに夜の店、また油を使った揚げ物店などの街となっていった。その一方で、材木町には小売店や飲食店の類はあまり増えることはなく、他の町内より閑静な住宅街といった風情になっていく。上屋敷町が手狭になっていたこともあって少なからぬ貴族がここに屋敷を構えることになったほか、国教会城下司教座(後に宗旨替えして修道会城下管区長座すなわち城下女子修道院となる)も城下大規模再建を機に上屋敷町から材木町へ移った。城下商業組合が学校を設立する際にも、飲食店が並ぶ賑やかな他町内を避けて材木町が選ばれている。

 小売店は他の町内にも多く、特に萬町では店ごとの規模こそ大きくないものの、雑貨のほか各種食材、調味料、茶葉、菓子材料など、多彩な商品を扱う店がある。鋏町も、布地・仕立・装飾品などの職人が多いことから、それらの素材となる品々を扱う小売店が多いほか、書店や文具店も多い。



 城下の街を囲む城壁は、最初期の木造の塀から、ほどなく石積みの壁へと変えられている。初めて石積みとなった時点では木造の塀と同じ場所に壁が築かれたが、後の大公はより広い範囲を城壁で囲い、古い城壁を解体して市街地を拡大した。大公国末期までの間に、少なくとも二度の大規模な市街地拡張を経てきたことが知られている。

 この石積みの城壁は、近隣の丘から切り出された石材を使い、国内の他の場所で得られる石灰岩から作られた漆喰で繋ぎ合わせてある。大規模再建で街全体の建物を石造とする際にも同様の工法が使われたが、特に石工と石材の不足が顕著となり、再建が完了するまでには二十年以上の年月を要した。その間、石造建築の住宅が間に合わぬ住民たちの多くは、焼け落ちた自宅跡に木造の仮設住宅を建てて暮らしていたという。

 再建に臨んだ初期の石工たちは、親方一人で数十人もの徒弟を従えて働きつつ育成した、とも伝えられている。そうして育成された石工たちは、城下の大規模再建を終えた後、各地の領主から館や壁の建設を依頼され、その要求に応えた。一方、石材不足に対しては広く大公本領の各地で石切場が開発されていき、城下旧市街の建物には多種多様な石材が使われることになる。ただし、城壁の石材だけは原則として城下近くの丘の石材を使うものとされ、急を要する補修工事においてのみ、加工しやすい凝灰岩など他の石材の利用が例外的に認められた。

 この城壁には複数の大きな門と、いくつかの小さな出入口が設けられている。大公の治世を終わらせた内乱の時点では、南南西に面した正門が最大かつ最も堅固に守られており、これに次いで大きなものが東北東に向いた東門だ。この二つの門には東西街道が通じており、東門は東へ向かう街道、正門は西へ向かう街道への出入口となる。街道そのものは城壁の外側を迂回しており、城下に立ち寄ることなく行き来することも可能。また城壁内でも、正門と東門に通じる道は特に広く作られ、どちらも宮殿前広場へと通じている。なお、東門の次に大きな門はほぼ真北に開く北門だが、東西街道からは離れているため人や物の行き来は多くない。北門を出るとすぐ大河の岸辺に出てしまうが、この城壁から大河までの土地は主に野菜畑として耕作され、新鮮な野菜を城下の人々に届けるため使われる。

 内乱末期の籠城に際しては、城壁の石材やモルタル目地が傷んだ箇所を補修すると同時に、小さな出入口も全てありあわせの石材を使って封鎖された。城下を包囲した反乱軍は残る三つの門を主な攻撃対象とし、とりわけ正門には最も重点的に攻撃態勢を整えた。逆に北門は大河が背後に迫る形で、包囲側の陣地に余裕が乏しかったことから、あまり積極的な攻撃を行っていない。一方で城門も正門ほど頑丈ではなく、一対の落とし扉があるだけだったので、外側からの燃焼弾攻撃のみで門扉を焼いて落とすことができた。東門は正門と同じく二重の門扉を持っているものの、やはり門扉は正門ほど堅固ではなく、外側からの燃焼弾投射で焼け落ちている。

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傀儡の姫・上巻 安辺數奇 @yasupenski

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