第186話 とある剣闘士の渇望

「ギッ、ギギィーッ!!」


 愚直な突進で押し寄せるラットドラゴン。

 その質量と速度が合わされば矮小な存在など一溜まりもないが、私は臆することなく足場を固め、ぐっと剣を握り締めてその時に備える。


 そして迫りくる衝突の瞬間に合わせて全力で剣を突き入れ――――ガンッ、と眼球に弾かれた。


「ッ!?」


 壁に当たったような衝撃に驚く間もない。叩き折られた剣もろとも、私の身体は端の壁まで撥ね飛ばされた。


 激しい打ちつけで瞬間的に呼吸が止まる。


 過去の経験から肋骨を損傷した事が分かったが、それでも撥ね飛ばされて距離が取れたのは幸いだった。その場に留まっていたら、為す術なくラットドラゴンになぶり殺しにされていたはずだろう。


 剣が折れて心が折れかけている私の耳に、観客の嘲笑が届く。おそらくは過去にも同じ事をした者が居たのだろう。


 竜鱗に剣が通らないのは私ですら知っていた。それならばと、一見して脆そうな眼球を狙う者が居ても不思議ではない。……まさか眼球まで剣が通じないとは、どこまで理不尽な存在なのか。


「ギギッ、ギギィィッ――!」


 獲物を捉えた事で上機嫌に吼える怪物。

 ラットドラゴンは獲物を動けなくしてからなぶる習性があると聞いた。剣が折れて動きの鈍った私に待っているのは凄惨な未来だけだろう。


 それでも私は自死を選ばない。最後の最期の瞬間まで魔族の意地を見せつけよう、と痛む身体を動かして立ち上がる。――その直後、舞台の時が止まった。


 ふわり、と誰かが舞台に降り立った。


 私を庇うように誰かが観客席から飛び降りた、と気付いたのは数瞬後の事だった。そして同時に闘技場では異変が起きていた。


 剣闘士の試合を妨害すれば騒ぐはずの観客が静まり返っていたし、なにより最凶の執行者たるラットドラゴンが動きを止めていた。


 生態系の最上位に位置するはずの竜種が、たった一人の闖入者を恐れるように唸っていた。


 その闖入者は決して大柄ではない。むしろ人族の中では小柄な部類に入るはずだ。だがしかし、その後ろ姿は天地万物を屈服させる支配的な覇気に満ちていた。


 それはまるで大渦の中心。


 周囲の存在を薙ぎ倒すような、全てを平伏させるような、自然災害めいた圧倒的な存在感を世界に放っていた。そしてその人物が振り返った直後、私の魂に電撃のような痺れが走った。


「……いや申し訳ないです。貴方なら勝てそうだと思って様子を見てしまいました」


 その少年は覇気を消してバツが悪そうに謝罪した。対して私は言葉が出せなかった。この少年が、この御方が、私が待ち望んでいた存在だと魂が理解して震えていたからだ。


「竜種には共通の弱点があるのでそこを突けば問題無いと思ってましたが……ここではその情報を得る機会が無かったみたいですね。すみません、僕の考えが足りませんでした」

「っ、あっ……」


 私は情けなくも緊張で言葉が紡ぎ出せなかった。この御方に――魔王様に、最強の剣闘士として謁見する事を願っていたにも関わらず、待ち望んだこの時には幼子のように声を詰まらせている。不甲斐ない我が身を恥じるばかりだった。


「――――おっと、まだ相手は続けるつもりみたいですね。無益な殺生は好ましくないですが、仕方ありません。ここは僕が片付けておきましょう」


 その言葉で今更ながらに現状に気付く。


 生物として遥か高みに君臨しているラットドラゴンは、自身が屈服した事を否定するかのように目をギラつかせていた。どうやら魔王様が覇気を収めた事で戦意を取り戻したようだ。


 そして魔王様は気負いもなく横に動く。

 ラットドラゴンの突進に私を巻き込まない為だ、と即座に気付いたが、私の心に焦りの感情は生まれなかった。


 本来であれば私の為に魔王様が危険を冒すなど許されない事だ。しかし私は確信していた。悠然と竜を見下ろす偉容から、一分の隙も見えない立姿から、これは魔王様にとって取るに足らない些事なのだと確信していた。そして、それは正しかった。


「ギギィーッ!!」


 爆発したような勢いで迫るラットドラゴン。しかし魔王様は爆風を受け流すようにするりと躱し、それと同時に手に持った木刀を突き入れた。それだけ、ただそれだけだった。


 ズシン、と糸が切れたように崩れ落ちる巨体。生態系の最上位に位置している竜種が、数多の戦士を屠ってきた闘技場の最強が、小兎を狩るかの如くあっさりと命を断たれていた。


「ほら、ここですここ。この逆鱗だけが他と比べて脆いんですよ」


 竜狩りを誇るでもなくニコニコしながら弱点を語る魔王様。しかし、私はあまりの衝撃に言葉が上手く呑み込めなかった。この闘技場の中で魔王様の絶技に気付いた者がどれだけ居るだろうか?


 竜種は弱点を知っていれば倒せるという存在ではない。まずラットドラゴンの突進が躱せない。


 回避が早過ぎれば軌道修正され、回避が遅過ぎれば挽肉にされる。剣闘士の最強とされている私でも並々ならぬ難事だった。


 それを魔王様は悠々と回避した上、あの速度下で小さな一点を的確に貫いた。


 これは音に聞こえた極大魔術ではない、才人が極限まで研ぎ澄ました『武』だ。それを悟ったが故に、私は驚愕で固まっていた。


「……ッ、射てッ! 射てェッッ!!」


 そんな状況の中で動いたのは闘技場の射手。この御方が魔王様と察した訳ではないだろうが、竜殺しの闖入者を恐れるように危険因子を排除するように弓を構えた。


 無論、それを黙って見ている私ではない。


 魔王様の矢避けになるべく踏み込もうとしたが――――不要、と視線で制止を受けて踏み止まった。


 確かに、魔王様の技量ならば射手の二人や三人は問題にならない。射手の矢を軽々と切り払うに違いない、とそう思ったが、それは私の想像を遥かに超えていた。


「な、なんだ!? 矢が浮いて……!?」


 射手が放った矢は、魔王様の眼前で――中空で静止していた。明らかな異常に騒然とする闘技場。魔王様がラットドラゴンを屠った時には呆然と静まり返っていたが、この奇跡のような光景には好奇や恐怖が混じったざわめきが起きていた。


 しかし、これは始まりに過ぎなかった。


 中空の矢が反転して射手を襲う。その速度は放たれた時より遥かに速い。三人の射手は動く間もなく、一矢必殺で脳天を貫かれていた。


「っ、わぁぁッッ!?」

「しゃ、射手が殺されたぞっ……!」


 そして射手が絶命した事で場は大混乱となった。安全圏だと思い込んでいた場所で死者が出たことが衝撃だったのだろう、終始一貫して他人事だった観衆たちは我先にと出入り口に殺到し始めた。


 そんな見苦しい大衆には目もくれず、魔王様は立ち尽くす私に静かな目を向けた。


「とりあえず、これだけは最初に伝えておきましょう。僕は人族と魔族の共存を目指しています。これから魔族の皆を安全な場所まで案内しますが……その際、一般の人々には手出し無用でお願いします」


 それは思いもよらぬ下知だった。

 反射的に過去の記憶が蘇る。連中の憂さ晴らしで嗤いながら殺された兄、戦績が奮わず魔物の生き餌にされた仲間、ありふれた日常の試合で落命した想い人。


 思い出すだけで筆舌に尽くしがたい胸の苦しさを覚えたが、それでもその想いはぐっと呑み込む。


 魔王様は人族の蹂躙を望まれていない。ならばそれが正しい。私の無価値な怨讐などは心の奥底に沈めなくてはならない。


 しかして言葉を纏めて声に出そうとすると、魔王様はふわりと笑みを浮かべて言葉を重ねた。


「……あぁ、もちろん闘技場の関係者は別ですよ? 奪われた尊厳を取り戻す為にも、この悪業の再発を防ぐ為にも、徹底的に、完膚なきまでに叩き潰してから行きましょう」

「っ……」


 魔王様は、私の、私たちの想いを汲み取ってくれた。私は心が溢れて言葉が出せず、子供のようにコクコク頷くことしか出来なかった。


 そんな私を包み込むような優しい微笑みに目元が熱くなるが、しかし今日という晴れやかな日に涙を見せる訳にはいかない。だから私は上を向いた。目に溜まった水が、零れ落ちないように――――

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