第120話 試される訪問者

 ヒルトロン家の応接室には不可思議な空気が漂っていた。部屋の端に並ぶのは使用人の皆さん。上級貴族の使用人なので彼らも貴族だと思われるが、意外にも使用人一同に差別的な気配は感じられなかった。


 むしろ溺れている最中に浮き輪を発見したかのような、どこか感謝的な眼差しを向けられている感覚がある。下の人間がこの様相なら僕の生還も夢ではなさそうだ。


 それでも僕は油断しない。


 いざとなったら屋敷から逃げられるように、胸中で様々な逃走方法をシミュレートしている。差し当たり、命の危険を察したら即座に窓を突き破るつもりだった。


『ふふん、そう案ずるなコール。危急の際には余が庇護してやろう』


 そこはかとなく察してはいたが、なんだかんだ言いながらもカイゼル君は僕を守る為に同行してくれたようだ。


 精霊無しの扱いを知っていたので単身訪問が心配だったに違いない。しかし、危急時には王子君を庭に投擲するつもりなので気持ちだけ貰っておく。


『ありがとう。でも大丈夫だよ、万が一の事態に備えているだけだから』


 危急時の対応を胸中に隠しながら王子君をぷにぷにする。まぁ実際、今回はそこそこ楽観視している。


 ヒルトロン家の使用人一同の態度もそうだが、チーフさん――専属従者がわざわざ迎えに来たという点も安心材料だ。


 聞けばチーフさんは筆頭従者。本来ならお嬢様に付きっきりであるはずの人間が動いていた事には誠意を感じるものがあった。


 ちなみにそのチーフさんはお嬢様を呼びに出ている。ここに居るのは見知らぬ使用人一同と、車中での失言で暴力的指導を受けたチャラ従者さんだけだ。


 このチャラ従者さんも一応は専属扱いらしいのだが、もう今日の仕事は終わったとばかりにあへーっとしている。


 彼を監督する上司には同情を禁じ得ないものの、仕事中とは思えない弛緩した態度には緊張も和らぐ。これはこれで良い仕事をしていると言えなくもなかった。


 そんな緩い空気の中、その時は訪れた。


 応接室の扉が重々しくも静かに開き、チーフさんがお嬢様を伴って入室した。――――確かに、見覚えのある女性だ。


 言うなれば、存在感が濃くて薄い女性。


 ゴシックロリータと呼ばれる黒を基調とした絢爛な衣装は印象的だが、それを着ている女性には派手派手しさが欠片もない。


 綺麗に切り揃えられた黒髪、造形物のように整った顔立ち。あまり感情の色が見えない事もあって人形のような印象を受ける。同じ上級貴族でもフィース君とは正反対のタイプと言えるだろう。


 だがそれでも、この人はだ。


 見たところ武術の心得はないようだが、『支配の極理』の異名を持つ超越者を前にして油断出来るはずもなかった。


「…………」


 というか、なぜこのお嬢様は――エディナさんは、僕をじぃっと見たまま動かないのだろう……?


 まさに穴の開くような視線。エディナさんは考えの読めない無表情で、応接室の入口に立ち止まったまま僕の顔を凝視していた。……いや、待てよ?


 ひょっとして、エディナさんはエスコート待ちなのでは? 身近な女性は能動的なので忘れがちだが、上流階級では男性が女性をリードするのが当然と言われている。


 いけないいけない。座り心地の良いソファとは言え、悠長に座っている場合ではなかった。招かれたのだから受け身で良いという考えは甘えだ。


 この体たらくではマナー講師に『腹を切って詫びるのじゃ!』と切腹を強要されても仕方ない。礼儀作法には気を付けるつもりだったので尚更である。


「どうもこんにちは、エディナさん。そんな所に立ってないで座ったらどうですか? 中々に座り心地の良いソファですよ」


 礼儀正しく挨拶をしながらスマートに着席を促しておいた。さりげなくソファの質の良さを褒めてしまうのが高ポイントだ。これには心のマナー講師も『免許皆伝じゃ!』と大絶賛である。


 なぜか顔を強張らせている使用人の皆さんに違和感を覚える中、エディナさんは無言無表情のまま正面にふわりと座った。


「…………」


 そしてエディナさんは座った後も無言のままだった。この不可解な態度には困惑を隠せない。何かしらの用件があって召喚されたはずだが、なぜ僕を見たまま一言も喋ろうとしないのか。


 もしかして何かを試されているのだろうか? と見えない試練について思索していると、ようやくエディナさんは重い口を開いた。


「…………笑いなさい」


 んん? ど、どういう事なんだ……?

 ようやく口を開いたと思ったら『笑いなさい』とは意味が分からない。本当に、僕は一体何を試されているのだろうか……?


「急にそう言われても難しいですねえ。いやあ、困った困った…………ハハッ、ハハハ、フハハハハハハ――!」

「ちょ、ちょっコール様!」


 無茶振りながらも気持ちを盛り上げて三段笑いを披露する中、チーフさんが慌てた様子で口を挟んできた。


「その、哄笑こうしょうの類ではありません。僭越ながら、お嬢様は『笑顔が見たい』と仰っております」


 ええっ、そんな事は一言も仰っていないのに……。しかし、冷静に考えてみれば分からなくもない。エディナさんと最後に別れた時には笑顔だった記憶があるので、本人確認の意味合いで同じ表情が見たいという事なのだろう。


 やれやれ、とんだ恥を掻いてしまった。


 おそらく昨晩に王子君と観ていたテレビの影響が出てしまったに違いない。犯罪組織の幹部が三段笑いをしていたので無意識に真似てしまったのだ。これは巡り合わせが悪かったと言わざるを得ないだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る