第26話 離別 ──結衣Side──
「はぁ……」
ベッドの上で膝を抱えながら、もう何度目かもわからないため息を零す。
──お前の存在は結城透華にとって迷惑そのものだよ? お前、そろそろ消すから──
今日言われたストーカーにささやかれた言葉が脳内で何度も何度も反芻される。
目先の恐怖から逃れるために透華を災禍に巻き込んだ罪悪感は、確実に結衣の心を蝕んだ。
(いつだって考えなしに行動して人に迷惑をかける……。私のせいで、お母さんだって……)
胸の奥がずきんと痛み、命のない灰色の泥が胃に流れ込むような感覚が襲う。
十年前、マスコミの根拠のない報道で悪徳者に仕立て上げられた父は、誹謗中傷を苦にして自ら命を絶ってしまった。
心から父を愛していた母も人が変わったように無感情になってしまい、そんな母から逃げるように結衣は家を出た。
「こんな思いするくらいなら、一人でいた方が良かったのかな……」
そう呟きつつも、それが違うことも理解していた。
押しかけるようにしてやってきた自分に優しく接してくれた透華に出会えたことは、代えがたいほどの幸運だった。自分を受け入れてくれた彼には何故か素の自分で接することができた。
(お母さんの時みたいに、私はまた逃げてるだけ……。結城さんにも気を遣わせてる……)
透華とは既に一日以上会話していない。折角出会えた心の許せる存在にも、自己都合で迷惑をかけ続けている。与えられるだけの存在、こちらからは何も提供できない。
────これ以上、迷惑をかけられない、かけたくない。
胸奥からそんな思いが滲むように溢れ、涙と共に零れてきた。
自分は透華と一緒に居てはいけない、巻き込んではいけないのだ。きっと最初から何も許されてはいなかったのだと、わかってしまった。
(一人で終わらせなきゃ……。今度こそ人に迷惑をかけずに終わらせる……)
自分のせいで生活が害される人はもう見たくない。
「結局、自分が見たくないだけ……」
この期に及んでなお自分本位の行動でしかないことに気付き、嫌気が差す。
透華に迷惑が掛からないように、できるだけ遠い場所で。透華に心配をかけないように、できるだけ内緒に。
どうしたら良いか思考を練る。この瞬間だけは自分の浅慮なところが良い方向に影響していた気がした。
◇◆◇
家を出るときに、リビングの机の上に書き置きを残しておいた。メモを書くときに、涙が止まらなかったのは内緒だ。
「ふぅ…………」
長く息を吐き、どくんどくんと骨を震わす心の鼓動を落ち着かせる。
(絶対に方をつける、結城さんにはこれ以上迷惑をかけない……もし、死んじゃっても……)
かばんの奥底にある、タオルで包んだ三徳包丁が結衣の覚悟の表れだ。
万一にも透華に被害が加わることのないように、ストーカーには精一杯の挑発文を送っておいた。
西へ約六百キロ、ストーカーとの冥土旅行。それも覚悟の末だ。
バスの独特なシートと窓から差し込む朝日から身を浮かせ、下車する。
ショルダーバッグの肩ひもを固く握りしめながら歩き、向かったのは宿だ。一日で決着をつけられない可能性も考えて、予約を取っておいた宿にチェックインしてからストーカーを探すつもりだ。
「ようこそお越しくださいました……あら、紅葉さんのとこのお嬢さん? 随分お久しぶりですね。今日はお父さんは?」
旅館の女将さんが声を掛ける。
最後にこの旅館に足を運んだのは父がまだ生きている時の話なので十年以上前の話だ。しかし女将さんはまだ覚えていてくれたらしい。
「……父は、亡くなりました。生前はお世話になりました」
「……そうだったんですね……。こちらにいらっしゃるときにはいつもうちに来てくださって……」
この宿を選択した理由はかつて来たことがあるというだけの理由だったが、どうやら父は何度も来たことがあったらしい。
「……ともかく、ごゆるりとおくつろぎくださいませ。お部屋の鍵、お渡しいたしますね」
礼儀正しく鍵を渡され、静かに頭を下げながら部屋に向かった。
畳の上に転がり、顔の上に右腕をかぶせて呟く。
「お父さん……」
奇しくも父の痕跡に触れることになり、懐かしいような泣きたいような感情が込み上げた。
「……行こう」
今は感傷に浸っている場合ではない。
必要ない荷物を部屋の隅に固めて置いて部屋を出る。
ストーカーははっきりと「そろそろ消すから」と言った。
そうである以上、このタイミングで自分を逃がすような真似はしないはずだと踏んでいた。
季節外れで誰もいない海岸沿いをただ歩く。
(この辺りは人も少ないし、一人になればきっとかかってくる……)
──その思惑は見事に外れてしまった。
かなりの時間人気のない場所を歩き回ったが、ストーカーとの接触は叶わなかった。日も沈みかけており、今日はもう駄目そうだ。
昼頃に道中で買っておいたおにぎりを食べただけなのでお腹も空いたし、たくさん歩いたので足が痛い。
(お腹空いた……。結城さんのご飯食べたい……)
自分にそんな権利はないとわかっていても、そう願ってしまう自分がいる。
目的も欲求も果たせずに肩を落としながら旅館に戻る。
夕食もついているコースだったので、部屋にお願いした。きちんとした旅館だけに、豪華といって差し支えない夕食が出た。
(…………あったかくない)
しかしその味も温度も理解できないほどに、心が、体が、透華のご飯を欲していた。
到底食事とはいえない栄養補給を済ませ、手持ち無沙汰の状態で部屋に一人。廊下から楽しそうな声が聞こえてくるにも関わらず、世界から隔絶されてしまったような気分だ。窓の外の月明りまでもが、今の結衣には凶器のようだった。
興味もないテレビを茫然と眺めて時間を潰していたが、ついに耐え切れなくなって部屋を出た。
さばーん、ざばーんと、満月の下で寄せては引くを繰り返す波を眺めているうちに、引き寄せられるような錯覚に陥った。
頭がぼーっとして思考に朝霧のような靄がかかる。
気づけば靴も靴下も脱ぎ、波に足を浸していた。
裾が濡れる不快感を漠然と感じながら、少しずつ歩みを進めていく。
手を引かれるように、手招かれるように、ずいずいと意識が、引き込まれる。先行する精神に体が追い付こうとするように、引き込まれる。
「────さんっ…………結衣っ!」
一気に意識が戻る。さながら稲穂を刈り取るように、その声は結衣の注意を惹きつけた。
「…………っ!」
想いが声にならない。
来てくれた。なんで来たの。嬉しい。ごめんなさい。許して──。
言いたいことは次々に溢れてくるのに、息が止まる。
「……結城さん……」
やっとのことで口を吐いたのは、ただそれだけだった。
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