05-フランケンシュタインとその花嫁




「はぁ……」


 熱いシャワーを浴び終えて、深くため息をつく。

濡れた髪に体を拭き、着替えて脱衣所を出た。

火照る体を抱えたまま近くの自販機に、水分と糖分の補給にスポーツドリンクを買って一気飲み。

体調を整えたうえで、ロビーに向かう。


「ユキオさんっ!」


 と、ロビーで待機していた職員たちが立ち上がった。

東海地方のある支部、今日の仕事に付き添ってくれたギルド職員や海上保安部員たちだ。

今日の大物は、十年ほど前に父さんが倒したという大型の水棲魔物が再び現れたという話だった。

白鯨。

名に鯨とありつつクジラに似た魔物でしかないソイツは全長数百メートルに渡る巨体で、跳ねまわるだけで津波を起こせる超質量。

漁業域に重なる場所を縄張りとし始めた奴を始末するのが、今回の依頼だった。

流石に船舶に乗って何日かの探索やら、始末したその遺骸の移送やらで数日かかった、大仕事となっていた。


「今回は、本当にありがとうございました!

 貴方の力添えが無ければ、我々は……!」

「止してください、あの白鯨を追い詰めることができたのは、貴方方の協力あってこそです。

 海という環境のプロフェッショナルの力を、思い知りましたよ」


 言いつつ、感涙しながら僕に尊敬の念を向けてくる職員らに、罪悪感が湧いてくる。

実のところ、全力を出せば僕一人で、かつ一日で白鯨を見つけ始末することはできた。

最近、僕は運命の糸を経由した流体操作もそれなりにできるようになってきた。

関東や砂漠を丸ごと支配した時のような行いではなく、太平洋の一部を大雑把にゆるく索敵するぐらいなら何とか可能だったのだ。

では何故協力して魔物を探し追い詰めたのかというと、彼らへの配慮と、支持を得るためである。


「何度かあった海上での襲撃も、完璧に防ぎきって……誰一人かけることなく陸に戻れたのは、貴方の献身のお陰です。

 我々は、貴方への恩を忘れません!」

「そこまで言ってもらえると、冥利に尽きます。

 まぁ、思い出した時にでも、無理がない程度に助けてくだされば」


 対象となる大型魔物の襲撃から全ての船舶を守り切り、自己再生持ちの白鯨を削りまくってからの決戦という形。

その中で職員や海上保安部員を鼓舞し続けたからか、それなりに彼らに恩は売れただろう。

そして僕ばかりが活躍するのではなく分業という形を取れたので、それなりに彼らの面子も立てる事ができた。

それは、川渡らに対抗するための後ろ盾を少しでも増やすためである。


 僕という単独最上位かつ機動力のある戦力は、引っ張りだこだ。

どんな大型の魔物でも打破できるし、巣くっている魔物の軍勢も、糸での大規模索敵+攻撃でかなりの効率で排除できる。

……20年前の大戦、魔族に追い詰められた皇国は、こちらの事情など知ることなく暴れる魔物たちに、人間の領域をかなり奪われてしまった。

しかし僕は、所謂魔物の領域となってしまった場所を、ほぼ単独で人間の領域に取り戻す事ができるのだ。

無論取り戻すのと維持するのとはまた別の話で、取り戻した人間の領域の維持にはマンパワーが必要となる。

だから準備がある程度整ったところから順にと言う事になるが、それでもかなりの量の仕事が舞い込んできている。


 しかし今回は、本来の依頼順序に割り込み、優先して復活した白鯨を始末するために向かった。

それも政府上層部からの要望であり、あくまで向こうから言わせた内容である。

対し僕はそれに乗る代わりに、幾分かの便宜……つまり対川渡の交渉になるものを対価としてもらっている。

そのついでに、これまでは割と可能な限り日帰りできるように動いていたのだが、今回は丁寧に現場の人間を立てるよう動いたのである。


「英雄というのは、貴方のような方の事を言うのですね……!」

「いえ、共に命がけで戦った貴方がたも、英雄の一員ですよ」

「……!!」


 その結果が、これである。

僕の"赤"評価を知らないか、勇者の力の絶対性="赤"の評価の絶対性を肌で感じていない世代。

つまるところ、三十歳未満が主となる若い職員らは、僕に妙にキラキラとした視線を向けていた。

我ながら白々しい台詞で栄光を分かつ話をしているが、それに反応する人員がいない。


 今話している畑中は若い男性職員で、最初は僕の能力に懐疑的で慇懃無礼だったのに、いつの間にか僕の言う事をなんでも素直に聞くようになっていた。

近場でボケーっと僕を見つめる樫木は、僕と同い年の女性職員で、腕っぷし抜群で最初は喧嘩っぽく僕に仕掛けてきたのだが、ちょっと"撫でた"だけで嫌に素直になった変な娘だ。

遠目から僕を伺う制服を着崩した緑山はこの中で最年長、最初は僕の政治的配慮を理解して汲み取り動いてくれていたはずだが、なんだか途中から僕をキラキラと輝く目で見てくるようになり、座り心地が悪かった。


「あぁ、貴方のような人だから、救世が為せたのですね……!」

「…………」


 彼らは僕の敗北の事実を知らず、僕が薬師寺アキラに勝利して世界を救ったと、信じている。

吐き気のしそうな心地を、曖昧な笑みで誤魔化す。

叫びそうになる怒りや悲しみを、沈み込ませて飲み込む。

腹腔を焼くような暗い何かを、内心踏みつぶして消し潰す。


 数年前、何時かのコトコの台詞を思い出す。

"ユキオは、英雄に向いていません"。

こうやって糊塗された栄光を飲み込めない時点で、本当にそうなのだろう。

恋した人を殺めた事を感謝されるのも、初恋の人を殺した事を表彰されるのも、地獄のように堪えた。

けれどこんな、敗北を勝利に塗り替えられた程度の事でも心に来るのだから、心底僕は英雄に向いていないに違いない。


 内心で頭を振る。

自己嫌悪と自罰は後回しだ、まずは仕事を進めなければならない。


「……さて、事前に共有していましたが、今日から僕は一時的に帰宅し、他の用事を済ませなくてはいけません。

 明後日には戻る事ができる見込みです。

 事後処理の多くに僕は必須ではないでしょうが、忙しい中失礼します」

「はい。その、確か理由は……」

「詳しくは言えませんが……。

 半分は、家庭の事情。もう半分は……お上の事情、という事になりますかね」


 と。

ぼかしつつも、川渡の背後にある政治力学の話を匂わせておく。

現場に上層部への不信感を抱かせるのも中々の場外乱闘だが、事実を確かめる能力のない人間による適当政治パンチも、事実を知ったうえで偏見で殴りに来る政治パンチも、中々の酷さだろう。

政治的事情で超兵器(僕)を拘束するデメリットは、それなりに認識してもらいたいものである。


 という訳で、何とも言えない顔をする職員らを残し、表に出る。

春とは言え、まだ朝は早い。

どこか潮っぽい冷たい空気に気を引き締めながら、近くの広場に向かい、真ん中あたりに立つ。

汎用術式を走らせ、事前の取り決め通り定例の信号を送った。

比較的低空とは言え、亜音速飛行をするため空路の申請が必要となるためだ。

数秒で応答の信号、問題ない状況に一つ頷く。


 ゆっくりと、上空へと高度を上げる。

具体的には、乗った糸床を絶対位置で移動させているだけなのだが、パッと見は僕が空を飛んでいるようにも見えるだろう。

僕は小さくなっていく見送りの彼らに手を振りつつ、既定の高度に辿り着いてから足元にレールを。

亜音速の飛行体と化し、僕は皇都へと向かった。


 なにせ今日は、昼頃から川渡との二回目の会合。

どんなに憂鬱な気分だろうと、戻らねばならないのであった。




*




「うう、リリにもうちょっと癒されたかった……」

「無理しないでいいよ? お姉ちゃんのハグでよければ何時でもするよ?」

「もうしてるけど……いや、嬉しいけど」

「可愛い妹のハグもついてくる。リリと三人がかりのギューはお家帰ってからね」


 と、会議室の一角で、僕らはパイプ椅子の上に腰かけていた。

左右からぎゅ、と抱きしめられた僕の安物パイプ椅子は、三人の体重をかけられてギィギィと嫌な音を鳴らす。

古めかしい絨毯が、年月とともに溜まった奥底の埃を吐き出した。

人数分だけ組み立てたパイプ椅子は、最後の一つだけが僕らの対面側に一つ残されている。


 今回の会合だが、流石に連日で僕らの家で会合というのはしたくない。

しかしながら、川渡らを除き参加者全員戦闘能力が壊れている。

当然感情的になった時に振りまく殺気もケタ外れで、あまり市街地でやりたくない話でもあったのだ。

そこで思い浮かんだのが、冒険者たちが普段の仕事で使っている、ギルドの貸会議室である。

内容が家庭の事情なので迷ったのだが、福重さんと相談したうえで、最終的にここになったのである。


「ここの会議室を使うのも久しぶりだね。

 ……龍国の仙人を追う時が最後だっけか」

「あの時は、ソウタが随分チーパオにご執心だったね……」

「! そういえば兄さんをコスプレ誘惑するの忘れてた!」

「……忘れてていいよ……」


 何とも言えない会話をしつつ、精神に平静を取り戻そうとする。

白鯨の探索からの始末、そして遺骸の回収にはかなりの時間がかかった。

流石に六日ぶりのリリと一時間と経たずに別れねばならなかったのは、正直辛い。

とは言え、流石に今度こそこの話し合いをリリに聞かせたくなかったので、仕方ないと言えば仕方ないのだが……。


「リリは、ちゃんとやれてるかな」

「ハルカちゃんに任せたんでしょ? 大丈夫だって、あの娘も中々やる子だし、人手っていう意味でも数人背後にSPついてるみたいだし」

「あの後で家に留守番させるのも、余りにもね……。外で気晴らしできるといいんだけれど」


 と、三人でリリについての話をしていると、コホン、と小さく咳払いが。

目をやると、長方形の机のお誕生日席に座った、福重さんが死んだ目でこちらを見ていた。

首をかしげると、溜息をつかれる。


「……君たち、いつもこんな感じだったかな?」

「はい」

「公共の場なので、抑えているつもりですよ?」

「家族が仲が良いのは自然な事では?」

「……………うん、まぁ、いいか」


 遠い目で再び溜息をつき、福重さんは腕組みしながら自身の携帯端末に目を落とした。

僕らは互いに目を合わせ、くっつき過ぎだったかな? ミドリのコスプレ誘惑の話じゃない? 遺憾の意 などと会話してから、接触を減らし普通にパイプ椅子に腰かけなおす事にする。

そうして数分、ノックの音。

どうぞ、と福重さんのかけた声に従い、ドアを開けて川渡が現れる。


「…………」

「…………」


 無言で、川渡が僕ら三人の向かい側の席に腰かけた。

髪を軽くなでつけ、その垂れ目に合わない凍り付くような温度の視線を、こちらに向けてくる。

軽い頭痛、吐き気。

予想していたもの、予想していなかったものも、それらを飲み込み、僕は小さく呼吸した。


「こちらは、今回は私一人。

 そちらは全員そろったのかしら?」

「……えぇ。父さんは仕事で都合が合わず」

「なるほど。ユキオくんは、今朝まで仕事をしていた上で、無理やり時間を作ってきたのにね。

 ……あぁ、白鯨の討伐、ご苦労様。

 世界を救った英雄として尊敬されるだけの事はあるわね」

「……それはどうも」


 予想可能な言葉に、しかし内心はそれでも大きく揺れる。

これまでの川渡の言動を見るにこの程度の情報収集能力はあって然るべきだし、こちらの精神を抉るような物言いは前回と同じだ。

僕は、どうにか動揺を飲み干し、表情筋への影響は避ける。

一つの言葉、一つの挙動にさえ警戒し、呼吸が荒くならないよう気を付けねばならない。

表情は変わらずとも、向こうにその強い警戒が伝わってしまっているのが分かる。

内心溜息、僅かに体の中から力を込めた。

余裕そうに、目だけ笑っていないまま、川渡は口元を緩めた。


「そんなに緊張しなくとも、大丈夫よ。

 私の目的は、ユキオくん、君から何かを奪う事じゃあないんだもの」

「……だったら、何だって言うんだ」


 くす、と笑みを漏らす川渡。

目を細め、全く感情の感じられない、歪んだ笑みを浮かべて。


「前にも言ったじゃあない。

 貴方には、サユキの……娘の認知をしてもらいたいのよ」

「……こちらの回答は変わらない。断る」


 初めて、小さな感情が川渡の表情に浮かぶ。

その中身を読み取る前に掻き消えてしまうが、この予定調和のやり取りに、川渡の感情を揺らがすものがあったというのか?

疑問符が掠め、頭の中の予定帳と合わせ、術式が走る。


「……だとすれば、疑問が残る」

「何かしら? お姉さんのスリーサイズとか?」


 両手を左右に伸ばす。

立ち上がろうとした姉妹の肩を、抑え込む。

左右に順に視線を、どうにか二人が怒りをこらえてくれた事を確認し、ゆっくりと手放した。

小さく呼吸、視線を再び川渡に。


「何故、前回の会談を打ち切った?

 一度で決められなければ、貴方の後ろ盾が減り、僕の後ろ盾が増える可能性が高い。

 可能な限り、奇襲染みた前回の会談で言質を取るべきだったはずだ」

「……会談打ち切りは、貴方たちが感情的になって話し合いにならなかったからよ」

「その切っ掛けは、川渡、リリを見た貴方の言葉だ」


 "なら何故、生まれつきの化け物は家族にできるのに、この娘はできないの?"

その言葉が、怒りのあまり僕らから理性的な会話を奪った。

そして、いわば同情で駆け引きを妥協する可能性もまた。

その結果が予想できなかったのか、それとも結果が予想できても我慢できなかったのか。

その前に僕の精神を限界まで擦り減らし、妥協で首を縦に振らせるのが最適解だったと言うのに。


「川渡、貴方は僕がリリを大切に想っている事を前提に、海外逃亡の可能性が低いと見た。

 であれば、リリへの罵倒に僕らが怒るのは想定内のはず。

 後者、結果が予想できても我慢できなかったということになる」

「…………」

「だが、何故、我慢が出来なかったのか。

 いわば、感情的な行いをしてしまったのか。

 ……リリが今回の切っ掛けになったのだと、貴方は考えているんだな」


 川渡の目に、再び感情が灯った。

怒りに、顔がゆがむ。


「やはり貴方は……本質的に衝動的で、感情的な人間だな」

「情熱的って褒めてもらえているのかしらね?」


 鼻で笑ってやると、川渡の眉間に僅かに力がこもるのを感じた。

だが、こちらもここまでやられてやられっぱなしで居られるほど、お人よしでもない。


 僕は川渡の事を余り思い出せなかったために、あの後姉妹と父さんに当時の川渡の事を聞くことにした。

その総評をざっくり纏めると、川渡は、猫を被るのは上手いが、少し感情的なところがある人間と言ったところだった。

まぁ、政府の命令で来た仕事の雇い主の、十一歳の子供に性的に手を出してしまう時点で、根本は感情で動く人間というのは明白だろう。

その上でそれを数か月隠し通してきたあたり演技派で、計算高さで感情を隠すのが上手いと表現できよう。

それはこうやって根気で政府の後ろ盾を得て僕らと接触してきている事にも、その後感情的になった罵倒で不利になってしまった事にも、矛盾はしない。


「ならば今回感情的になった切っ掛けは……。

 サユキちゃんの言葉と、それに対しミドリが川渡、貴方に怒り。

 そしてそれを、リリが見ていた。

 言葉の内容も考えると、川渡、貴方はリリを……」

「憎んでいる。

 ……いえ、リリを選んだユキオくん、貴方を憎んでいる、と言ったほうが正確かしら」


 憎悪が、その瞳に宿る。

大きく呼吸、川渡の体が膨らんだかのような感覚。


「二階堂、リリ。

 薬師寺アキラの生み出した……おぞましく醜悪な手段で生まれた、子供。

 あれを家族を受け入れたのに。

 何故……サユキは、家族として受け入れられないの?」


 しかし僕は意外にも冷静なまま、彼女のそれが演技ではないのか、凪いだ心のまま観察していた。

先日、僕にとってこの女は理解不能な怪物のように思えていた。

しかしある程度の推論が為され、それが妥当であるかのような反応を見せる今、僕にとって川渡はもっと普遍的な邪悪さを持っているように思えた。

川渡キリコの位階は、ざっくり言って25ぐらいか。

その位階を超えるような威圧は感じず、有体に言って、小動物にしか感じない程度だ。


「サユキは……あの娘は、とても素直で、良い子なのよ。

 片親として辛い目に遭いながら生きるような、そんな運命があっていいような娘じゃない。

 もっと我儘を言って、幸せになる資格のある娘なのよ!

 ねぇ、分かるでしょう!?」


 それは、想像していたよりももっと普通の邪悪さだった。

川渡は娘を愛していた。

溺愛していた、あるいは親馬鹿だと、そう言っても過言ではない。

そしてそれを、自分だけの価値観ではない、世界標準の価値観なのだと考え押し付けてようとしていた。

――こんなに素晴らしい娘を見れば、誰であっても幸せにしたいと思うに違いない。

――数年前に自分が凌辱した子供が、この娘が自分の娘なのだと知っていたとしても、絶対に、と。

……ここで僕が川渡自身を忌避し拒絶するのは受け入れている当たり、微妙に現実に居り合わせているのが、質が悪いというか、分かりづらかったというか。


「美しく、聡明で、とても優しい子に育ったの。

 私は……貴方に嫌悪されて当然の事をしたわ。

 一緒に暮らせなんて言うつもりは無い。

 けれど、あの娘は……あの娘には、優しくしてあげてほしいの」


 その愛情と、愛さない物への無関心は、僕にも覚えがあるものだった。


"良く回る舌だ……。その舌か? 旦那様を誑かしたのは"

"隠れて旦那様と逢瀬し、その穢れた股座で誘惑して……!"


 僕の実母、フェイパオは目の前の川渡と真逆だった。

夫だけを愛し、夫の関心を買う僕を憎み殺そうとした。

愛する人だけを見て、それ以外の物に根本的に無関心である姿勢。

愛の挟角性、とでも言うべきか。


 そしてそれは、ある意味、僕にも当てはまる。

ナギの大量殺戮を否定しきれず、多くの人の命のためではなく"ここ"を守るために剣を取り。

ミーシャの術式が最終的に多くの人を救うと聖剣の波動に保証されながらも、"ここ"のために剣を振るった。

そんな僕の中にも確かにある"愛の挟角性"を、取り出して強調してカンバスに塗りたくれば、目の前の女になるのだろうか。


 自分の人生の汚点を強調して描かれ、それを見せつけられる気分。

それが僕がこの女にうすうす感じていた、生理的嫌悪の根幹だった。


「認知は、できない」


 僕は、一刻も早くこの女から離れたくて仕方がなかった。

それには、ある程度の妥協と、そして……奇妙な感覚があった。

僕は何故か、これが当たり前の選択であるかのように考えてしまっていた。

冷静に考えればもう少し話し合いのしようがあるというのに、僕の中ではその答えは決まり切っていた。


「けど……たまに会うぐらいなら……構わない」


 枯れた声が、僕の口から洩れてゆく。

どこからか、男の声が聞こえるかのような気がする。

"――君はまだ、呪われ続けているのだから"。

それを、左右の姉妹の口から洩れる疑問符が、かき消していった。




*




"……呪いが、再発動した?"

「……アキラ?」

"……いや、何でもない"


 脳内で妹(姉ではない)が独り言を誤魔化すのに、リリは頬を膨らませた。

リリは、同じ行政区の中で最も大きな公園に来ていた。

リリどころか大人数人分の背の高い木がいくつも生え、湖にボートまである大きな自然公園である。

春の過ごしやすい季節、自然公園には老若男女問わず人が多かった。

そんな大きな公園だからか、幾つかの場所に売店が並んでおり、菓子やジュースが売られている。

今リリがベンチに腰かけ手に取っているのは、大きなドーナツと生絞りのオレンジジュースだ。


「ふっふっふ、今日のリリは悪い子なのでハルカさんは撒くし買い食いしちゃいますよー」

"ほどほどにね……。っていうか、ハルカさんを撒いたのは殆ど私だろ……"

「悪リリは人の手柄を横取りしちゃうんです~」

"はいはい……。ハルカさんに後で謝るときは、一緒に謝るから、そこまでは取らないでくれよ"


 甘い物+甘い物の、禁断の食べ合わせ。

しかも買い食い。

そしてこの後も好きなだけ食べてしまうし、晩御飯の前におやつ食べ間過ぎて晩御飯食べられませーん、なんて言ってしまう。

それがリリの考え得る最も邪悪な行為で、アキラは呆れながらそれに付き合っていた。

不安からくるユキオ達への甘えなのだろうが、途中から本気で楽しんでいるようにしか見えない。

ドーナツを食べ終え、包み紙を折りたたむリリに、アキラが溜息をつく。


"次はせめて紅茶とかにしない? ちょっと甘い物+甘い物を連続だと食べ飽きちゃうよ……"

「えー、次コーラも飲むつもりですが? リリは悪い子なのでゲップしちゃいます」

"辞めてくれよ、万が一にでも兄さんに見られたらどうするんだ……"

「ぐっ、それを言われると。……じゃあ次チュロスとお茶とかにしようかな。それかソフトクリームもいいかな……」

「ねぇ」


 と、周りには独り言に見える内容をブツブツと呟いていたリリに、声が欠けられた。

俯き携帯端末を弄っていたリリが顔を見上げると、そこにはリリをして肉体的に年下と思える少女が立っていた。

銀髪にツインテール、暗くよどんだ目に、白いブラウスと赤いワンピース。

何時かと丁度同じ服装をしていただけに、その名は間髪入れずにリリの記憶から引き出される。


「あなたは……川渡、サユキ……ちゃんでしたっけ」

「ならあなたは……二階堂リリで、いいんだね」


 疲れ果てた声に、リリは思わず目を瞬いた。

全身を見つめるが、どことなくキラキラと輝くような美しい子であり、パッと見は裕福で幸せそうに見える。

だからこそ、その死んだ目と声とが、より目立つ。

何をどう反応しようか迷う間に、隣いい? と問われ、返す間もなくベンチの隣に腰かけられてしまった。

チラチラと横を見ながら、リリは残り少ないジュースをチューチューとやる。


「その……今日はどうしたんです?」

「そういうの、自分から言わない? 普通」


 ピシャっと言われ、リリは思わず口をつぐんだ。

視線を数秒彷徨わせ、なんとなく脳内で煽りに弱いアキラが"はぁ?"とメンチを切っている気がしつつ、続ける。


「……えっと、リ……私は、こういう時に家に居ても落ち着かないから、外をぶらついていたんですが……」

「……あなた、自分の事リリって名前で呼んでるの? キモ……。その年……ああいや」


 リリは涙目になった。

確かに世間では十一歳で一人称が自分の名前の娘は、余りに幼く珍しいのだろう。

でもリリは、精神年齢は一歳半なのだ。

それぐらい許してくれるべきじゃあないかと、誰に請うでもなく呟いた。

"そうだそうだ!"とアキラが同意してくれるので、独り言にならなかったけれど。


「まぁ、私もあんな相談がこれからあるけど、聞いちゃいけないから一人で居てほしいって言われて……外に出ちゃった。

 こんな時一人で家に居ても、気が滅入るだけだしね」

「……同じ、ですね?」

「どこが?」


 スパッと返され、リリは目を細めた。

見つめ合ったままのサユキもまた、その黒い目を細める。


「リリ、あなたは……損は別にしないじゃん。

 私は……この相談で、母さんがどうなるか、分からないんだ」

「…………」

「知ってるでしょ? 母さんは私の事、捨てようとしてる」

「え?」


 リリも深くは聞いていない。

けれど漏れ聞こえた話では、ユキオは川渡にニンチ……とかいう何かを押し付けられようとしていた。

それと捨て子と、何が関係あるのか?

首をかしげるリリに、苛立ちを露わに、顔を歪めてサユキ。


「……母さん、私に父親が居ないのが、不幸だって、ずっと言ってる。

 私に父親が居るべきだって、ずっと言ってる。

 ……でも父親と母さんは、一緒に暮らす事は……できないって、言ってる」

「……それは」


 リリは、改めてサユキの全身を見る。

何となく、母親と不仲という感じはしないような、気はするが。


"身綺麗にしているし、服も上質で体に合っている。

 少なくとも物質的には愛情を注がれているね。

 特に、家族が母親一人というなら収入は厳しくなりがちだ、その厳しい収入を注がれているなら一定の愛情はありそうだ"


 なるほど、とアキラが言語化してくれた事に内心礼を言いつつ、リリはサユキに向き直る。


「でも、それだけなら捨てるなんて、そうとは限らないんじゃ?

 直接は言われてない、って事ですよね?」

「聞いて、本当にそうだったら、どうしろって言うの!?」

「……いや、その、それは」


 思いつかない。

リリにとって、サユキの母に近しい存在は、ユキオになるだろうか。

ユキオが自分を捨てる所が想像できないし、捨てられるかもしれないなんて思ったことがない。

だからサユキが何故そんな事を考えているか、分からない。

その内心を、幾分か悟ったのだろうか。

サユキは、ギリ、と歯を噛みしめた。


「私は……男の子じゃなかったから」

「え」

「母さんはきっと……男の子を産みたがっていた。

 ……ずっと、男の子の写真を持ち歩いているから……」

「……それは」


 母親を知らないリリには、想像もできない。

しかしユキオが、リリではなく別の子を引き取っていれば良かったと、そんな未練を持っていたとすれば。

そんなifを考えると、目の前のサユキの恐怖が、何となく分かるような気がして。


「……ごめん、同情してほしかった訳じゃあないんだ。

 その目、辞めて」

「え、あ、ごめんなさい……」


 と言っても、どうすればいいのか分からず、リリは頭を下げた。

一瞬瞑った瞼の裏には、難しい顔をしているアキラの顔が映る。


"この娘の癇癪だ、あまり気にしないぐらいでいいよ"


 とは言っても、目の前で悲痛な顔をされると、どこか自分が悪いのでは、と思ってしまう。

だからリリが頭を上げ、視線が結び合い。

サユキが、その顔を歪めた。


「辞めてよ!」


 サユキが、リリを付き飛ばした。

ひじ掛けのないベンチの上からだ、リリはそのまま地面に尻もちをつき、ジュースのコップが地面に転がって行った。

リリが視線をやると、サユキは震え、その目に涙を浮かべている。


「さ、サユキちゃ……」

「なんで、化け物に同情されないといけないの?」


 え? とリリは呟いた。

リリの中で、おい、とアキラが呟いた。


「母さんから聞いてる」

「あなたは」

「お爺さんが、お父さんとお婆さんをまぐわせて作った」

「お爺さんの道具」

「お母さんのミルクじゃなくて」

「お父さんのセーエキを飲んで育った」

「人よりずっと早く育つ、人間じゃない」

「気持ち悪い、化け物」


 棒読みの言葉。

明らかに内容を理解しておらず、誰かから聞いた内容を反芻するだけの、中身のない言葉。

けれど言葉に込められた悪意と憎悪だけは、確かにリリの中を貫いて。


 フラッシュバック。

知るはずのない、生まれる前の光景。

頭蓋が割れ、薄桃色の脳髄を露出したユキオ。

ユキオを、胸から血を零しながら股間を露出し、膝枕する男。

ユキオに足を絡めるようにして、女の首なし死体がそこに倒れており。

その女の腹を、小さな腕が突き破る。

まるで卵の殻を割るように、母親の腹を破りならその赤子は這い出てきて。

産声を上げる鮮血に塗れたその赤子は、目の前の、そそり立っていたユキオの股間へと目掛け這いずり始めて……。


「違う。違う、それは嘘」


 リリは、自分が泣いていることに気づいた。

ぐちゃぐちゃの頭の中で、アキラの声が捻じ曲がって聞こえないぐらいで。

そんなリリに、あちらも泣き叫んでこう告げる。


「嘘じゃない!」


 リリは吐き気を覚えた。

眩暈がして、地面に尻もちをついたままなのに、この地面がぐにゃぐにゃと柔らかに揺れているようで、何もかもが不確かで。

先のフラッシュバックを、何かがそれが現実なのだとリリの中に刻み付ける。

違うと叫ぶアキラの言葉も、次第に遠のいて。


「嘘じゃない、おまえは化け物だ!」


 なんで、どうして、そんな訳なくて、リリはお兄さまに助けられたただの実験体、でも現実で、誰が現実だって言ったの、私、違う、目の前のアイツで、でも可愛そうで、同情するな、ごめんなさい、でも、でも、でも、違う、私じゃない、化け物じゃない、でも現実、違う、アキラ助けて、声聞こえない、辞めて、違う、違う、違う、違う!


 リリは、濡れた目で目の前の少女の目を見つめた。

サユキは、歪んだ笑みを浮かべていた。

楽しそうであり、同時に半端に痛みを堪えるような笑み。

それが余計に、リリにその言葉の事実を知らせているかのようで。

……助けて。


「父さま、たすけ……」


 そう叫びそうになって。

リリは、無意識に自分が誰を何と呼んだのか、自覚し。


「あ……」


 リリは。

自身が変わるのを感じた。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あぁぁっっ!!!」


 絶叫。

視界が歪んで、ぐちゃぐちゃに掻き消えていって……。




*




「リリ……リリ!?」


 自らを呼ぶ声に、リリはゆっくりと瞼を開いた。

影、人、顔、銀髪、アキラ、その顔には涙を浮かべていて。

遅れ、自分が横たわっている事にリリは気付いた。


「アキ、ラ?」

「良かった、夢の中でも意識がなくて、どうしようかって……!」


 リリがゆっくりと起き上がろうとすると、アキラがすぐさまリリを支え補助する。

助けられながらリリが腰を起こすと、そこはいつもの夢の中のティールームだった。

普段はないソファが用意されており、リリはそこに横たわっていたようだ。

妙に頭が寝ぼけていると思いつつ、リリは頭を振り、記憶を反芻する。


「さっき私は、サユキちゃんと会って、そして……」


 化け物と呼ばれて。

凍り付くような光景の、フラッシュバック。

思わず、リリはアキラの両肩を掴んだ。


「あ、アキラ、リリは、リリは……一体!?」

「……それは」

「今日こそは、話して……話してください、教えて!」


 最早リリの中に、常の余裕は一切残っていなかった。

泣きながら叫ぶリリに、アキラは震え、青白い顔を俯かせた。


「アキラ!?」

「話す。……話すよ。少し……少し、長い話になる。ティーテーブルについて、ゆっくりと……話そう」

「……は、い」


 ティーテーブルについて。

何時もの紅茶が入って、けれどその香りすらも心を安らがせるには足りなくて。

喉を通り腹に落ちた、暖かくリラックスさせてくれる筈のものは、まるで存在感がない。

心なしか曇り、注ぐ陽光が大きく減ったその部屋で、アキラはリリに語って見せた。


「私は……薬師寺アキラだった。今もその記憶を所持していて、本体だった肉体が死んだ今……ただ一人の、当人と言って過言ではない」

「薬師寺、アキラ……。薬師寺事件の主犯で、父さまが倒した……」

「……父さま。そうだね、その通りだ」


 疲れ果てた声を漏らしながら、アキラは次のように語った。

薬師寺アキラとその妻フェイパオは、十八年前、一歳の実の息子を捨てる事を決めた。

その際に一度勇者龍門の家に寄った所、いかなる理由か、龍門の妻ヒカリがその子を引き取ると言い出したのだ。

アキラとしては妻の実家に持って行くつもりだったが、あまり息子に興味がなくどうでもいいと考えていたため、そのままヒカリに息子を渡した。

その子は、ヒカリにユキオと名付けられ、二階堂家で育てられる事になる。

それから十六年後、アキラはとある悪事を考えており、それを阻止可能と考えていた二階堂龍門の偵察も兼ね、彼の元を訪れた。

そこでアキラはユキオと出会い……一目惚れの、恋をした。


「……一目、惚れ。父親が、息子に……?」

「そうだ。いや、ある意味異なってはいたかもしれないが……」


 薬師寺アキラは、計画を変更した。

当初は自身の術式の研究のために宇宙を崩壊させるつもりだったが、それと並行してもう一つの目的と遂げる事にした。

それは、ユキオの娘に転生すること。

自分の欲望半分、残り半分は、ユキオと共に過ごし、ユキオをその魂を蝕む呪いから救うために。

そしてアキラは、完全勝利であれば宇宙を崩壊させ、辛勝であればユキオの娘に転生するつもりで準備を整えた。

その上で、アキラはユキオを一度爆破し暗殺したうえで戦場を整え、復活したユキオと決戦をし、辛勝してみせた。


「実際のところ、薬師寺アキラ……いや、私は自覚していた以上に恋心に捉えられていた。

 どのみち完勝した所で、悩んだうえでユキオの娘になっていただろう。

 だからこそ、元々の対策以上に聖剣は私を敵視せず、一切の覚醒が行われなかったのだろうな」

「……では、リリは、一体……?」

「……薬師寺アキラは、失敗した」


 薬師寺アキラは、魂の術式を用い、生まれた赤子に自分の魂を宿した。

計算上、薬師寺アキラの魂は赤子の魂など簡単に塗りつぶし、簡単に赤子に宿る事ができたはずだった。

しかし、薬師寺アキラの魂は、赤子の魂に敗北した。

赤子の魂を主体とし、その従体となることしかできなかった。

その魂は削れ、多くの部分を損ない、その損失が主体の魂と一定の噛み合いをし、魂達は繋がりが出来た。


「……その主体は、後に父さまによって、リリと名付けられ。

 その従体は、後にリリに対し、アキラと名乗った」


 吐き捨てるように、アキラは告げた。

暗い瞳、力ない笑みを浮かべリリを見つめてくる。

何時もピンと立っている背筋が丸まり、弱弱しくリリを見上げるようにする姿勢で。


 しばし、その場に沈黙が横たわった。

リリは言われた言葉を順番に頭の中で反芻し、飲み込んでいき……。

そして終えて、手を伸ばした。


「あっ……」


 リリは、向かいのアキラの頭を撫でてやっていた。

ふんわりと、すこしミルクのような香り。

何度か髪の毛を梳く要領で撫でてやると、じんわりとアキラの目に、涙が浮かぶ。


「……アキラは、爺さまの記憶を受け継いだ子なのですね」

「……違う、私は……薬師寺アキラの……転生体だ」

「何故、そう思うのですか?」


 撫でながらリリが言ってやると、アキラは目を泳がせた。

だって、と呟く。


「薬師寺アキラは、息子の、二階堂ユキオの娘に転生することを望み、実現した」

「失敗した、の間違いでは?

 少なくとも魂とやらはリリの体の主体になれなかったし、なんなら元の形も保っていないんですよね?

 なのに転生の部分は成功したって言う根拠はあるのですか?」

「……私は、リリより明らかに精神年齢が高く、成人相当の精神を有している」


 リリは、思わず目を瞬いた。

撫でる手を退けて、両手でアキラの顔を掴み、真っ直ぐにその顔を見る。

正気だ。

大丈夫かこの娘と驚きつつ、リリは思わず呟いた。


「子供舌でプリン好きで自分がお姉ちゃんじゃないと我慢ならない、やな事あったら相手の人形を作って殴るような癇癪持ちで、隠しているつもりの恋がバレバレで、バレたら猫になっちゃうアキラが……?」

「に、肉体年齢に引っ張られているんだ、きっと……」

「じゃあ精神年齢は高くないじゃないですか……根拠にならないですよね?」


 アキラはリリの両手を剥がし、頬を膨らませてプイと背いた。

こういう仕草だから幼く見えるのになぁ、とリリは微笑ましく目の前の妹を見やる。


「アキラが何を言おうと、アキラはリリの、妹です。

 爺さまとは、別人です。

 それは変わりませんよ」

「……だが」

「だがは、なーし!」


 リリは手を伸ばし、アキラの両頬を掴んだ。

そのまま中央に肉を寄せ、唇を縦に、タコの口のように開かせる。

ピヨピヨ口の刑である。


「まぁ……事実を聞いて、爺さまには色々と言いたい事はできましたが」

「にゃに?」

「まずは、ありがとうですね」


 目を瞬くアキラを見て、リリは両手を離した。

微笑みかけ、居住まいを正す。


「父さまが、呪いとやらに掛かっているのに気付いて、それから助けようとしたんですよね?

 私にとって、大切な人を助けようとして。

 そして今も、その意志に基づいて大切な人が助かっているのなら。

 まずは、ありがとう、かなって」


 リリは、その呪いとやらが何なのか、聞きはしない。

必要であれば……あるいは差支えなければ、アキラがその説明は怠らないと、そう信じているから。

わざわざぼかした言い方をする彼女に、それを追及するような事はしたくないから。


「……で、次はグーパンです! デコピンじゃ済みませんよ!」

「ひえっ」


 と叫ぶと、向かいのアキラが額を隠して俯いた。

いや爺さまはアキラじゃないのに、と思いつつ、リリはコホンと咳払いをして続ける。


「いくら何でも、悪趣味でしょ! もっと救いたい父さまに伝わるように助けないといけないです!」

「いや、呪いの解除手順の関係で……」

「じゃあ父さまの脳髄にエッチな気分になったのは!?」

「それは変態だからだね……」

「ならグーパンです!」


 シュシュシュ、と口で効果音を出しつつ、リリは空中にジャブを放った。

アキラはそれに呆れながら、手元のカップを上げて、紅茶を口に含む。

口を湿らせ、ぷんぷんとしてみせるリリを見つめ、続ける。


「……薬師寺アキラは、死ぬ寸前、自分が性同一障害なのではないかと、そう思いついた」


 リリは仕草を止め、アキラを見つめ返した。

性同一障害。

リリとしては、聞いたことはあるが、詳しくはない、という程度の知識。


「その瞬間まで、自覚はなかった。

 だから医者にかかったことも当然ないし、周りに気づかれたことすらない。

 同性に肌を見せるのが、嫌いだった。

 生まれて最初に好きになったのは、実の兄だった。

 それは恋とも言えない感情で、けれど兎角兄の事だけを目で追って、だから生まれて初めて固有術式を汎用に落としたのも、良く知っていた兄の事だった。

 それで、決定的に嫌われちゃったけど……」

「……それだけだと、断定できないと思いますけど」


 素人意見ですけど、と続けるリリに、アキラも頷いた。


「薬師寺アキラ、彼は妻……フェイパオとの契約結婚の後、彼女を抱くときも、どうしても上手く立たなくて兄の事を想いながらだった。

 それもすぐに見透かされて……だからフェイパオは、ユキオを手放したがった。

 少なくとも彼が異性を愛せないと、知っていただろうから。

 彼が同性なら愛せるだろうと、知っていたから。

 そして同意したとはいえ、フェイパオは……彼に夫を、男性を強要し続けていた。

 彼自身にすら自覚がなかったのだから、当たり前かもしれないけれど……。

 だから彼は、フェイパオを殺す理由が出来た日に、あっさりと、手を下したんだ」


 リリは、眉をひそめた。

なるべく慎重に、責める声色を出さないよう努め、口を開く。


「……それは、同性愛者の理由にはなっても、性同一性障害の理由になるとは限らないのでは?」

「その通りだね。

 重要なのは、薬師寺アキラが今わの際、自分を性同一障害だと思い込んでいた事だ。

 それが事実であるかどうかは、あまり関係がない。

 ……薬師寺アキラが転生に成功していたら。

 ここぞとばかりに幼い女の子であるかのように振舞っていても何らおかしくない」


「……私の振る舞いが幼かろうと、私が薬師寺アキラの転生体であることを、否定する根拠にはならないということだ」


 リリは、目を細めた。

冷たく乾いた何かが、リリの内側を満たしていった。

皮膚の内側を膨れ上がり、全身の皮膚を破いて出てこようとしていた。

細く、小さく息を吐く。

体の中に満ちる何かを絞り出したくて、仕方がなくて。

しかしどれ程息を吐きつくしてもそれは消えず、その後吸った空気は確かにリリの内側のそれの体積を増していくだけだった。


 重く湿った鈍い感情が、アキラの目に宿る。

それを冷たく乾いた鋭い感情で、リリは受け止めていた。


「私が姉だ。

 私が、先んじて生まれたモノだ。

 私が、生まれを設計したモノだ。

 私は薬師寺アキラの記憶だけではなく、魂をも受け継いだ転生体だ。

 リリ、私の愛しい妹。

 君の生まれの苦しみは、全て……私の責任だ」


「お姉ちゃんは、私です。

 ……アキラ、私の可愛い妹、あなたはリリの後に生まれた、無垢な魂なのです。

 私たちは魂の双子です。

 生まれの苦しみは私たちの責になく、注がれた理不尽という名の濁流に過ぎません。

 私たちはその苦しみを分かち合い、手を取り合うことができるものなのです。

 だから……お願い。

 言ってください、アキラは……私の、妹なのだと。

 私が、アキラのお姉ちゃんなのだと」


 リリの言葉は、懇願の形を取りながらも、どこか諦めに近かった。

リリはこれ以上目の前の妹を説得する言葉が思いつかないことに、絶望していた。

何より……今説得できなかったらこうしよう、という、ある種の損切りの選択肢が脳裏に浮かんでいることに。

自分が、自分と妹の絆を信じ切れずにいる事に。


「……私は、リリの、姉だ」


 だって。

だって、自分が、化け物であることは、本当だったから。

せめて二匹の化け物でありたかったのに、アキラが違うと言うから。

アキラが、自分がリリの双子の妹ではなく、リリの祖父の転生体でしかないなんて、言い張るから。

……リリが、一人きりの化け物なのだと、言うから。

苦痛の責任の所在を知って殴れる先があったとしても、それより一人の寂しさの方が辛いから。

だから。


 リリは、そっと立ち上がった。

ゆっくりと歩を進めると、アキラも応じて立ち上がり、リリを待ち構えて。

その元に辿り着いて、リリは、アキラを抱きしめた。


 確かにそこには、体温があった。

もう一人の自分が、艶やかな布越しにその体を包んでいて、その瞬間リリはその温度を間違いなく抱きしめていた。

少なくともそうしようと、努力をしていた。


「アキラ。

 アキラが何と言おうと、リリがこれから何をしようと、アキラは……リリの妹です。

 リリは、ずっと……ずーっと、そう信じています。

 それは、覚えておいてほしいのです」

「…………リリ?」


 リリはアキラを抱きしめる手を緩め、そっとその額に口づけた。

短く、けれど強く。

唇を離して、リリはアキラの顔を覗き込む。

ポロリ、と目尻から涙が零れるのを感じ取りながら。


「……アキラ。

 ずっと一緒っていう約束……守れなくて、ごめんなさい」

「何を……!?」


 視界が、白く染まり……。




*




 それは死体だった。

元より赤いワンピースは黒血と臓腑に塗れて赤黒くなり、真っ白なブラウスは鮮血と泥に塗れて汚濁に落ちていた。

その腹から零れ落ちた臓腑は、場違いなほど暖かな春の陽気に照らされて、ホカホカと暖かな温度を提供していた。

赤に染まった、よく手入れされていた銀の髪は、よく見ると丁度、リリの妹にそっくりの色で。

リリは、人殺しの化け物、と独り言ちた。


 リリは、そこから少し離れたところに立ち尽くしていた。

歩かねばならないと直感し、足を前に進める。

一歩。

視点が高くなる。

一歩。

ボキボキと音を立てながら、背骨が延長される。

一歩。

服が破けそうで、"糸"を使って縫い直す。

一歩。

一歩。

立ち止まる。


 二階堂リリの背丈は、170cmにやや届かない、ヒマリより僅かに低い物となっていた。

顔立ちから幼さが抜け、代わりに諦観と冷たさだけが残っている。

手足は長く伸び、その白い妖しいほどの色気に満ちた肌を露わにしていた。


 膝をつき、リリはサユキの遺体に身を寄せた。

首下に手を、上半身を起き上がらせたうえで、その手を遺体の腹部に乗せて。


「さようなら、アキラ」


 赤い糸が、リリの手から生み出された。

それは瞬く間にサユキを包み込み、赤い糸繭というべきものを作り出して見せる。

リリは次いで、自身の胸に手をやった。

するとその胸から、光り輝く何かが零れ出る。

リリはその光を手に取り、そっと赤い糸繭に触れ、押し込むようにして光をその中に入れた。


 糸繭が、解かれゆく。

すると中には、先ほどまでの七歳のサユキの死体ではなく、十一歳相当の肉体をした、成長する前のリリと瓜二つの少女が立っていた。

銀の髪に黒い瞳、リボンにブラウス、赤を基調としたコルセットスカートに、ワンストラップシューズ。

その髪の明暗と服装とでしか区別のつかないほどの……、双子と言って過言ではない少女が。


「リリ、何を……!?」


 焦りを露わに叫ぶアキラに、リリは数歩、距離を取って微笑みかけた。


「ごめんね、アキラ。これからは……アキラが、父さまと一緒に居てあげて。

 私は……確かめないといけないから」

「何で、だって、私たちはずっと一緒で!

 確かめるって、何を!?」


 必死に言い募り駆け寄ろうとするアキラに、リリはそっと掌を向けた。

アキラが思わず立ち止まるうちに、リリはそっと"糸"を編んだ。


 リリが空中に差し出した手の上に、赤く光る糸が生まれる。

瞬く間にリリの背へと伸び、編み込まれてゆき、立体を形作ってゆく。

それは、歪な形をした、赤い金属質な翼だった。

カクカクとした骨組みに近いそれは、翼膜のないコウモリの翼に近い形か。

生えた歪な深紅の両翼が、羽ばたく。


「待て、待って!」


 叫ぶアキラを尻目に、リリはその体で空中に浮遊した。

ふわりと浮かび上がること数メートル、一度アキラを見返り見つめてから、そのまま天高くへと飛行する。


 余りの速度に、流れゆく景色の全てが線形となる。

上空十キロ、二十キロ、三十キロ……八十キロ。

気圧差もオゾン層も、今のリリには傷一つつけることはできないまま。

成層圏を超えて中間圏深くに到達し、リリはその歪な赤い翼を広げた。


「ごめんなさい」


 翼が、羽ばたく。

運命を捻じ曲げる、概念上の質量が蠢く。


「父さま、リリは……私は、父さまと苦痛を分かち合う事など出来ませんでした。

 夢物語でしか、ありませんでした。

 ……私こそが、深く父さまに刻まれた、苦痛そのものだったのだから」


 マイナス100℃の中間圏の風が、まずは送り込まれる。

それは単なる低温ではなく、運命をも凍らせる概念の力を持ち合わせた暴風だった。


「私は、試さねばなりません。

 その衝動に打ち勝てず、その欲望に身を任せ、そうするのです。

 父さま、私の運命の人。

 私が恋し、愛する、あの人を試すために」


 赤い光が、青い星を覆ってゆく。

絶望の冬を、惑星すべてに到来させようとする。


「私は人殺しの、たった一匹の……化け物だから。

 世界も全て、私欲のために巻き込んで……戦います」


 それは全てを凍てつかせ、終わらせようとする……世界の、滅びだった。


「――この固有術式"運命の赤い糸"を用いて」




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川渡が持ち歩いている男の子の写真は、十一歳のユキオの物。

なんか湿っているらしい。

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