08-約束された地獄への片道切符

今回も序盤、R-15の範疇に収めた(はず)。

バタイユが年齢制限ないんだからこれも大丈夫やろガハハ!

インモラル、R-15、残酷な描写注意です。

直接的な描写は避けているので、その点はご安心ください。




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 それが夢なのだと、僕は確信していた。

それは上空だった。

ガラス張りの床のガラスなしとでも言わんばかりの、存在しない床の上で、僕とアキラは椅子に腰かけて対面していた。

その下には、僕とアキラとフェイパオの首から下と、赤子が居た。

上空のアキラが、口を開いた。

それは、多分、独り言に近い言葉だった。


「あの時……私の心臓に糸短剣が突き刺され、それは残ったままだった。

君は私の肘に頭をカチ割られて、そこには見事に薄桃色の脳髄が残ったまま、崩れ落ちた。

最後に僅かに糸短剣を引っ掛けて、だから私の心臓から血が垂れ流し始められたが、それは本当にわずかな量で即死には至らなかった。

多分、その時から死ぬまでに、10分と少しか。

私は……あぁ、まず、自分自身の膝にも力が入らなくなって、崩れ落ちて。

それでも君の薄桃色の、まるで白と赤の薔薇の合いの子のような色合いの、その美しい脳髄を守りたくなってしまい抱えて。

……結局、内股座りと言えば良いのだったか、あの正座からひざ下を左右に広げたやつだ。

あんな感じに君の頭蓋を膝に抱えながら、座り込んでしまったんだ。


 私は……興奮していた。

言い換えよう、勃起していた。激しくだ。

君の美しく輝く脳髄を見て……、そこに私のソレを突っ込みたくて、仕方なくなってしまったんだ。

私は急いでズボンとパンツを纏めてずらして、激しく立っていたソレを取り出した。

興奮していたこともあったんだろう、その時心臓からゴポリと血が飛び出して、私のソレにかかった。

私の物は、自身の鮮やかな血と脂でピカピカに輝きながら、直立していた。


 私は君の薄桃色の脳髄に、それをあてがった。

そして突き入れようと、そうして……。

できなかった。

いや、ユキオ、君風に言うのであれば……しなかったんだ。


 あと少し腰に力を入れれば、それだけで出来るはずだった。

もうすぐ死んでしまう事からは私は免れなかったが、しかしそれぐらいの力は十分に残っていた。

時間も十分にあった。

私が腰を振って、君の脳髄をかき分けながら達するぐらいの時間はあったはずだったんだ。

だが……嗚呼、しなかった。

私は欲望に反して動かない事を選択した自分に、ようやく気づいたんだ。


 自分で、自分自身の心の動きを正鵠に知る事は……とても難しい。

知識ではそう分かっていたはずだったのだけれど、実際にそれに相対すると……本当に、唸るような気分だ。

足元が崩れるような不安と、今までの不可解な気分を理解できる感動と、そして吐き気のような気分の悪さ……。

その時もそういった感じで、私はそれをようやく確信することができた。


 私は、生まれ間違った人間だったんだ。


 それを確信して、私の勃起は、すぐさま落ち着いた。

私は、もう二度と自身が勃起できないことを確信した。

まぁ、どちらにせよもう間もなく私は死ぬところだった訳だが……、仮に生き延びたらという事さ。

その柔らかくなったものが、位置関係的に君の脳髄にちょこんと乗ってしまったが、申し訳ない、それは許してほしい。

もうそこから体を動かす気力すらも残っていなかったんだ。


 そこで私は、ようやく宇宙崩壊術式を作動させる気がなくなった。

目の前に居た君を贄に捧げれば、恐らく時間を押して発動可能だったのだと思うのだが……。

しかし私はその気もなくし、もう一つの目的だけを目指す事と決めたのだ。

もう一つの、学術的なそれとは相反する……実に個人的な目的という奴を。


 それから私は、自分で計画しておきながらも、身を引き裂かれるような思いをした。

予め処置を施していたフェイパオは、脳の機能を停止し死んでいたが、同時にその胎だけは生きていた。

君との死闘で首から上と左肩から先は無くしていたが、それでも胎の部分だけは無事だったからね。

元々保護していたが、君との死闘で無事なまま切り抜けられるかは微妙なところだった。

私がもう少し余力を持って勝利していれば、回復もできる構造としていたが……、実際のところは見ての通りだったしね。

たまたまか、無意識に君が女性の胎を傷つける事を忌避していたからか、分からない。

けれど事実としてそうだった訳だ。


 その、殆ど死にかけだった君を刺激して……フェイパオの生きた胎に、君の種を注がせた。

そして予め施された処置が働き、その娘が受精した。

私が自分のクローンに使ったのと似たタイプの、成長促進処理。

それが予め卵子に組みこまれていたその娘は、すぐさま成長し、既に死んでいた、脆くなったフェイパオの腹を突き破って、生まれてきた。

そのへその緒を繋いだままの、赤子としてね。


 彼女は、腹が空いていた。

へその緒が繋がったままだけれど、そこから栄養を供給する筈のフェイパオはもう死んでいて、大した栄養を分けてくれなかった。

かといって、骨肉を食えるような体じゃあない。

歯も生えそろっていないし、そもそも消化器官だって完全じゃあないから固形物はどうやったって無理だ。

そして彼女の目の前に、まだ痛いほどに硬くそびえ立っていていて、そして歯を立てることが出来ないことが利点になりうる、それがあった。

それは処置と直前の行為によって、とても敏感になっていて……。

つまり彼女は……生まれてから母親のミルクより先に、それを飲んだんだ。


 私はその光景を、泣きながら見ていた。

……白状しよう、嫉妬だ。

身を焦がすようなという形容がよく使われるが、正にそんな感じだったよ。

何故、あと、あとちょっと!

待ってくれ、ああ! ああ! と。

叫ぶ力すらもう残っていなかったので、そんな感じに内心でだけ叫びながら……。

ポロポロと涙をこぼしながら、私は死んだ。

自力で目を閉じる事はなかった。

目を見開いたまま、私はじっと君のソレを見つめながら……死んだんだ。


 ……君には、一つだけ伝えたい事がある。

今すぐ信じなくていい、けれど聞いて、そして覚えておいてほしいんだ。


 私は、君を助けたい。


 そこに私自身の欲望も混じってしまっているので、色々と分かりづらく、まだ承服しづらくなっているだろうが……。

しかしその気持ちだけは本当だ。

その気持ちは、二階堂姉妹にも、長谷部ナギにも、ミーシャにも、決して劣らないと自負している。

この中で最も君を取り巻く状況を深く理解しているし、その対処法も色々と行ってきた。

それを直接、明確に伝える事ができないのは本当に申し訳ないが……。

しかしそのことは、覚えておいてくれ。

少なくとも私が、そう主張していたのだという事実は。


 何故なら」


「――君はまだ、呪われ続けているのだから」




*




 薬師寺アキラ、死亡。

フェイパオ、死亡。

二階堂ユキオ、生存。

新生児を一人確保……これは伏せられており、一部の機関にだけ知らされている。

死者0人、重軽傷者は三百と数十人。

瓦解した"宇宙崩壊術式"は各国の手によって確保。

参加国家によって厳重に保管されることになる。


 それがこの度の薬師寺アキラによる一連の事件の、結末だった。

功績の多くは二階堂ユキオと二階堂龍門のものであるとされた。

ユキオの独断専行は問題点とされたものの、功績の一部で打ち消されるものとなった。

それには薬師寺アキラが各国混成軍の前で放映した映像、またそれを記録していた従軍記者達の映像が役に立ったと言う。


 また、各国は位階120超の存在に対する認識を新たにした。

有史以来、位階にして100前後の存在が世界最強格の存在とされており、それ以上の存在は魔王と最新の勇者パーティー、そして二階堂ユキオの他に相当する存在が居なかったのである。

20年前、勇者と魔王の決戦は人類滅亡の危機の中行われたため、遠方からその規模の大きさは伺い知れたが、その程度の解像度でしか各国は情報を得る事ができていなかった。

今回旧魔王らを容易く打倒す龍門と、ユキオとアキラの決戦とが、世界に彼らの強さを知らしめたのである。


 そうやって各国が政治的・軍事的やり取りを行っている状況だが、二階堂一家にはそれらの影響は殆どなかった。

二階堂龍門は政治的な能力をほぼ持たないことがここ20年で判明しており、もう一人である二階堂ユキオは事件解決から20日以上経つ今、まだ目を覚ましていない。

二階堂姉妹相手は連日ユキオの見舞いをしており、事実上の休養状態である。


「クリスマス、かぁ」


 12/24、クリスマス・イブ。

世間が恋人たちで賑わうこの日、二階堂ヒマリは妹と共にユキオへの見舞いに来ていた。

献身的にユキオに寄り添うミドリに対し、ヒマリは少しばかりユキオの世話に集中し切れず、見舞いの時もミドリを残して病院内を行き来することが多い。

その日もヒマリはユキオの病室から離れ、病院の屋上から辺りを眺めていた。


 夏に壊れてしまった都庁ビル近くの、大型病院。

その屋上からは遠く繁華街が見える。

既に日は落ち暗闇に包まれた夜、煌びやかなイルミネーションが街を彩っている。

ヒマリの視力はその中を歩く恋人たちの影を大まかに捉えており、仲睦まじく歩く若者の姿に、自然と気分が落ち込んでいくのを感じていた。


(あの日アイツが邪魔しなければ、今頃私たちは、ユキちゃんと三人で……)


 ユキオがアキラに爆死させられた日、ヒマリとミドリはユキオに告白するつもりだった。

そしてそれは、ヒマリが思うに自然に受け入れてもらえただろう。

三人で愛を結び合い、そして新しい関係に生まれたぎこちなさが減ってきたころに、このクリスマスでのデート。

共通の父と住まう家では中々しにくいことも、外でのデートの末ならば。

この日を切っ掛けに、ユキオと二人は三人だけで住まう家を探すようになり……。


(なんて、そんなとんとん拍子に行くかは分からないけれど……)


 それでも夢想して、期待してしまうのは仕方ないだろう。

そんな風に夢見た関係は、しかし最悪に近い光景で裏切られた。

ユキオは明らかに実父と、そして死体となった実母に、性的な暴行を受けていた。

そして見つかった赤子は、遺伝子検査で遺伝的な父母が誰であるか判明している。

フェイパオの死体から見つかった精子のDNA検査も相まって、近い遺伝子である親子どちらの遺伝子が赤子の父なのかは、明確に判明していた。


(本当はユキちゃんに私が寄り添ってあげなければいけないって、頭では分かっているのに)


 けれどそれは、余りにも辛い事だと、ヒマリは独り言ちていた。

ヒマリは今年、18歳。

ユキオの僅か1歳年上に過ぎず、その初恋は今真っ最中で、子供を産んだ経験など当然ない。

それが初恋の男(弟)に、本人が知らないうちに赤子が生まれたと言われたら、正直どうしたらよいか分からないというのが本音だ。

それにその生れ出た光景そのものも、ヒマリにとってトラウマになりそうなおぞましく醜悪な光景だったというのだから、尚更である。


 携帯端末の振動が、タイマーの時間をヒマリに知らせる。

十数分の休憩を終え、ヒマリは病院の中に戻っていった。


 クリスマスの夜の病院は、普段にもまして陰気だった。

患者の多くはこの日家族や恋人と過ごすが故に通院を避けており、病院に居る患者の多くは入院患者だ。

元より外来棟とは離れた入院棟を歩いているが、それでも病院全体の陰気さはどうにも増して感じられてしまう。

外の空気を吸いリフレッシュしたばかりのヒマリには、漂う薬品臭や死臭のようなものがさらに強まるようで、思わず顔を顰めつつ進んでゆく。


 やがてユキオの入院個室に辿り着き、ヒマリはそっと中を覗き込んだ。

清潔そうなカーテンで覆われた窓の近く、ベッドに横たわるユキオと、その隣で静かにユキオを見つめるミドリ。

寝息を立てるユキオに対し、ミドリは何もしていない。

何一つせず、じっとしたままただただユキオを見つめ続けているのである。

無表情、無言、呼吸すらも薄く長く、呼吸を読み戦闘することに長けたヒマリでさえ、ミドリが彫像と化したかのように見える時があるほどだ。


 それは恋する人を案ずる少女というより、愛する人に献身する妻であるかのようにヒマリには思えた。

或いはそれは、愛する主を見やる愛玩動物であるかのようにも。

ミドリの幼く小柄な体に比して、その様子はまるで少女らしく見えない。

それはヒマリにとって、どこか侵しがたい、神聖な物であるかのように思えるのだった。


(私、だって……)


 内心ヒマリは呟いた。

私だって、ユキちゃんを愛している。

けれどそれは、目の前のあまりにも美しい愛を注ぐミドリに、伍するものなのだろうか?


 頭を振り、ヒマリは病室に入ろうとした、その寸前である。

聞き覚えのあるうめき声が、小さく響いた。


「うう……」

「兄さん!?」


 ユキオが、目を覚ましたのである。

ミドリは弾かれるように身を乗り出して、ヒマリは、思わずドアの影に隠れてしまった。

どうしてか、そこでヒマリが病室に入るのが、どうにも卑劣な行いであるような気がしてしまって。


「ミドリ? ……ここ、は」

「病院。良かった、兄さん、目を覚まして……」


 ユキオの目が、次第に理性の色を帯び、焦点を合わせる。

ミドリは涙をこぼしながら、ユキオを見つめそっとその手を握った。

ユキオはその手をミドリに握られるままにしながら、辺りを見回す。

その視線は壁で止まり……、多分日めくりカレンダーがあったところだ、とヒマリは気づいた。


「僕は、負けた、んだった……」


 凍えるような声だった。

まるで地獄の底から運ばれてきたような音が、ユキオの口から漏れ出たのだ。

あまりにもか細く小さな、しかし不思議と何よりもハッキリと耳元に運ばれ、まるで黒板をひっかいたような刺激を脳髄に残して。

ヒマリは入口から病室の中をうかがうだけで、ユキオの表情そのものを見る事はできておらず、その声を聴いただけだったが……。

それでも、肝が冷えるおぞましい声だった。


「……引き分け、というか判定勝ちだったよ。薬師寺アキラは死んだ。

 父さんが何日も泊まり込んで、アキラの復活がないことを確認していた。

 復活がもうないとしたうえで、万が一に蘇生したら直後に即死するようなトラップも準備しているみたい」

「父さん。父さんは……?」


 ミドリは、目を逸らした。

数秒、歯を噛みしめて、呟くような声量で言った。


「……仕事」

「……そりゃ、そうか。姉さんは?」

「休憩中。すぐ戻ってくると思うよ」

「うん、まぁ仕方ない、か。ずっと僕の見舞いなんて、してられる訳ないしね。仕方ない、よね……」

「……とう、さんは……」


 ヒマリは、その場で飛び出してミドリを止めるべきか迷った。

それを伝えるのはユキオにとってショックだろうという想いと、それと同じぐらいに父を糾弾したいミドリに同意したい気持ちとが混ざりあう。

結局のところ、その場に入る勇気もなく、ヒマリはその場に立ち尽くしたままミドリの言葉を許した。


「……父さんは、見舞いに来て、ない」

「……え?」

「父さんは一度も、兄さんを……見舞いに来ていない」


 ユキオが、息をのんだ。

視線が揺れ、呼吸が荒くなる。

小刻みに首を横に振り、大きく息を吸って、震える声を漏らした。


「なん、で」

「……分からない。聞いても何も言わずに……また」

「ぼくが、まけたから?」


 ミドリが弾かれるように視線を上げ、ユキオを見つめた。

ヒマリもまた、ユキオの顔をまじまじと見つめた。

ヒマリはその表情を、どのように比喩すればいいのか、分からなかった。

空っぽだった。

兎角空っぽで、何もない、悲壮さも惨めさもない空っぽの表情としか言えなかった。

ヒマリは確かにそのユキオの顔を見つめているはずだったのだが……、まるで空っぽなユキオの顔を突き抜けて、その先の壁や窓を見つめているような気分にさえなるのだった。


「僕が、負けたから、父さんは?」

「待って、何も聞いていない。何も分からない。そんな事考えなくていいよ、兄さん」

「僕が駄目だから、父さんに、捨てられた?」

「……何も分からない。落ち着いて。今兄さんはネガティブになっているだけ。深呼吸、ね?」


「僕は……ナギの時も、ミーシャの時も」

「勝っていたんだ。どんなに辛くて、苦しい決断だったとしても、決断の通りにやり通して勝っていたんだ」

「だけど僕は。負けた」

「決断を、遂げることが、できなかった」

「だから僕の、価値は……」


「落ち着いて!」


 ミドリの叫び声に、ユキオが目を瞬いた。

目に光が宿り、意識が戻ったかのように、思えた。


「ミドリ、手を……手を、離さないでくれ」


 ポロリと、ユキオは涙をこぼした。

ミドリが握ったままだった手を、握り返す。

震えながらのそれに、う、とミドリが短く悲鳴を上げた。


「……兄さん、その、痛い」

「ご、ごめん……。待って、力を、抜かないと……ああ、うう、か、体が言う事聞かなくて、あ、ああ……」

「……っ!」


 短く悲鳴を上げたミドリに、ヒマリは思わず病室の中に駆けこんだ。

二人の間に膝をつき、その手でユキオの手を引きはがそうとする。


「ね、姉さん? ご、ごめんなさい、力が、どうしても、抜けなくて……」

「大丈夫だよユキちゃん、お姉ちゃんが何とかする! ミドリ、もうちょっとだけ我慢してね!」

「う、ん……」


 べりべり、と擬音が出るような動きで。

ユキオの指を一本ずつ引きはがして、ヒマリはユキオの手からヒマリの手を引きはがした。

強張ったままのユキオの手に対し、ヒマリの手は痛々しく痣ができている。

当人も相当痛かったようで、ほんのりと涙目を浮かべながらユキオを見つめて、口を開いた。


「もう、兄さん。妹の手を握りたすぎ。そんなにおててが好きなの……兄さん?」


 何時ものふざけた口調の途中、言葉を切る妹に、改めてヒマリもユキオに視線をやった。

ユキオは、目を見開いていた。

限界まで見開き、瞼の裏の充血した肉が見えてしまいそうなほどにして、じっとミドリの手の痣を見つめていた。


「あ」


 ユキオは、そっと自分の頭を抱えた。

固まった手指を、自分で押しつぶそうとでもいうかのような姿勢で。


「あ」


 涙の痕を、新しい涙が流れてゆく。

古い涙の跡を押し流してゆく、全身の水分を絞り出したかのような、滝のようにさえ思える涙だった。


「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁぁっ!!」


 絶叫。

自分の頭を割りかねないほどの万力で、自分の頭を抱えながら。

喉が裂けて、涎に血が混じるほどの勢いで。


 ……永遠と思えるほどの十数秒ののち、押していたナースコールの駆けつけが辿り着き、ユキオを抑え込んだ。

動揺しながらヒマリも手伝い、ユキオを抑えることに成功する。

鎮静剤を撃ち込まれたユキオが検査に運ばれてゆくのを、ヒマリはじっと見つめている事しかできないのであった。




*




 その後、ミドリは手の治療のため移動して治療を受ける事となった。

ヒマリはミドリに可能な限りユキオについている事を頼まれたが、結果としては面会謝絶。

少なくとも今日中にそれが解かれる事はないと聞いて、ヒマリは手持無沙汰になってしまった。

とは言え万が一ユキオが暴れ出した時はヒマリの剛力が必要になるだろうし、ミドリを置いて帰る訳にも行かない。

しかし待機する気分にはどうしてもなれず、ヒマリはぼんやりと院内を軽く散歩することにした。

じっとしていると、先ほどのユキオの絶叫を思い出してしまいそうで。


 院内はやはりどこか陰気で、死と憂鬱な気配がする。

ヒマリは気が滅入りつつも、それでもじっとしているよりはマシだと、なるべく何も考えないように意識しながら院内をふらふらと歩き回った。

どこに向かうのか、そも今どこにいるのか、それすら意識せず。

だからヒマリはそこに辿り着いたのは、ヒマリの無意識によるものだったのだろう。

小児科の隔離された部屋、専属のベビーシッターが暫く勤めている筈の部屋。

例の赤子が、住まう部屋に。


 ドアの前に辿り着いて初めて、ヒマリは自身の足がそこに向かっていた事に気づいた。

少し迷って、それから何となく辺りを見まわし、誰も自分を見ていない事を確認した上で……、ヒマリはドアを開けた。


「失礼、しまーす……」


 静かにドアを開け、そっと占める。

赤子が寝ていたら困るから、他意はないのだ、とヒマリは誰に言われるでもなく内心独り言ちた。


 部屋は二つに分かれている。

入口に面するシッターの仮眠室と、奥の赤子が眠る部屋。

ちらりと見ると、既に照明は落とされており、シッターは仮眠を取っているようだった。

ヒマリは静かに隣の部屋に辿り着き、じっとその赤子に視線をやる。


 ベビーベッドに横になる生後二十日ほどのはずの赤子は、既に生後4,5か月程度の肉体まで育っていた。

およそ七倍の成長速度。

それが何処まで続くのか分からないが、その速度であれば二年もあれば子供を産み得る年齢となり、三年もあればヒマリと同程度の外観年齢になるだろう。


 ユキオと、首のない彼の母親との間に受精し、母の死体の胎を破いて生まれてきた。

母の乳より先にユキオの精を飲んで産声を上げた、醜悪な生まれの存在。

呪われた赤子。

その扱いは龍門がどうでもいいと棄権票を投じたため、姉妹が相談し、ユキオが目覚めるまで保留とした。

どんなにおぞましい存在であろうと、一度はユキオと顔を合わせさせるべきだろうと、そう判断したのである。


 それでも。

改めて実物を見ると、ヒマリの背筋に冷たい物が走る。


「……普通の、赤ん坊」


 見た目はその通りだった。

髪の毛が生え始めた赤子は、生まれたばかりの皺くちゃの新生児から、ヒマリがイメージする可愛い赤ん坊そのものの姿となっていた。

少し開いた口からは、ほんの少し生え始めた歯が見えている。

早くも初期の離乳食を与え始めたのだと、シッターからは聞いていた。


 その可愛らしい赤ん坊の姿であることが、恐ろしい。

呪われた醜悪な怪物としか思えない生まれの赤子が、可愛らしくこちらに寝顔を見せている。

シッターによると、赤ん坊としても比較的おとなしく、こちらにあまり迷惑をかけない良い子なのだとの事。

そのギャップが何より恐ろしく、気持ち悪い。


 ヒマリは半ば無意識に、その両手を伸ばしていた。

その手は両手で小さいものを締め上げるような形をしたまま、赤子の首を目掛け、真っ直ぐに伸びている。

それが赤子に届きそうになる、その寸前。

かちゃりと、静かにドアが開く音がした。


「…………」


 ヒマリは、自分の手が何処に伸びていたか自覚し、そっとその両手を仕舞った。

ここを知る人間は少ない。

医者や数人の政府高官、そして龍門に姉妹ぐらいだ。

だからきっとミドリが来たのだろうと、そう思ってヒマリは向き直って。

そして彼と正対した。


 二階堂ユキオが、そこに立っていた。




*




「姉さん」


 声は、果たして幽かな声量を持ってしか出なかった。

気づけばベッドに拘束されていた僕は、甘んじてそのまま拘束を受け入れるべきだと思いつつも、居ても立っても居られずに姉さんに会おうと抜け出してきてしまった。

二人のどちらにも会いたかったのだけれど、ミドリに今すぐ顔を合わせるのはバツが悪く、また軽くは話せていたので、だからヒマリ姉。

なるべく気配を薄くしたままふらつき、姉さんの気配を辿って歩いていくと、小児科にある小部屋に居るようだった。

僕は気配を消したまま静かにドアを開け、そして睡眠中の知らない人が居るのに首を傾げつつ、そっと奥の姉さんに話しかけたのであった。


「ユキ、ちゃん……」


 部屋は足元に幾つか常夜灯が光るだけの暗さで、窓の外のネオンやイルミネーションの光が僕らの顔を照らしていた。

あの決戦の日、確かに僕は旧魔王達と戦うヒマリ姉の顔は見たはずだった。

先ほど取り乱してから意識を落とすまでの間、十数秒程度だが姉さんの必至な顔は見たはずだった。

それでも遠方からではなく、こうして静かに向き合ってその顔を見るのは、久しぶりに感じられた。

死んでいた間の時間なんて感じられていないはずで、精々一日二日というぐらいの実感であるはずなのに、何故か、どうしても。


 起き抜けの僕は、患者衣に少々の寝ぐせで、整っているとは言い難い。

対し姉さんは、暗闇にその美貌だけで浮き上がるような何時もの美しさ。

表情に僅かに疲れが見えるものの、それはむしろいつもの快活な表情とのギャップで、胸を掴まれるような魅力があった。


「姉さん、ここは……」


 だから何処か、気後れするような心地で、僕は一端心を落ち着けるために話題を逸らして辺りを見やった。

照明がなく気づかなかったが、ここは奇妙な部屋だった。

ヒマリ姉の背後にベビーベッドが一つ、一人掛けのソファに、スタックされたパイプ椅子が幾つか。

作業台には温度調節機能付きの電気ポットと哺乳瓶、粉ミルクと思わしきものが散らかっている。

そう言えば姉さんの気配を追ってきていただけで、この部屋が院内のどのあたりにあるかは意識していなかったが、小児科あたりになるのだろうか?

疑問符と共に姉さんに視線を戻すと、姉さんは顔を歪め数秒悩んだ末、そっと横にずれて見せた。


「……あ」


 その時僕は、他者の気配を殆ど感じ取れていなかった。

敗北のためか、昏睡のためか、それとも狂乱のためか。

兎角全快とは言えない状態で、辿れる気配は姉さんとミドリと、もしかしたら父さんのものだけ。

そんな状況だったので、視認するまでその存在に気づいていなかったのだ。


 それは眠った赤子だった。

多分新生児ではなくもう少し成長した、髪の毛が生え、ぷくりと頬も膨らんだ可愛らしい赤ん坊。

この子の事を、僕は知っていた。

僕はアキラに敗北――ミドリ曰く判定勝ち――して、その後次に意識を取り戻したのは先の病室だったので、僕がこの赤子の事を知るタイミングはないはずだった。

けれど何故か僕は、この赤子が誰と誰の子なのか、知っていた。

それは直感というよりは、知識として既に知っていると言った方が近いように思えた。


「う、う……」


 僕はその場に立ち尽くし、じっとその赤子を見つめていた。

間違いなく愛らしい存在にしか見えない赤子。

無力で愛らしいだけの存在に、僕は心底の恐怖を感じて固まっていた。

僕は追い詰められてすらいた。


 そんな僕の恐怖の感情を、感じ取ったのか。

赤子がグズグズと顔を動かすと、薄っすらと目を空けた。

目を覚ましたのだ。

どうすれば、逃げるか、いや何処へ、姉さんを置いてか、でもこの場に居て何を。

そんな風に頭がグチャグチャになって立ち尽くす僕に。


「あう」


 赤子が、へらっと微笑みかけた。


 人見知りしない笑みだった。

僕の事を本能で父親だと見抜いているのだろうか、不安など何一つない、嬉しそうで楽しそうな笑み。

きゃきゃと笑いながら、赤子がその握った手を降る。

僕がそっと手を伸ばすと、その人差し指を、赤子が握って見せた。


 暖かかった。

暖かく、小さく、弱く、柔らかい物が僕の指を握っていた。

張り詰めた神経が、その感触の先にある命の鼓動を感じ取っていた。


「あ……ありが、とう」


 気づけば僕は、涙を流しながら感謝の言葉を口にしていた。

誰に、何故、何のための感謝かも分からないままに。


「ありがとう、ありがとう、ありがとう……」


 壊れたスピーカーみたいに、僕はただただ同じ言葉を繰り返していた。

その中身の意味も感情も分からず、ただただ溢れ出そうになる何かを口から言葉にして吐き出すために。

そんな僕に、赤子が嬉しそうに笑う。


「本当に、ありがとう」


 それが僕に何をもたらしたのか、分からない。

けれど一つ言える事は、僕の狂乱と言える行いはミドリに対しての一度のみで、それから一度も再発するような事は無かったという事だ。 

それを指し示すような仕組みや説明はいくらでも用立てられるが、どれもしっくりこないので、僕はその結果のみを受け止めている。

兎角、その笑みを見て、それに感謝の言葉を口から漏らした僕は、一つの決心をしていた。


 ――この赤子を引き取り、育てよう。


 この決意こそはやり遂げて見せようと、心に誓って。

僕はこの指を握ってくれる赤子に、グチャグチャな顔を歪めて、不細工な笑みを浮かべるのであった。




3章-醜悪 了



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