『コグニション・コード』- 猫耳GMと蒼光の観測者 -

蒼灯一二三

第0話『崩れゆく日常』


■000


 夜景が映える高層居住区の中層階。

 淡い光を放つ建物群が、紫がかった夜空に整然と浮かび上がっている。


 メモリの住むコロニーは、惑星本土から少し離れた衛星都市として開発された。

 規格化された生活空間は快適で、住人のほとんどが一人暮らしの社会人だった。


 帰路の途中、彼は住居棟間を繋ぐ連絡通路で足を止める。

 制御された環境の中、今宵は妙な具合に靄が立ち込めていた。

 廊下の照明が不規則に明滅し、いつもと違う陰影を作り出している。


(気のせい、かな)


 疲労で混濁する意識の中、彼は違和感を覚える。

 窓の外に広がる夜景は、いつもより淡く、輪郭が曖昧だ。

 いつもなら見慣れた風景のはずなのに、どこか非現実的な印象を受ける。

 夜間の照明パターンも、気温も湿度も──全て管理された数値の中で、何かが違っていた。


 霧がかる、なんてことは滅多とありえない筈なのに──。

 今は妙に影が濃く、人工的な光が不自然に歪んでいた。

 タワー群の輪郭が溶け、現実が少しずつ形を失っていく。


 その時、背後から柔らかな声が降りかかった。


「随分と、疲れているみたいだね」


 振り返った先には、長身の男が佇んでいた。

 銀色の髪が、霧を纏うように淡く輝いている。

 灰色に滲むコートは見慣れない素材で、胸元のブローチには見覚えのない紋章が刻まれていた。

 その姿は霧に溶け込むように儚く、この画一的な空間には似つかわしくない存在感を放っている。


 普通なら威圧感を抱くであろう体格なのに、その雰囲気は穏やかで──むしろ親しみすら感じさせた。

 しかし、その笑みの奥底に潜む何かが、メモリの背筋を凍らせる。


「君は、遅い時間に──ここをよく通っているだろう」


「え?」


 深夜の連絡通路で声を掛けてくる人物など、普通はいない。

 防犯カメラは死角なく設置されている。警備が反応しないのなら、犯罪性はない筈だ。

 むしろ、この規格化されたコロニーの雰囲気とは、まるで違う存在感を放っている。


(警備員? でもそんな感じじゃ──)


「気にはなっていてね」


 制服でもない。だというのに、男はごく自然に話を続けていく。

 だから──今のメモリにはそれが異常なのかどうかすら、判別出来なかった。

 ただただ「遅い時間に」「気になって」という言葉端と、柔らかな物言いに反応をする。


「えっと、身分証とか出しますか?」


 慌てて取り出そうとする社員証を、男は柔らかく制した。


「いえ。それは……」


 必要ないと、男は首を振る。

 幾らかは、相手も何らかの身分証を出そとするかという目論見は外れ。


「まあ、確かに。──治安を守る側では、あるけれどね」


 その穏やかな態度には、不思議と安堵感を誘うものがあった。

 完璧に管理された環境を外れた邂逅に、むしろ心惹かれるものを感じる。


 男はコートの内ポケットから小さな青い箱を取り出し、メモリに差し出す。

 骨董品のような、アナログな造りの箱。それは静かに青い光を放ち、メモリの目を惹きつけた。

 最新の光学技術でもない、ホログラムでもない──まるで魔法のアイテムのような、異質な輝きを放っている。


「もし君が、ここから抜け出したいと本気で思っているなら──その選択肢が、ここに」


「……これ、なんですか?」


 メモリは戸惑いながらも、その箱に手を伸ばした。

 触れると、ひんやりとして、どこか重厚な感触がする。


「頼みたい仕事がある」


 声は柔らかいままだったが、何かが変わった。

 その目には真摯な光が宿っている。それでいて、ぞっとするような目の奥の底知れない感情も。


「不正は、我々としては放置できない」


 男の言葉には確かな重みがあった。


「だからテストをしよう──」


 それは単なる誘いではなく。

 穏やかな悪魔か、運命の啓示そのものかに、手を握られているような心地がした。

 数値化され、管理された日常の中で、メモリは初めて『運命』を分かつ選択を突きつけられているような感覚に襲われる。


「僕は、君の働きを、信じるよ」


 愛おしむような笑みにも、堕落と滅びへと誘う悦びにも見える──底知れない笑い。

(ファウストの魔神……)

 ふと、学生時代に読んだ古い物語が脳裏に浮かぶ。

 

 街灯が瞬く中、銀髪の男の姿は霧に溶けるように儚く、しかし確かな存在感をもってメモリの前に居る。

 メモリの手の中で、青い箱が微かに脈打つように光を放っていた。





 ホログラフィック・ディスプレイに並ぶ修正タグは既に三桁を超えていた。

 惑星本土との時差を示すデジタル時計が無慈悲に時を刻んでいる。


「すみません……! 今日中には」


 汗ばむ指先がキーボードを叩く音だけが、深夜のオフィスに響く。

 メモリは画面に映る赤い警告タグを、ひとつずつ消していった。


「B案、まだか?」


 上司の声に、思わず背筋が伸びる。振り向けば、既に背中だけが見えた。

 タンタンと上階へ向かう靴音が遠ざかり、フロアの向こうで調光ガラスの自動ドアが静かに閉まる。


(俺、なんでここに居るんだろう……)


 衛星都市での仕事。本土の大手企業への就職は出世コースのはずだった。

 人工気圧で管理された空調の匂いが、やけに無機質に感じられる。


 隣のデスクでは最新型のAIアシスタントが業務を淡々とこなしていく。

 漢字も数字も意味も──人の目では追えないスピードで、完璧に処理されていく。

 休むことなく、黙々と仕事をこなしていく姿に、妙な焦りを感じた。


 その時、デスクの光学パネルに新たな通知が浮かび上がる。

 文字が宙に浮かび、メモリの目の前で赤く点滅した。


 緊急。顧客からの要望変更。全プラン再検討、締切は変更なし。


「うそでしょ……」


 目の前が暗転しかけるのを必死に堪える。もうこれ以上何を変更するというのか。

 九割完了で先方も進捗を確認し、納得していた筈だ。


「根詰めすぎじゃないか? システムが出した結論を、承認するだけでいいんだぞ」


 先輩の声が背後から響く。メモリは画面から目を離さず、小さく頷いた。

 バイオモニタリング推奨の企業方針で、皆が感情の起伏を抑えるようになってから、どれくらい経つだろう。


「余計なことは考えるな。スピード感を持った仕事をしろ」


 それだけを置き土産に、先輩は足早に去っていく。誰もが忙しい。

 足音すら、やけに機械的だった。


 深夜のオフィス。

 メモリのディスプレイだけが青白く明滅している。無機質な光が、疲れた目を刺激する。


 ふと、デスクの引き出しを開いた。

 コロニーに越してきた時、実家から持ってきた古い紙の手帳がお守りのように仕舞われていた。

 ──効率化の中で見落とされるもの。

 学生時代の研究テーマ。システムと運用の理想について、熱く語っていた日々が走馬灯のように蘇る。


「メモリ君、まだ帰らないの?」


 震える手で手帳を捨てようとした瞬間、清掃ロボットを点検していたパートのおばさんの声が響いた。

 彼女は高額な費用が掛かり続けるバイオモニタリングも着けていない。

 それが、結果的に会社では珍しい『完全に生身の人間』となっていた。

 

 周囲に見つかればまた「無駄話をしている」とマイナス評価を受けるだろう。まだ新人扱いの、メモリと同じく。

 ──けれど。


「……あ、はい。もう少しだけ」


「顔色悪いよ、大丈夫かい」


「あは、そうっすね。すみません。でも」


「頑張るのはいいけどさ。何が大事か考えなよ、もう今日は帰りな」


 どうにかはなるって、とおばさんは言い残して下に降りていった。

 たったそれだけの会話を、タイムロスだと考える頭の端で──胸の奥が焼き付くような心地とが混ざり合う。


(駄目だ、手に付かない)


 コストはかかるけど、バイオモニタリングを付ければもっと効率よく──そう思わなくもない。

 ただ目が霞む。ひどくぼやける。もう限界かもしれない。幸い今日の案件はねじ込めた。全修正プランは明日で──。

 

 カラカラに乾いてひび割れた思考で、時刻を見る。

 バイオモニタリングの申請は──朝一で、やろうか。

 それなら一時帰宅して申請一式まとめないと、とデスクを片付けた。



 深夜の帰り道。

 居住区への連絡通路に入ると、人工照明が自動で明るさを上げる。

 省エネ設計は完璧だった。それなのに、今夜は妙に靄がかかったように見える。


 ふと顔を上げると、規則正しく並ぶ住居棟の間に、見慣れない影が揺らめいていた。

 コロニーの夜は、いつだって同じ明るさ、同じ空気、同じ温度のはずなのに。


(何かが、違う?)


 人工的に制御された風が、不自然な靄を運んでくる。

 そして、その中に──。 

 

「こんな夜中に、どうしたのかな」


 低く落ち着いた、柔らかな声が響く。

 夜の静寂の中。


 年配か、壮年か、いや思ったよりも若いのか。少なくともメモリよりはずっと、人生に落ち着いた雰囲気がある。

 年の頃も掴みづらい、どこか幻想的な銀色の髪の男だった。

 

 その姿は、霧に溶け込むように儚く、それでいて奇妙に冷え冷えとした存在感がある。

 随分と長身の男が路地にぼんやりと立っている姿は、夜の霧に溶け込む幽霊を思わせた。


 長いコートの裾が風に揺れ、街灯の光を受けて銀色の髪が淡く輝く。

 まるで幻想怪奇物の、導入みたいな──そんな錯覚に。


 メモリは一瞬、言葉を失った。


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