失楽園

枯れる苗

失楽園


いち

怒号が響く地下の世界。土の香りの嗅ぐのは、ガキの頃から変わらない。昔はこれが好きだった。「バカタレ、終わんねぇぞ。カス、能無し」ここに自由なんて無いってことは、今月貰えるポチ袋がよく知ってる。小さな娯楽への妄想は世界を涼しく通り抜けるけれど、熱帯夜の勤務は耐え難いほどに苦しい。「走れ走れ、馬以下の奴にやる金はねぇぞ」筋肉の中に血が通っていることがよく分かる、まるで血風船。浅い眠りに着いているような感覚でただ朝を待つ。

皮膚の上に層を作る汗に土埃が混ざる。すると飴みたいに固まって服に張り付く。思い出す光景はいつも夕焼け。「納期は五時だから後、三十分ってとこだな」そうか、結局あれなんだな。つまり日は沈んでしまった。「間に合わなかったら全部の仕事がパーだ」洗いたての朝に目覚める生活は終わってしまった。地震みたいな声が近付いて来て、とうとう俺の真後ろまで来た。

「コウタ、ネジあと何箱ある?」

「ラストっす」

「もうトラック来てんぞ」

「さーせーん」

荒い口調のユースケさんは俺の二つ上でこの間、定時制高校を卒業したらしい。俺は中卒だから高校なんて漫画でしか知らないけれど、定時制高校なら羨ましくもなんともない。多分俺の方が頭良いし、顔も良いから女にもモテるはず。でも、ユースケさんは結構いい人。昔俺が工場長に頭殴られてる時にメットをくれた。「ちったぁマシになる」って。

世界の関節は、外れてない。沈む夕日も昇る朝日も大体定刻にちゃんとやってきて、変わらない日々は刻々と俺の夢の隣で流れてる。変わったのは俺の方で、変わらなかった俺の所為。ネジを回して、部品作って、箱を空にする。

「お疲れさーん」

はぁ。毎日、この達成感が一番の刺激だ。緊張と解放。今頃労いの朝日が眠気眼で向こうにいるだろう。「コウタ、ちょっと残れ」「うい」逆さになったユースケさんが俺の顔にタオルを投げる。珍しい、ユースケさんの顔が見たくてタオルを取ったけど、もう既に後ろを向いている。なんの用事だかちっとも分からない。正面を向いて、頭に昇った血が体内に流れ落ちる。空気が朝の香りをし始めた。


「おつかれさん」

「ありがとうございます」

「まぁ、座んなよ。事務所って堅苦しくてやんなっちゃうね。冷房かかってるだけマシか。作業所にもつけてぇな」

椅子に座ったままの俺を置いて、ユースケさんは部屋の周りをぐるりと一周回った。俺の事をチラチラ見るものだから気味が悪い。まるで森の木々みたいだ。追随する様にビニール袋をガサガサ揺すって何かを出した。「ほい」野菜ジュースだ。

「コウタ、肉だけじゃなく野菜も食えよ」

「あ、ありがとうございます」

この人は野菜ジュースに絶対的な信頼を置いている、ほとんど果物のあまーいやつ。気休め程度でしかないのだけれど、それでも彼なりに気を使ってくれているものだから黙って嬉しそうな表情を作って受け取る。ユースケさんは俺が喜んだことに喜んで、ワントーン声色が上がった。

「お前見てると『俺に弟がいたらこーなんだろうな』って思うぜ」

「あはは」

それから何気なく無造作に正面の椅子へ腰掛けた。真正面にわざわざ座った癖に、俺から顔を背けている。よそよそしく天井を眺めたり、両手の平を確認したり、落ち着かない。それから俺の顔をちらちら見てやっと、ぽつりぽつり、呟き始めた。

「俺の手、ボコボコだよ。お前のこと何回殴ったか分からないくらい殴ったけどさ、それでも俺にとっちゃ愛しい手な訳。あんときは悪かったよ。痛かったよな」

「いいんすよ、殴られて覚えたんですから」

ユースケさんはこちらを見ないまま、口角を少しだけ上げた。気持ち悪いくらいに優しい横顔だった。ユースケさんってこんな顔してたんだって思った。シミがいくつも出来てる顔は三十路にも四十路にも見える。けれど、まだ彼はお酒も飲めない年齢なんだ。

「で、だ。俺はいいんだよ。この手を誇りに思ってる。お前の後輩も、後輩の後輩も、後輩の後輩の後輩もこうして殴って教えていくつもりだ。ボロボロになった手を見て、また俺は一日頑張ったなって思えりゃそれでいい」

「殴んないでくれよ」って思ったけれど、彼の顔を見ると否定する気が失せてしまう。彼の正義は正にそこにあるのだ。鼻の奥から血の味がする様な噎せ返る程の愛情。こう見てみると若い工場長みたいだ。

「でもさ、お前は違うだろ。お前は俺らと違うんだ。頭良いもん、俺には分かんだ」

「はぁ」

ユースケさんは、勢い良くくしゃくしゃの紙切れを机の上に叩き付けた。

「工場勤務は乙に向いてない。つーわけで、クビ。あざした」「はぁ?」


「早く帰れよー」

遠くでユースケさんが手を振っている。俺は呆然と立ち尽くしていた。朝日は向こう側から、ユースケさんを隠すように現れた。舞台の裏に差し込むサーチライト、その光を静かに平常へと溶かしていく。夜と昼とが入れ替わって、世界が俺を冷視している。「俺、無職かぁ」十二になってからずっと居た俺の居場所だった。空が急に広くなって、そんな途方もない空に落ちていくようだった。手の中にあるくしゃくしゃの紙は、何処かの住所が書いてあった。探すには疲れすぎている。「寝ろってことね。とりあえず」。


これは夢だって気付いて居なければいけないんだ。そういう必死感がやけに現実味を帯びさせて、自由な思考から俺を遠ざけた。両手にある悲壮感が黒い煙になって巻き上がる。その煙は段々と人の両腕の形になってきた。俺の背中にはいつも背負っているバッグがあって、バックの中には一本のバタフライナイフが入っている。「いつか工場長に殺されかけたら使おうと思って入れてたやつだ」取り出そうにも手が煙から離れない。あるって確信だけが心にあって、どうにも手が届かない。

首を捻ってバッグに噛み付く。獣のように、必死に食らいつくが届かない。煙の両腕は俺の首を掴んだ。「死ね、死ね、死ね」。気道がきつく締まって、息が詰まる。鼻の上の方で空気が溜まっていく、下瞼に力が入って分厚くなるのが分かった。はやく、後ろのナイフを――。

「邪魔だから、死んでくれ」

父親の声だ。なんだか、頑張って生きるのも、疲れた。両手をだらりと垂らして、なる様に身を任せる。苦しかった呼吸も少しだけ楽になった様な気がした。


「母さん、パートは良いの?」

締まる気道を更にきつく絞り上げて掠れた声を何とか吐き出す。「あら、そうね」何事も無かったかの様に両手を俺の首から退かして、さっさと支度して足早に外へ出ていった。人殺しよりパートが大切なのね、って笑えてくるのだけれど、それってちょっと悲しいことだから忘れてしまおう。

しばらく敷布団から出たくなかった。天井を見て、温まりきった外気を感じていた。さて、と息をついて立ち上がれば簡単だけれど、そんな事をする意味を見つけられなかった。なんたって、俺、無職。夜に上手な話術で飲み歩いたり、空で翼を広げる鳥を見上げたり、そんな暇人。

シャワーを浴びると生暖かいスーツを脱いだ様にさっぱりとする癖に、身体から水分を取り払った瞬間に、またそのスーツを着せられた気持ちになる。髪を乾かす手間が増えてきた。そろそろ切ろうかとハサミに目を移す。テーブルの上にはくしゃくしゃの紙切れが一枚、心細く置いてあった。「住所」俺の何かを変えてくれる気がした。運命が俺を最も相応しいところに導いてくれるから、俺はこの紙切れを発見したのだ。きっと、あぁ、きっとそうだ。

「市えい団地B棟7皆7012か、7021、ササヅカの方」

随分とテキトーな住所だけれど「ササヅカと云う人に合えばいい」と言う最低限の必要な情報が分かりやすく記されている。アホだけれど無能では無いユースケさんらしい。

生乾きの頭の上にヘルメットを被せた。無意識に着けてしまったがとる必要もなかったのでそのままに家を出た。家を出ると真っ赤になった太陽がまだその力を保持している。逃げ様の無い鋭い光が肌に刺さって爪で弾くような痛みが走る。この分だと工場の方は生き地獄だろう。もっとも、首になった俺に関係は無いのだけれど。


小さな団地の、端っこの方に随分古そうな一棟の建物がある。傾く陽は朱色に染まり、建物を染めている。夜がすぐそこまで迫ってきて、俺を急かしているみたいだ。目的の部屋が七階という事もあってかなり高い。今にも倒れてきそうだから、恐る恐る階段を踏み締めた。

中は真っ暗だ。光源になるべき割れたランタンには蜘蛛の巣が張り巡らされていて、剥がれた外壁の奥には蠢く虫達の巣窟が顔を覗かせる。踏みしめる靴の音と砂の掠れた悲鳴。入口が遠ざかって、七階が迫る。

「きゃぁぁぁぁぁぁ」

突如聞こえたのは必死な警告。食った人間を喉奥で絞り上げた様な恐ろしい声だった。逃げ出す様に七階へ駆け上がると、丁度ここら辺から聞こえた声だと言うことに気付いた。逸る心臓に血液が止めどなく流れ込む。鼻から入る腐敗した空気を脳内に回して、こっそり部屋番号を確認する。7012。丁度目に付いた部屋番号。

「きゃぁぁぁぁぁぁ」

再び聞こえるその音は、七階の端っこから聞こえる。目的の部屋から響く音でなくて良かった。ユースケさんはなんだかんだ良い人だ。

二回ノックして、三回目。折り曲げられた中指の第二関節は空を切った。そのまま腕を持たれて引き摺り込まれる。「こっちを抑えろ」「何だこのヘルメットは」「殺すなよ」ユースケさんは俺を売ったのかもしれない。


「きゃぁぁぁぁぁぁ」

俺を起こしたのはあの声だった。ピンボケた視界に入ったのは屈強な二人とそれに比べたら華奢な若い男だ。

「おー、起きた。ねぇー見て、こいつバタフライナイフなんか持ってやがる」

甲高い声の男に笑われる。屈強な身体の割に随分と幼い顔付きと声色で、なんだか混乱してしまいそうだ。バッグの中身を広げて何かを探している様にも何かを盗もうとしている様にも見える

「おはよ、よく眠れたかい」

声の低い男が無理に優しそうな声を出している。あっさりとした爽やかな狂気が肉を着けてそこにいた。右手に握られたハンマーは茶色に変色していて、その手には手袋がしっかり着けられている。

「君かな? ユースケくんの言ってた賢い少年っていうのは」

華奢な男は優しそうに笑った。

「は、はい。ユースケの後輩の窪田コウタです」

「ははっ、歓迎するよ。エスくん、縄を解いても良いかな?」

彼はハンマーを片手に振り返った。

「良いけどよ、ヤマさん。こいつは何者だ?」

「そうだよ。俺らの話聞かれてんだからさー、『何ごとも無かったことに』とはいかないよなー?」

もう一人の男も振り返って賛同する。「ヤマサン」は俺を守ってくれる味方かも知れないが、この二人は俺に対して明確な敵意がある様だ。肌を焼くような緊張感が走る。もちろん俺は何も聞いていないけれど、それを証明する方法はない。真っ暗な部屋の中では彼らの元にしか明かりがない。

「僕もそろそろおじいちゃん。そう、次の誕生日で六十三になる」

二十代前半の見た目の男が、そう話を切り出した。俺の命運を握っているはずの台詞。冒頭の、たった数文字で人生の時間を全て濃縮した様な緊張を拭い去ってしまう。目に映るそれを疑うべくして疑って、俺の前に横たわる現実を逸らしてしまいそうだ。

「きゃぁぁぁぁぁぁあ」

緊張を穿つ叫び声。そろそろこの声に安心感を抱いてしまいそうになる。もしこの危機的状況が変わらなかったらこの声を話題にして時間を稼ごう。そんな打算が俺を現実へと引き戻す。

「まーたあっちの部屋の女だ。サカモトー、だっけ? 7021号室の」

背筋に鳥肌が浮かび上がってくる。運が味方してくれて良かった、なんて、決して言えはしないのだけれど。

「ヤク中女のことなんざほっとけ、エヌ。っで、ヤマさんは一体全体、何が言いたいんだ?」

彼はにやりと笑って人差し指を立てた。

「ごめんね、溜める積りは無いんだ。なんてことないただの斡旋だよ。娘のとこの従業員探しさ。可愛いうちの子に見合う従業員探さないとってね」

「はぁ」

エスは不思議そうにヤマさんを見つめている。大切な何かを上手に誤魔化すようなヤマさんの言葉に、密かに奇を衒っていた俺の心が反応した。

「すいません、さっきから何の話ですか?」

エスともう一人の奴、エヌが目を合わせた。二人は首を傾げたり、振ったりして何やら分かり合えたみたいに頷いた。

「いいや、窪田コウタくん。なんでもないよ」

また気持ち悪いくらいに優しい声。猫の舌で心臓を舐められた様な感覚。俺は頷くことしか出来ない。「うんうん、いいこいいこ。じゃーね」無邪気な声が俺を悪夢の束縛から解放するように響いた。けれどそれはそれとしてあの感覚を忘れたわけじゃない。俺の心の奥に染み込んだ恐怖が、アスファルトの上のガムのようにじんわりと浸透した。

二人は一歩一歩踏みしめるようにドアへ歩いて消えていった。空の色と同化した彼らは、ずっとそこに居るような気がした。言い逃れされてもらった、という様な気がした。尤もそれはおかしな話で、言い逃れたと言うより事実を言っただけなのだ。しかし彼らが違うと言えば俺の主張は嘘になっただろう。嘘も本当も簡単にひっくり返ってしまう世界だ。そういうおかしな平衡感覚のまま座っている。

「怖がらせてごめんね。お茶でも淹れようか」

ヤマさんの声は優しくて、落ち着いている。こんなに優しい顔をする人があんなに恐ろしい人達と交流があるなんて。俺の常識観念が麻痺を起こしそうになる。こんな廃れた街にはヤマさんのような人こそ珍しい。

「お茶も良いですけど、今何時ですか? 早く帰らないと母がまた怒り始めてしまうんです」

「へぇ、お母様が。それは大変だ。でも心配しなくていいよ。どうせ住み込みのバイトだし。今日から」

淹れたお茶の香ばしい香りが漂う。片方のマグカップを口許に寄せて、湯気を弄びながら彼は笑う。俺の都合なんか全く気にしていないのに、甘ったるく優しい表情だった。それから時計を見て、付け足したように「あ、昨日から?」と変わらない笑顔を咲かせている。

「えー……」



「ここが娘の定食屋『泥沼亭』ね」

今にも崩れそうな小さな一軒家。店の壁面には無数の管が所狭しと付けられていて、所々から正体不明の液体が漏れ出ていた。それは非常に残念な話だが、食事処として酷く不衛生な場所だった。それでも暖簾の下から湧き出す灯りが、微かに侘しくこの街を照らしている。雨の日に採ってきた哀愁をヨレヨレのダンボール箱に詰めて、火をつけた提灯を添えたような店だ。見上げるヤマさんの視線は入口へ向かっている。その上にある大きな看板には大きく「泥沼亭」と書かれていた。ネーミングセンスの欠片も感じられないその看板を、俺は見上げてため息を吐く。

「へぇ、えーと、渋くていい店っすね」

ヤマさんはにっこりと笑っていた。気味が悪い、なんて思わないのが不思議だ。きっと俺は、彼の気性を十分に理解してしまったのだろう。怒らない人、怒鳴らない人。時々居る、果てしなく優しい人。陰謀が蠢く余地のない人間性、そんな人も居るんだなと納得した。

ヤマさんが暖簾の目の前に立つ。そして、明らかな平常を装って、何かを思い出した様に話し始めた。変わらない声色と変わらない調子のままゆったりとしたいつもヤマさんで。

「そうそう、お店の奥にある箱を決して開けてはいけないよ。薄いベージュの箱」

初めて彼の深淵が顔を覗かせた様で酷く恐ろしい気持ちになった。さっきまでの印象が腐って崩れ落ちた。その向こうにある男は全く変わらないのに、その中身は恐ろしい物が詰まっているようだった。

「なーに、開けなきゃ大丈夫。それに見たら『その箱だ』ってすぐにわかるさ」

振り返った彼の顔はいつもの表情だった。暖簾がめくれて向こうの世界から光が指す。

「いらっしゃい。あれ? なんだ父さんか」


現代アートみたいな人だと思った。上下ブカブカの服に身を包んで、申し訳程度のエプロンを前方に添えた格好の、背の高い女だ。

「まだ営業中かい?」

「いや、今締めているところ」

少年のようにも見えるが、体つきの曲線がどうしても見間違えることない女性さを表す。彼女の切れ長な目が猫のように鋭く光る。それから俺をゆっくり眺めて軽く会釈をした。

「何この古本みたいな人?」

「かれはコウタくんさ。君に従業員を斡旋しようと思ってね」

「ふーん、私は店長のヤマモト。よろしくね」

またこちらに目が向いた。存外、嬉しそうに迎え入れてくれるようだ。

「よろしくお願いします」

まさか本当に職の斡旋だとは思わなかった。ユースケさんって割とちゃんと俺のこと考えててくれたんだなって感激しそうになった。義理に厚い人だから売りはしないだろうと思っていたけれど、まさか転職先を用意してくれるなんて、頭が上がらない。

「良かった良かった、丁度最近バイトが四人辞めたから、私ひとりで回してたんだ。ほんと大変」

ヤマモトさんは俺の肩を抱いて、二、三回叩いた。何の匂いと一言で表現することの出来ない良い匂いがする。汗が混じっているにしては清涼感のある孤独な香りだ。あぁ、そうかまるでこれはリンゴの匂いだ、スッキリとした甘い香り。店の奥の扉の向こう側が真っ暗だ。不意に後ろからヤマさんが俺の袖を引っ張る。

「決して、忘れないように。」

酷く虚しい顔だった。舞い上がった羽根がゆっくりと落ちて、その背景がぼんやりと浮かんできたような気持ちだった。何の話だっけ、そんな感想がふんわりと浮かんで落ちていく。まるで、縋り付くような彼が脳裏に焼き付いた。

「父さん、大丈夫だよ」

俺じゃない声が優しく彼を窘めた。

扉が閉まって真っ暗な部屋に俺とヤマモトさんが沈んだ。

パチパチと音を立てて正体を示した蛍光灯は不安定な灯りで舞台裏を描いた。

「さて、君は何ができるんだろうね、コウタくん。軽い四則演算は解けるかな? あぁ、えっと四則演算っていうのは足し算とか、引き算とか、そういうの。あー、ね。わかる? 良かった。じゃあレジは任せられるね。あ、そのレジって大変だから覚悟してね」

まるで何か疚しいことがあるかのように早口で捲したてる。それから何問か簡単な計算を口頭で聞かれて、イマイチしっくり来ないまま答えた。

答える度に「ふーん」だの、「おー」だのはっきりしないものだから合ってるのか間違っているのかも分からない。第一レジには機械があって、そこに数字を打ち込めばいいのでは無いのだろうか。

「すいません、俺外食とかあんまりしないんでレジって何すればいいのかイマイチわかんないっす」

ヤマモトさんは大丈夫、大丈夫。って何度か呟きながら机の上に山積まれた書類から何かを漁っている。蛍光灯がまた何度かパチパチと点滅して、空気が澱んだ。次の瞬間、刃物の形を模した風が頬を抓る。それから耐え難い衝撃が頭蓋骨を揺らし、皮膚に鋭い痺れが走り回った。ヘルメットが宙を舞って床に落下する。

「さて、レジ係の練習しよっか。立ちな」

巨大なハリセンを持ったヤマモトさんが俺を見下げている。頭痛よりスッキリとした生暖かい怨みがゆったりと頭の中に流れ込んできた。懐かしい。ユースケさんが勧めた理由が分かった。両手で地面を押し上げて立ち上がる。その瞬間、俺は仰向けで倒れていた。行き場を失った両手足は天井に力無く伸びた。

「レジ係は命懸けだぜ、コウタくん」

ユースケさんに投げ飛ばされたり、工場長に殴られたり。痛い事には慣れなくて、辛い事からはいつだって逃げたいものだ。脳の奥に血液が流れ込んで、熱く燃ゆる。今度は両腕着かずに身体だけで跳ね起きる。夕方の事が頭を過ぎる。

「俺、女だろうがなんだろうが手加減せずにぶん殴っちまうぜ」


腫れた両頬が敏感に鋭く痛む。氷が頬の感覚を麻痺させ意識の外へと落とし込むが、ピリピリと肌が震えて痛みの悉くを発見する。割れたヘルメットはもう使えないだろう。紙のハリセンでどうやって砕いたのか分からないけれど、とにかくヤマモトが恐ろしい女だってことはわかった。

「ふう」

顔を洗って清々しい表情を見せるヤマモトは一切の怪我を作らなかった。聞こえる呼吸音は俺の肺から抑えきれずに漏れ出てくるものだけで、彼女は悠々汗を拭いた。視界の端になにか違和感がある。ただの事務所を映す視界、おかしなものは映らないはずだ。しかし、はっきりとした何かが俺の背中を撫でている。妙な違和感は小さな箱から湧き出てくるものだった。青い空気が落ちてくるような、そんな雰囲気の箱。ひと目で感じる。あれがヤマさんの言っていたものだ。俺の後ろから微かに視線を感じる。

「さて、仕込み手伝って。それから走り込みね」

「あ、ああ。分かったよ」

暖かい空気が身体に張り付いて、逃げる様に悪寒が去った。目の前が埋め尽くされる程のダンボール箱が積み上がっている。一つ一つの箱の中に食材が詰め込まれているのだ。

「そこのじゃがいも剥いて貰うね」

ヤマモトの指示はテキトーだ。俺の方を見もしないで目の前のダンボール箱を指さした。

「どれ?」

「それだって、目の前にあるでしょ」

どうにも埒が明かない。するとヤマモトはようやくこっちを向いて、ダンボール箱を二箱乱暴に開けた。「有るでしょ」山積みのダンボール全てじゃがいもだった。遠い記憶となった工場を思い出して少し侘しい気持ちだ。重力に反して浮き上がった癖に、上から押し潰されてしまう様な不思議な浮遊感だ。ひとつ、またひとつと凸凹なじゃがいもを水の張ったボウルに移す。ヤマモトは風の様に右へ左へ慌ただしく動き、ダンボール箱をどんどんと減らしていく。俺はその様子を夢心地で眺めて、現実感を探していた。


さん


デカい図体のやつは決まって自信家だ。俺はそこら辺によく居そうな見た目だから、簡単にカモに出来ると思うのだろうね。そんな様子が表に正直に現れていて、だからこそそういう奴は俺にとってのカモだと思う。

「俺は客だぞ。黙って金受取ったことにしろよ」

俺はため息をひとつ吐く。暴力でしか解決できない問題がこの世には往々にして存在する。汚らしいこの街ならば尚のことだ。最近になって増える余所者はこの街の不快な瘴気に憧れて現れる蛆虫だ。人間は往々にしてその様な掃き溜めを目指す虫に成り果てる。不思議な話だが、いや、結局は当たり前のことだ。人間は悪をキャベツの葉に見立てて卵を産みつけた害虫なのだ。教わらなくても悪の喰らい方を知っている。

「隣町のファミリーマートじゃないんだから、そんな脅しここじゃ通用しないっすよ」

俺の思考を遮る光金色のブレスレット。この街に住み慣れていない証拠だ。自分より強い人間から奪われ慣れたこの街に、金のブレスレットは似合わない。金ブレスレットの男は舌打ちをひとつ大袈裟に響かせて、不機嫌を表現する。それから取り巻きが三人俺を囲んだ。

「レジ打ちのバイトが口答えかよ」

金ブレスレットは大樹の幹のように太い腕を振り回して俺の頬へと向かわせる。鈍い音が店内に響いて、俺は後ろのダンボール箱へ飛ばされた。制服の帽子は客の机の下に入った。口の中で何かの液体が流れ始める。生臭いから血なのだろう、ヤマモトが俺の方を振り返った。それからにっこり笑って盆を取り出す。俺はまた始まる余興にため息をついて、取り巻きたちの顔を見渡す。

「殴られたのは初めてか? バイトくん」

「客に殴られんのは慣れたよ」

「金払わないのにまだお客様か。律儀な従業員だな」

金ブレスレットは仲間たちを笑わせた。俺は立ち上がって金ブレスレットを殴る。再び響く鈍い音に、無言の聴衆たちが興味を示した。ヤマモトは銀色の盆を広げて大声で叫び始める。

「うちのバイトと屈強なおじ様。みんなはどっちに賭ける?」

大勢がヤマモト目掛けて金を投げる。「おじさん」「じじい」「客の方だね」ヤマモトはニヤリと笑って、えぇ、えぇ。と相槌を打った。店内を一周して随分と集まった金を持って俺に耳打ちをする。「勝ったらボーナス。期待しなよ」俺はちょっと複雑な気持ちになった。「またかよ。最近多いぜこういうの」


店を閉める準備が終わって裏に行く。事務所にはようやく俺の机が用意されていて、それが俺の居場所。連続する日々の中ではその有難みを感じないけれど、今日のように疲れた日はやはり俺の為の場所だと嬉しくなる。

「一日の売上分くらい儲かった」

ヤマモトは嬉しそうに札束で自分を扇ぐ。俺の分は随分と薄いけれど、それでも十分な金額だ。ヤマモトに教わった数学的に言うのなら全体の金額の二、三割程度だろう。初めの一発のせいで頬が痛い。ヤマモトはそんな俺を見て、優しく頬に触れた。なんだか昔とは違って甘い香りだ。

「この店は父なの」

突然ヤマモトが呟いた。その目の奥は酒気に当てられた様な不安定さを宿している。その言葉は俺の中で反響して、別段なにか解答を見付けずに消えていった。

ヤマモトはただ俺の目の奥をじっと見つめている。熱い掌が俺の胸部から首元にかけて誘惑するように這い上がってきた。ヤマモトと過ごした時間は随分と長かった様に感じる。二年程度、前よりも世界の角度が大きくなったのはヤマモトが俺を成長させてくれたからだろう。ヤマモトが教えてくれたこと、ヤマモトが助けてくれたことをいつでも思い返せる。

「だからその手はもう知ってるぜ、相棒」

這い上がる腕を途中で止めると、食らいつく蛇の様相を呈していた。

「バレちゃった」

ヤマモトは悪戯に舌先を出して笑った。それから立ち上がって俺に背を向ける。

「んじゃ、上がっていいよ」

そのまま事務所を出ていった。俺はその後ろ姿が見えなくなってから立ち上がる。それから後ろを振り向くと、あの箱がある。薄いベージュの小さな箱、手のひらサイズの直方体。俺はあの箱を近くで見ることがなかった。なぜならあの箱を見ていると、不気味で近付く気すら失せてしまうのだ。ヤマモトの居ない事務所は静寂と共に妙な歪さを孕んでいた。

俺の頭のすぐ後ろに誰かが居る。呼吸音が荒々しく耳元で響いている。俺の体は酷い金縛りに遭って、指一本動かせない。静かな室内に知らぬ呼吸がひとつある。

「はぁ、はぁ、はぁ」

ゆっくりと、不自然な呼吸音がただ響く。目を反らせない。あぁ、またあの箱の所為だ。落ち着かない、焦らせる為だけの呼気。俺の方をただじっと見つめる目線が生暖かく体に絡みつく。

「箱を開け」

男の声がそう呟く。その瞬間に体の力が全て抜けて、血液が身体中に分散して行った。床に崩れ落ちた体を持ち上げて、俺は扉の向こうへ逃げ帰った。


目が覚めると、そこは俺の部屋だった。泥沼亭の二階にある従業員寮。沸騰した汗は次第に背中の熱と共に消えていく。天井にはいくつかのシミが張り付いていたけれど、穴はどこにも空いていない。まるで雑では有りつつもしっかりしているヤマモトのようだ。一体昨日はどこまでが夢だったのだろう。最近になってあの見せ掛けの悪夢はその領域を延ばしている。頬が痛い。冷蔵庫から氷が零れ落ちる音がした。

ビニール袋にいくつかの氷を入れて、それを頬にあてる。すると昨日降った雨が天井から垂れてきて、しんと一粒床に落ちた。ふと気になって、垂れた雨水の傍に立った。それから上を見上げてみると、染み込んだ屋根がふやけて膨らんでいた。この歪みが次第に膨らんで穴になるだろう。朝日がようやく窓の向こうから差してきて、ボロボロな家々の屋根を駆け抜ける。そのまま俺の目に絶え間なく差し込むので顔を背けてしまった。

店の仕込みが始まるまであと数時間ある。俺は空に浮かぶ鳥を眺めて、昨日のあの声を思い出す。俺の想像し得る最も恐ろしい、地の底から響く様な声だった。けれど、それはまるで、独り寂しく震える声の様でもあった。あの箱の男。声しか知らないけれど、俺はあの男に興味を持とう。

あの箱の中身はなんだろう。男に付随する唯一の情報に対して俺は酷く無知だ。しかし、詮索すると答えを求めてしまいそうになる。それが真の底から恐ろしい。きっとあの箱はそういうものだ。カエルがその足を、跳ねる為に使った様に。鳥が前足を羽ばたかせたように、ただあの箱はその様な性能を持って生まれたのだと納得しよう。夜明けの町は気を抜いたみたいにいつもの街へ戻ってしまった。

ヤマモトが一階で騒がしく音を立て始めた。氷をシンクに捨てて、汗だくの体に張り付くシャツを脱いだ。シャワーの水は降った雨粒と同じはずなのに、俺の不快感は洗い流されるばかりだ。まるで全く別の物質の様である。本質とは結局のところ俺の持つ印象なのだろう。つまり、個別に纏わる意味とは重要で決して欠くことの出来ない俺の創造物なのだ。あの箱の本質とは孤独である事で、あの男の本質とは恐ろしいという事だ。シャワーの最後の一滴まで俺の身体からすり抜けて、床に落ちた。


開店準備中の店内に、革靴の足音が二つ規則正しく鳴り響く。コツ、コツ、コツ。いつの間にか生じたその音は、無遠慮に正面の扉から入って、俺の元まで来た。大男が、ふたり。中性的な顔立ちのNと、男らしいS。

「客かい?」

ヤマモトが立ち上がろうとすると、Sは横目で静止させた。

「そのままでいい、お構いなく」

Sの手にはその大きな手に余るほど大きな拳銃が握られていた。ヤマモトは行き場の無くなった力をゆっくりとその場に放出する様に座り込んだ。俺はその様子からその拳銃について考えなくてはいけないと直感した。

「ああ、これか」

今気がついた様なフリをして、俺らの視線を集めた拳をまるで腕時計で時間を確認するように、非常に、無造作に腕を上げた。

「これは気にしなくていい。別に今使おうって訳じゃなくてね。ついさっき寄るところがあったんだ。だからこれは、ほら、仕舞おう。近場の工場でね、借金で首が回らないからって事で、まぁ、話し合いの末、首はちゃんと在るべきところに、ってね。若いんだからちゃんと払えば良かったのに」

俺とヤマモトは息を飲む。一挙手一投足が俺らの命の行く末を決定するからだ。Sは静かに俺らの顔を見た。それからヤマモトと俺を順に差してこう言った。

「そっちのが俺らの恩師、ヤマさんの一人娘で、それからこっちが借りたもの返さなかった恩知らずのユースケの弟分」

いつの日か感じた恐怖が心の底から湧き出てくるのを感じた。帽子の中が熱くなって、冷静に物事を考える事を放棄してしまいそうだ。ヤマモトはただ俺を見つめている。

「余計な事はするなよ。何も俺らはお前に許しを乞いに来た訳じゃない。物事にはちゃんと原因があって、原理があって、それから結果がある。この件だってその通りってことくらい分かるだろ。一々説明が必要かな?」

この男の言葉の端々が悉く俺の反逆心を殺ぐ。冷静に考えてみればこの街ではよくある話だ。借金と、それから闇金と、見せしめの為の殺人。第一に今ここでこのSという男の気分を損ねることが恐ろしい。なんて惨めなのだろう。恩人の死をただ風の吹くままに目を閉じて仕舞わなければいけない。俺も結局塵の一つ、自分よりも強い者に奪われ慣れた憐れな人間。

張り詰める空気の中、Nは厨房へ入って行った。「先輩、朝飯でも作ろうか」Sは嬉しそうに首を振った。「結構だ、N。食った分はちゃんと金払えよ」俺らの方から目を逸らさずに話した。ここ一帯がこのSという男の領域となった。そういう不思議な空気感を作る男だ。今、ここではこの男が、絶対的な支配者なのだと感じる。

「悪い、話の腰を折った。まぁ、あれだ、溜める積りは無いんだ。斡旋してやろうと思ってな」

聞き覚えのあるセリフだ。

「待ちなよ、お兄さん。うちのバイト引き抜かれると困るんだけど」

ヤマモトがやっと痺れを切らして口を開いた。

「大体うちの父の許可は――。」

突如銃声が鳴り響く。Sの手に握られている拳銃から硝煙が立ちこめている。

「騒がしくて悪いね。羽虫が飛んでたんだ」

ヤマモトは再び黙って立ち尽くした。少しの静寂と恐怖が部屋を充満して今にも壊れてしまいそうな世界だ。俺に解答権はない。既に首を縦に振ったことになっている。

「先輩、サンドイッチ食べます?」

厨房からNが顔を出す。無邪気な表情の奥になにか得体の知れない狂気が隠れているようだ。

「俺は要らねぇって。お前らは」

俺らはSから顔を逸らさずに首を横に振った。「そうか」と呟いて拳銃をポケットにしまった。

「要らねってさ、そろそろ帰るぞ。N」

奥からNがサンドイッチを両手に持って出てきた。それからSはテーブルの上に一枚のピッシリとした厚紙を置いて、店を出た。


背中にあった熱をそっと思い出して、鎮まる胸の鼓動を感じていた。俺の運命は決まってしまった。俺には避けられないのだと分かる。今俺は大きな力に従って動かなくてはいけない。あの厚紙を、指令書を、予言通りに遂行しなければならないのだ。何もかもが分かるようになって、何もかもが見えなくなった。ヤマモトは平静を装って、支度を始めた。

「前にさ、『ヤクザ』の話をしただろ。関わっちゃいけないよって人。正しくって感じでさ、あれが『ヤクザ』だよ」

ヤマモトは和ませるように笑う。それから運び途中だった大きな段ボール箱を厨房へ運んで厚紙へ近付く。少し離れて見ているとその厚紙の潔癖なくらいに真っ白な長方形がやたらとこの歪んだ世界に於ける異質感を強調した。

「住所だ。ここが本拠地って訳じゃないだろうね。きっと。私が話、付けてこようか」

ヤマモトはその厚紙をこっそりエプロンのポケットにしまって俺の方を向いた。そして満面の笑みでこう言った。

「気にすんな。仕込みに戻ろう」



「どういうこと? 父さん。コウタをウチに寄越したのは父さんだよね」

薄暗い事務所。ヤマモトは一人で電話をかけている。俺の右手には返すタイミングを失った店のガキが握られていた。

「母親の借金は母親に返させろよ。コウタは私のところで働いているんだ。連れていかせない」

俺はここで何を得ても、結局変わらず守られる餓鬼のままだった。鍵から鉄の匂いがする。ふと、一面に広がる花畑とそれを照らす夕焼けを想った。もちろん、そこにヤマモトも居た。

「そう、分かったよ。私が死にかけたら助けてね」


固定電話の、受話器の、送話口を、そっと撫でた。ヤマモトの言葉はここに残っているだろうか。俺の言葉をどこかへ残しておきたい気持ちは有るけれど、それは数いる元従業員達の遺産のひとつになって、いつか邪魔になってしまうだろう。それは、酷く寂しいことだから、俺の痕は何も残さずに去ろう。もしも、俺の事をヤマモトが思い返すならば、それは何かを失った記憶が良い。それは能動的でネガティブな記憶がいい。

なんて事のない物を盗んで消えよう。それは例えば電卓。短い時間だったが、俺と数学の世界を繋ぐ柱だった。店の経費の計算、俺はあれに何時間も費やした。今では掛け算だって割り算だってよく分かる。それは例えばキッチンのナイフ。乱切りにみじん切り。俺の手の血を何度も吸った包丁だから、残していくのも忍びない。盗んでしまうのが良いだろう。「大事に使えよ。私の仕事道具なんだから」ふとヤマモトの声が反芻する。それは例えば、俺自身。失った事に気が付くだろうか。余計なことを考えてしまうのは、ヤマモトが言っていた教訓からだ。「知識も、知恵も、それだけで正しいなんてことは無いさ。使い続けて慣らしていくものだから」。俺の一部がヤマモトである様に、ヤマモトから俺の全てを盗み去ることは出来ないだろう。ならば、それはベージュのあの箱。

事務所の隅。ゾッとする様な悪寒と共に、そこにある必要のない箱がある。意識するとあの男は現れた。「やっとか」耳元でそう囁いて、俺の腕を掴んだ。そのまま、手を引いて、あの箱へ誘導する。抗えない程強い力。

手が、まるでそうであるために造られたようだった。段々と箱へ近付いて行く。ほんの少しの距離を長く長く進む。俺の額には冷たい緊張感が不意に現れ、つうと下へ垂れていった。男はしきりに「盗れ」「盗れ」と囁く。心臓が引っ張られているようだ。指先が箱へ触れる。触れた事実が床に転がるように呆気なく、箱は俺の手上に乗った。箱に目線を映すと、なんてことの無いただの箱だ。決して重くない。中身が空なのでは無いかと思ってしまうほどに、軽い。

ふと見上げると、鼻の先に俺が居た。荒い呼吸音は俺の声を微かに彷彿とさせていた。あの男の正体は、俺だった。奴は気味の悪い程ににっこりと笑って、消えた。箱に目を落とすと、いつの間にか蓋は消えていた。露になった箱の中。一人の小さな女の子が眠っている。小さな、というのは幼いという意味ではない。人間と形容し難い程に小さい女の子だ。

「ヤマモト……」

俺の頭がそう行き着く前に、感覚がそう訴えかける。そんなはずは無い。ヤマモトを模した人形、そう思うことでようやく世界の言い訳を思いつく。けれど、それは直視している俺が嘘であるとはっきり断言出来る。小さな呼吸音が、静かに箱の中を反響する。透き通るような白い肌に反射する光がその肌の材質を生物のものであると語る。精巧な人形であるならば、俺はその嘘に騙されよう。愚者になるに足る十分な模造品だった、そう納得してしまいたい。しかし、これはどう言い逃れしようも無いほどに、あの、ヤマモトだ。永く短い時間の中で俺を助けてくれた恩師だ。男と箱があった。しかし、それは俺とヤマモトだった。小さなヤマモトを掌に乗せる。手の質感、生命の重さ、骨の芯。何もかもが生物を証明する為の証拠になった。ヤマモトは瞼を震わせる。起き上がろうとしているのかもしれない。俺はそっとヤマモトをポケットへしまった。


「ヤマモト、ヤマモト」

俺は何度もそう呟いて、店を出ようとした。

「私かい? 窪田くん」

小さな男は俺の真後ろに居た。



「君は、約束を破ったんだね。知った時から君は元に戻れない。これが学びだよ。知とは悪で、教師は悪魔さ」

彼は冷静だった。約束を破る事を、知っていたように、寧ろそれを喜ぶ様に立っていた。俺はそれが不気味で仕方なかった。思えば、あの箱に対する恐怖心はこの人と初めて会った時と似ていた。人間では無いのような彼の存在が、この世のものとは思えない箱と重なるのだ。

「怒らないんですか。ヤマさん」

「怒ってないように見えるのかな」

彼の声はやはり、どうしても落ち着いている。それをどうにか崩してしまいたい気持ちになる。しかし、それはやっぱり同時に恐ろしくも感じるのだ。開けてはいけない、パンドラの箱。あの話に最後残ったものが希望なのだったら、それは、きっと――。

ヤマさんの後ろの影が形を成す。あの恐ろしいSとNに。ここに居てはいけない。ここには、俺の居場所がない。俺は厨房へ走っていった。俺の身体に張り付く夏の湿った空気は、心の鎧を削ぎ落とす。それから裏口へ一直線に向かった。もうすぐそこまでSとNは迫っている。

「おい、N。お前はさっさと裏口回っとけって言っただろ」

「先輩。俺一人であいつ捕まえるのは無理っすよー」

「バカ、挟み撃ちだよ」

「おー、先輩頭いーすね」

裏口の扉を締めて、鍵をかける。荒々しく上下する肋骨と、乾いて血の味がする喉の奥。このふたつが弊害となって俺の思考を妨げる。扉によりかかって座り込むと、体が宙に浮くほどの衝撃を受ける。「やっぱりハンマーが一番いいぜ」Sの恐ろしい声が響く。

あれ程頑丈そうだった扉はいとも容易く壊れかけている。俺は再び立ち上がって、また走り出さなければ行けなかった。ヤマモトは無事だろうか。俺は焦ってポケットに手をつっこむと、小さな手が握り返してくる。逸る心を静めるように、彼女の手は落ち着いた温度を纏っていて、俺の身体は熱を逃がした。

何も出来ない自分など、もうこの世に必要ない。そんなこと重々承知である。しかし、そんなことだけで俺は動かない。俺が不要であるということなんて、過去のポチ袋がよく知っている。今はただ、この小さなヤマモトを外に逃がすことが大切だ。あぁ、なぜ気付かなかったのだろう。俺の夕焼けはこの街に限らない。この街の風景なんてもうどうでもいい。隣町でも、そのまた隣町でも、広い世界のどこかでまたあの泥沼亭のような場所を発見する事が重要なのだ。


俺は、町外れの荒野にポツリとあるガソリンスタンドに居た。すっからかんになったガソリンの補充の為だ。疲れきったアメリカンバイクはさっきまでの荒い呼吸をそっと潜めその大きな身体を休めている。

登り切った太陽に、今日あったことを話してしまいたい。彼の目には全てが写っているのだろうけれど、どうせ俺らの顛末なんて眼中にないだろう。幾千、幾万とある、よくある話のうちのたった一つ。

一本道を真っ直ぐ進めば隣町へ出る筈だ。落ち着いて生活のできるところ。遠い空には雲がひとつ浮かんでいて、俺はそれを眺めていた。

「調子どうよ、相棒」

ヤマモトの姿は陽炎に歪められて、正しく見えない。目を瞑ってただ返答を待つ。静かな風は俺らの間を通り抜けて、自由な旅へ出た。俺は眼をじっと瞑ったまま次の風が来るのを待った。

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失楽園 枯れる苗 @karerunae

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