第2話 此処は何処?

「いし…ていし…」

 男性と女性の声が聞こえてくる。自分のことを呼んでいるんだ…と直感で分かった。

(ていし…?私の名前は春夏よ…?)

 そう思いながら目を覚ますと、病院の天井ではなく、まるで屋根の骨組みがそのまま見えるようなものだった。

「ここは何処…!?」

 慌てて身体を起こす。眠っていたのはベッドではなく、少し高さのある畳。

 身体に掛けられていたものも、布団ではなく、綿を詰めた着物だった。


「魘されておったが大丈夫か?」

 心配そうな男性の声がすぐ隣からする。声の主を探す。春夏はその人物を見た途端、驚きのあまり固まってしまった。

 何故ならば、その人物は黒の束帯を着ていたから。

 一言で言い表すならば雛人形のお内裏様のようだった。

 ただ、1つ違うのは、お内裏様はカッチリとした「強装束」という束帯なのに対して、目の前の男性が着ているのは線が細く、柔らかい感じの束帯だ。

 所謂「萎装束」というやつらしい。

「すみません、今何年ですか!?」

 春夏が慌てて聞いた。すると今度は男性の隣から女性が出てきた。

「あらあら、まだ混乱していらっしゃるようね。」

 その女性を見た瞬間、春夏はまた固まってしまった。

 何故ならばその女性は、身長に届きそうな程長く艶やかな黒髪に紅い長袴。単衣の上に袿を何枚か重ねた姿だったからだ。

 そう、まるで、歴史の資料集で見るような平安時代の貴族女性が着るような「袿」という着物だったから。

 春夏は慌てて自身が着ている服を見てみた。それを見た瞬間にへなへなと全身の力が抜けてしまいそうになる。

 春夏が着ていたのは、綺麗な紫色の単衣に紅い長袴だったからだ。

 まるで平安時代の貴族女性のパジャマみたいな姿だった。


「祈祷の結果はどうであったか?蔵人所陰陽師殿。」

「特に悪いものは取り憑いておりませぬが。」

 黒い束帯姿の人は、緑色の束帯を着た70代くらいの老爺と話していた。

「すみません、あのお方はどなたですか?」

 私が恐る恐る袿姿の女性に声を掛けると

「あのお方は安倍晴明殿よ。」

 と言われ、春夏はまた全身の力が抜けそうになってしまった。

 安倍晴明…平安時代中期を生きた超有名な陰陽師。確か藤原道長に厚い信頼を寄せられていたお方だ。


「きっと忘れていた記憶を鮮明に思い出したのでしょう。」

 晴明の言葉に黒い束帯姿の男性は小さく笑っていた。

「人は誰しも忘れていた記憶があるものだ。それを思い出したとなったらこうなるのも無理はありますまい。」

 黒い束帯姿の男性の言葉に晴明は礼儀正しく礼をすると去っていく。

 その姿は下級とは言えども、流石は貴族だ。高貴な人らしい威厳と気品に満ち溢れていた。


「あの…今は何年でしょうか?」

 春夏が袿姿の女性に尋ねる。すると、彼女は可憐な花々が描かれた扇を口元に当てて優しく笑った。

「今は正暦四年でございますよ。」

 正暦四年…西暦に直すと993年。ちょうど関白の座に君臨した内大臣藤原道隆が絶大な権力を握った時期だ。

 確か黒い束帯を着ているのは四位以上、つまり参議以上の公卿。

 この黒い束帯姿の男性の身分は公卿ということになる。貴族や官人という高貴な身分の方々の中でも頂点の立ち位置。

 彼は、大変高貴な身分の方だった。


「流石貴方は道隆様の、学者を父に持つ私のお子なだけある。明朗な姫君に成長されましたね。

 そして今、貴方は帝から寵愛されていらっしゃる。」

 袿姿の女性が語る言葉に春夏は目を大きく見開いてしまった。

 まさか藤原道隆が自分の父だなんて、高階貴子が自分の母だなんて。

(つまり私は…)

 10世紀末に、帝から寵愛された妃なら花山天皇の女御藤原忯子が思い当たる。

 しかし、今は正暦四年。時の帝といえば、一条天皇になる。

 その一条天皇に寵愛された妃といえば、藤原定子…。

 しかも女御よりも位の高い中宮(皇后)だ。


 春夏は慌てて傍にあった鏡を取って自身の顔を見た。

 そこに映っていたのは、眉こそ全て剃り落とされているものの、明らかによく見知った自分の顔だ。


(私は…藤原定子なんだ…)

 そう自覚した途端に春夏の頭の中に藤原定子として生きた記憶が大量に流れ込んでくる。

(占い師さんの言ったことって本当だったんだ…)

 春夏の心は自分でも驚く程に落ち着いていた。


「定子、貴方の為に仕えてくださる女房もお呼びしてるから早く着替えてらっしゃい。」

 貴子がそう言って近くに控えていた上臈女房に装束を持ってくるように命じる。

 上臈女房が1枚1枚春夏に装束を着付けていく。上等な絹で織られた白の袿を数枚重ね、その上からは紅の唐綾の小袿を重ねる。


 身の丈に届きそうな黒髪は流れるように美しく、白い肌にほんのりと血の気が差した顔。筋の通った鼻に切れ長の目。

 春夏は、装束に負けない程に美しい姫君になっていた。




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