7-3

 いくら悩んでいたところで、時間は必ず過ぎていく。

 気がつけばこの日の授業は全て終わり、終礼に逢坂先生が教室にやってきた。

 何やらまた興味深い話をしてくれているとは思うのだが、先生の言葉が耳を通り抜けていく。

 だからそれが終わったことにも気がつかなかった。

「貴利花、どうする? 部活、行くか?」

 また気がつけば近くにいた愛梨と忍。

 問われてからようやくどうするのか考える。

 しかし行く気にはやはりなれない。

あれを元に準備をしている美術部には、とても近寄ることは出来ない。

 考えるだけでも恥ずかしくて、その場に顔を出すことすら無理だった。

「水上さん、今日もお疲れさまでした。体調はいかがですか?」

「————先生」

「もちろんよくなったからこうして登校できているんですよね。すみません」

 二人にどう答えようか悩んでいると、逢坂先生が私の前にやってきた。

 先生が声をかけてくれる。

 歓びに血が沸き立つのと同時に、申しわけなさに引き摺られる。

 なんと返事をしていいのかわからなくて、黙ったまま先生を見ていた。

「今日は部活に行かれますか?」

「……わかりません」

「それは、まだ体調がすぐれないということですか?」

「いえ」

「なら、少しだけお時間を貰ってもいいですか? 水上さんに見せたいものがあるんです」

 先生の顔は、いつもと同じように穏やかだった。

 どうすればいいのかわからなくて、たまらず二人を仰ぎ見る。

「いんじゃね? 別に部活に行かなくたって罰が当たるわけじゃねえし」

「みっちゃんには私達から言っとくから、貴利花は先生と行ってきたら?」

 私のいない間に三人の中であったのだろうか。

 二人は特に驚いた様子もなく、私を先生に任せるようなことを言う。

 その勢いに流されるように、私はぼんやりとしたまま頷いた。


          ↕


 大人しくついてきてくれる水上さんを連れ立って教室を出ようとすると、視界の端で新島先生がジッとこちらを見ているのがわかった。

 険しい顔をしているのだろうか。視界に入れると決心が鈍りそうだったのであえて無視する。きっと反省会で注意をしなければならなくなるだろう。しかし猪狩君同様に、縁が悪かったと諦めてもらうしかない。僕が平謝りをすればいいだけの話だ。

 教室を出ると部活に行く生徒や帰宅する生徒で溢れかえっていた。

 その中を水上さんのペースを考えながら歩く。

 前までの僕であれば人の目が気になって別々に集合していただろう。そもそも声をかけることすらしなかったに違いない。本当はギリギリまで悩んでいた。終礼を済ませ、挨拶をした瞬間までやはりやめておくべきではないかと脳裏にはよぎっていた。

 だがそれも、座ったままの水上さんを見て消し飛んだ。

 気がつけば水上さん達の前に立っていて、気がつけば声をかけていた。

 自分がなにを言ってついてきてもらったのか、それすらももう思い出せない。

 しかしこうしてみると、やはり不思議なことに後悔はなかった。

 もちろん緊張はしている。一歩一歩がやけに重く、手は強張り顔は引き攣りそうだった。実際には引き攣っているのかもしれない。突き動かされるように、真っ直ぐに準備室へと向かう。

 衣笠さんや藤堂さんがなにも言わないでいてくれてよかった。

 なにも知らず、僕に大切な友達を任せてくれたのだ。

 彼女達の期待通りにはならないというのに。


          ↕


 連れられてきたのは、逢坂先生が待機場所として使っているという準備室だった。

 初めて踏み入れたその部屋は、どこか埃っぽくて雑然としている。整理されているのは先生が利用している机周りだけで、大量の資料が至る所に並べられ積み上げられていた。

 逢坂先生は準備室に入ると奥まで行かずに立ち止まり、情けなさそうに溜息をついた。

「ああ、忘れてた。————水上さん」

 先生が振り返る。

「申し訳ないのですが少し座って待っていていただけますか? すぐ戻りますので」

「……はい」

 何のことかわからないがとりあえずそう返事をすると、先生はすぐに準備室から出て行った。

 意外にも強く締められた扉の音が止むと、途端に静寂に包まれる。聞こえるのは忌々しい雨と、煤けて今にも止まりそうな壁掛け時計の進む秒針だけだ。雨雲のせいで弱い日光しか入らないからか電灯だけでは部屋全体がやや仄暗い。

 入り口前に立ったままなのも変なのでとりあえず奥へ入る。

 よくよく見ると先生が整理をしたらしい跡が机の周りを中心に至る所にあった。先生が使うらしい教材の多くは古いモノばかりでいつの時代の資料なのかわからない。その上に積もっていたらしい埃がところどころ剥げている。床にも日焼けの跡があって、もはやここは準備室としてではなく倉庫として扱われていたのだろう。

 椅子は二つだけある。唯一の机の前にあるキャスター付きのモノと、隅にポツリと置かれた四本足の木製の椅子。キャスター付きは先生が座るだろうから木製の椅子に座ろうとした。

「……?」

 ふと目に留まったのは、逢坂先生が使う机の上に拡げられたままのスケッチブックだった。

 先生がここで絵を描いていたのだろうか。紙はややよれており新品ではなく、まるでどこかから引っ張り出してきたようだった。使い減りした鉛筆が乗ったままであり、つい先ほどまでここで描いていたように見える。

「————」

 先生の絵が観たい、恥知らずにもそんな欲が出てくる。

 先生は普段からも絵を描いているのだろうか。話している時はそんなことは言っていなかったし、鉛筆を手に取ることもしなかった。あくまで実習生として対応していて、夢中になっていたのは私だけだった。

「……ごめんなさい」

 そんな資格はないとわかっていつつも、どうしても先生の絵が観たかった。

 恐るおそる近寄って、先生が描きたいと思ったなにかを覗き見る。

「……?」

 それはちゃんと見てもよくわからなかった。

 辛うじて理解できたのは女性が何かに座ってどこかを見ていること。

それも後姿で、視線の先が描かれていない。

 しかし疑問があるのは、途中とは言えこれが何の絵であるかなにもわからないことだ。

 この絵の先が見えない、この絵がなにを語りたいのかがまるでわからない。

 そしてそれは、先生自身も自覚しているような、そんな気配があった。

「……これも」

 裏側に捲られた紙を戻すと、やはりそこにも途中で描くのを止められたなにかがあった。

 今度は睡蓮の華が半分ほど描かれたところで止まっており、それだけでも何回も描き直した跡が残っている。この睡蓮をどう描きたいのか定まっていないようだった。腹立ちまぎれに消しゴムを使った乱暴な形跡もある。

「これも————これも……」

 絵にも満たないなにかばかりだった。

 いくら捲ってもどれ一つとして完成されたものはなく、全て描きかけのところで終わっている。テーマやモチーフも曖昧で、先生がなにを描きたいのかがわからない。

 紙自体は随分と前に買ったもののようだが、鉛筆の跡はどれも新しいモノばかりだ。おそらくここ数日の間に描かれたはずである。

 目的となるテーマはなんなのだろう。

 先生は作品を作る際は枠組みを決めてから中身を埋めていくと言っていた。つまり最初から表現したい事柄は決まっているはずで、モチーフはその手段のである。こうしてバラバラなモチーフも、先生の中では繋がっている。あるいは定まっていないから、何一つとして描き終えることが出来ていないのだろうか。

「すみません水上さん。お待たせしました」

 引き戸を開けると同時に逢坂先生がどこかから持ってきた生徒用の机を持ち上げ言う。

そして私が先生の机の前に立っていることに気がつくと、怒るわけでもなく恥ずかしそうに眉を寄せながらそのまま入ってきた。

「それも開きっぱなしにしてましたか。自分のことながらだらしないですね」

 そう言うと先生は机を部屋の中心にどかりと置き、私が座るつもりにしていた椅子を引っ張ってくる。私はただ黙ってその様子を見ていた。

「どうぞ。こちらに座ってください」

 促されるままに従う。

 そして先生はキャスター付きの椅子を私の正面へ転がし、自らも腰に下ろした。

 まるであの時間の再現のように。

「……勝手に観てすみませんでした」

「構いませんよ。初めから見せるつもりでしたから」

 てっきり叱られると思っていたのに、あっけらかんと言われる。

 逢坂先生は、このような物言いをする人だっただろうか。

「その前に、ここに来てもらったの理由をお話しします。あのデザインについてです」

「————ッ」

 膝の上に乗せた手が反射的に握りしめられる。

 土日も学校に来ていたというから、観られたとは思っていた。

 しかしわざわざこうして呼び出されるということは、先生はアレに思うところがあったということ。常に実習生として一線引いた態度を維持していた逢坂先生がそれを超えて来た。

「これは僕の勝手な想像で、もし違うならハッキリと言ってほしいのですが、アレは去年の三橋さんのデザインから流用したのでしょうか」

「……はい」

「では、水上さんが土日もお休みされたのもあのデザインがあったからですか?」

「……すみません」

「水上さんが謝る必要はありません。謝らなければならないのは僕です」

 すぐに否定しようと口を開きかけた時、遮るように逢坂先生は手で制止した。

「水上さん、今から僕は教育実習生としてではなく、逢坂玲人個人として話をしようと思います。聞きたくなければ退室して頂いて構いませんし、学校に報告してもらっても構いません」

 突然に先生が言い出した言葉の理解が追いつかなくて黙ってしまう。

 それを了承と捉えたのか、逢坂先生はいつもの微笑みすら見せずに続けた。

「こうなったのは全部、僕が実習生の立場を忘れて水上さんと話してみたいと思ったせいです。それなのに半端に立場を守ろうとしたからです。本当に申しわけない」

 逢坂先生はそう言って、深く頭を下げた。

 しかし私は先生に謝られたというのに、頭が真っ白になって固まってしまっていた。

『水上さんと話してみたいと思った』

 その言葉があまりに衝撃的で、何を考えていいのかわからなくなっていた。

 そうこうしている間に先生は顔をあげて、真っ直ぐに私を見据える。

 息が苦しい。胸が刺すように痛いのは罪悪感のはずだった。

「ですので、水上さんが謝る必要はありません。それに僕は、それがわかっていても水上さんになにを言えばいいのかわからないんです。あれはその証拠です」

 逢坂先生はスケッチブックを指さす。

「どれもなにを描きたいのか、まるでわからなかったでしょう?」

「そんなことは————」

「あれは水上さんに贈るために描こうとしました。刺激になるような、慰めになるようなものが描ければ、僕でも水上さんになにかできるかもしれないと思ったからです。でも、結局は最後までなにを描けばいいのか、僕にはわかりませんでした」

 目の前にいるのは本当に逢坂先生なのだろうか。

 いつも私の言葉を聞き終えてから言葉を口にしていたのに、いまは強引にでも話を進める。

 いったい何が起こっているのか、まるで理解できない。

 ————私は逢坂先生のことを、なにも知らない。

「当然です。僕は水上さんのことをなにも知らないからです」

「————え?」

 嫌いなはずの音を口にしてしまう。

 しかし逢坂先生は嫌な顔ひとつせず、戸惑うことも微笑むこともせずに私を見ている。

「だから僕には水上さんがなににどれほど傷ついているのか、わかることができません。知ったとしてもなにも言えないかもしれません。その資格すらないかもしれません。それでももし、もし許してくれるのでしたら、それを少しでも知りたいと思っています」

 忌々しかったはずの雨音は、いつの間にか柔らかい音色へと変わっていた。

 私の知らない逢坂先生の瞳が、ただまっすぐに、私だけを見ている。


          ↕


 僕が口を閉じると、水上さんはその長い髪で顔を隠すように俯いた。

 急に呼び出され、歳上の男に一方的に捲し立てられれば戸惑うのも当然だろう。僕が逆の立場であれば恐怖を覚えていただろうし、そうなっても当然と思っていた。

 だが水上さんがなにを言おうと、すべて受け入れる準備はできている。

「……どうしてですか?」

 時計がどれほど刻まれたかわからなくなったぐらいに、水上さんはポツリと呟いた。

「すみません、何のことですか?」

「どうして、そんなことを言ってくださるんですか? 私、あんなことしたのに……」

 今にも消え入りそうな声だった。

 心苦しさをぐっと飲みこむ。

「繰り返しになりますが、そのあんな事というのがどれほどの事なのか、僕にはわかりません」

 気の利いたことの一つも言えない自分が嫌になる。きっとこの場に相応しい言葉があって、他の誰かであれば話すことが出来るのかもしれないが僕はもっていなかった。

「ですのでなぜ僕が水上さんと話がしたいのか、それについてだけ話します」

 鉛のようななにかが、また喉の奥をつたう。

 水上さんがなにを望んでいるのか、はっきりはわからない。

 衣笠さんや藤堂さんが僕に求めていることに、答えることが出来ない。

 新島先生の心配りも、結局は裏切ってしまった。

 それでも、やめようとは思わなかった。

「ありていに言えば、水上さんが気になるからです」

 震える手を抑え込むように机の上で組む。

 代わりに膝が震えだしたので、つぎは踵が痛くなるまで床を踏みしめた。

「でも僕は色々と取ってつけたような言い訳ばかり並べて、それを認めることができなかった。教師を目指す実習生にはあってはならないと。だから三橋さんになにも言えなかったんです」

 猪狩君は本当にすごい。

 こんな勇気のいることを、あっさりとやってのけるのだから。

「あのデザインを観て、衣笠さん達に相談されて、正直に言うと悩みました。こんな僕がなにを言えるのかわからなかったからです。もうかかわるべきではないとも思いました。新島先生にすべて任せるべきだと、そのほうが正しいと思いました」

 もうやめろと叫ぶ自分がまだいる。

 こんなことはすべきではないと、間違っていると叫んでいる。

「でも我慢できませんでした」

 叫び続けるなにかを追い払う。

 そんなことはすでに知っている。

 そんなことはもう幾度となく考えた。

「今日の水上さんを見て、もし本当に苦しんでいるのなら、僕が話をしたかった。たとえ何も言うことができなくとも、君と話がしたいと思いました」

 まるで格好のつかない告白のようだと、自嘲的な笑みが浮かびそうになる。

 思えば、誰かにここまで自分の言葉を伝えたことはなかった。

「それは水上さんが初めて心を動かされた絵を描いたからです。あの『A・A・O』を観て、僕は生まれて初めて感動しました。だから君と話がしたいんです。あの衝撃をくれた君が、僕は気になってしかたがないからです。それがようやくわかりました」


 これが葉山先生との会話と猪狩君、そしてなにも描けなかったことで僕がわかったことだ。

 僕はずっと、正しい答えを誰かが知っていると思っていた。

 なにも知らなくて、なにもわからないから、適当な言葉と表情で誤魔化していた。

 教えてもらったあり方や、学んできた生き方にすべてを委ねていた。

 しかし水上さんと出会ってしまって、『A・A・O』を観てしまった。

 あの絵に覚えた怒り、それはそんな生き方をしていたことを恥ずかしいと思わされたからだ。

 僕にはなにもないことをみられたと思ったからだった。

 それを恥ずかしいと思わされたことが、どうしようもなく情けなくて腹立たしかった。

 なのに、同時に感動もしていた。

そんな心からの実感を、本物だとわかったことに気づかされたのだ。

 最初はそれもわからなかったから、また僕は必死になって理由を外に探してしまっていた。

 でも葉山先生の言っていたとおり、そんなものはどこにもない。

 なぜならこれは僕の問題だからだ。僕だけにわかることだからだ。

 猪狩君を羨ましいと感じた時に、ようやくそれがわかった。

 わかったとしか言いようがない。

これが正しいのかどうかなんてわかるはずもない。

 こびりついた何かは全力でそこれを抑えようとするけれど、わかってしまったらもう駄目だ。

 これが教師に相応しくないことだったとしても、それはそれで結構だ。

 この実感をわからせてくれた水上さんに、僕は恩返しがしたくてたまらないだけなのだ。

 そしてなにも知らない僕にできることは、たった一つしかなかった。

「だから水上さん、よろしければ、また僕と話をしてくれませんか?」

 包み込むような雨の、満ち足りた音だけが聞こえた。

 僕は知らない水上さんの瞳が、ただまっすぐに、僕だけを見ていた。

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