第3話 発途
恭平の車に戻ると、張り詰めていた空気が弛緩して、思わず吐息が漏れた。
「よし、開けようぜ」
恭平が楽しそうに言い、早苗がいたずらっぽく笑う。俺たちは、車の横にしゃがみこんだ。
「何入れたか覚えてる? 私はね、キララちゃんのシールブック」
そういえば、早苗はそんなものにはまっていた。キララちゃんのシールは、いわゆる着せ替えものだ。いろいろなバージョンが売られているのだと早苗に力説されたのを覚えている。確か彼女は、これをきっかけにおしゃれに目覚めたはずだ。
俺の覚えているものは一つしかない。何かの手紙。自分に宛てたものだったか、それとも誰かへのものだったのか、そのあたりの記憶は朧気だったが。
恭平が、タイムカプセルを地面に下ろし、早苗の渡したティッシュペーパーを使って、本体の土を落としていく。鈍い銀色の光を放つようになったそれは、地上に落ちてきた月のようだった。
「開けるぜ」
恭平のごつごつした指が、小さな留め具を外していく。彼が力を込めて引っ張ると、楕円の物体は二つに分裂して、その中に紙の束が見えた。
「手伝うよ」
俺は、半分になった入れ物から、丁寧に紙を引っ張り出していく。まず何かのパンフレット、それから先ほど早苗の言っていたシールブック、小さなノート。三つの封筒。
三つの封筒のうち、一つは淡い桃色だったので、早苗に渡す。もう二つは、デザインの全く同じ、白い、透かしの入った封筒だった。恭平と二人で買いに行ったレターセットだ。手紙を裏に返し、宛名を確認して恭平に渡す。どうやら、自分に向けた手紙のようだ。
「シールは早苗だろ」
パンフレットは、スポーツ関連のもので、恭平が入れたものだった。ノートは俺。表紙にジンベエザメの模様が箔押ししてある、おしゃれな紺色のデザイン。
「じゃあ、手紙開けようか」
早苗が鞄から取り出したハサミを使って、俺たちは封を開けた。
「せーの」
早苗の掛け声に合わせて、俺たちは封筒から手紙を引き出した。俺の手紙の便箋の数は一枚だけ。いかにも自分らしいなと苦笑しながら、二つ折りになったそれを開く。
中には、だいぶ勇ましい筆致で、こう書かれていた。
『拝啓、二十五才の宮田徹也へ
元気ですか? おれは元気です。大人の自分に対して言うことはあまりないので一つだけ書いておきます。
おれの夢は、海洋生物学者になることです。なれましたか? もし諦めていたら、思い直してもう一度頑張ってください。
じゃあ、恭平と早苗によろしく!』
クソガキだ。
俺は、自分の書いた文章の自由奔放ぶりに苦笑した。そうだ、確かに小学生の頃の俺は、こんな風に若干気取ったところがあった。それも、心の中でだけ恰好をつけているタイプの気取り方だ。今思うと恥ずかしい限りである。
俺の視線は、その短くて恥ずかしい文章を何度もなぞった。『海洋生物学者』。幼稚な文章の中で、その言葉だけは、黒く濃く、はっきりとこちらを見つめている。
「はは」
思わず笑みが漏れた。何も変わっていない。小さなころから、川や海が好きだった。魚はもちろん好きだが、浜辺にいる生物や、イソギンチャクなどの脊椎動物以外にも興味があった。休みの度に、県内の海や川に、釣りやら観察やらに行って、次第に恭平ですら三回に一回くらいしかついてきてくれなくなったのも、いい思い出だ。
大学では、主に水生の軟体生物を研究している。やりたいことはやれている。だけど。
「何が書いてあったか聞いてもいい?」
いきなり早苗に顔の真横で囁かれ、思わず飛び上がった。
「海洋生物学者になれよって」
「ブレないなあ」
恭平が苦笑する。馬鹿にしたようなトーンでは全くなく、ただ、何も変わらない俺を懐かしむこのような声音。
「私はね、ファッションデザイナーになるって書いてあった。目指してたことすら忘れてたよ」
今も服は好きだけどね、と付け加える。
着せ替えシールをタイムカプセルに突っ込むくらいだから、この時の早苗は、アパレル業界を目指していたらしい。初耳なような気もしたが、そういえば、早苗は夢がコロコロ変わる人間だったなと思いだす。そんな彼女も、今となっては市役所職員。冒険も夢もへったくれもないと言っても過言ではない仕事についているのだから、人生とは分からないものだ。
「恭平は?」
「いや、まあ普通だよ、健康に気をつけろとか、家族を大事にしろとか、実家が繁盛するように頑張れとか」
一番まともな答えだ。恭平は決してエリートの頭を持っているわけではないが、こういう時には誰よりもきちんとしている。小さいころから、実家の中華料理屋を継ぐことが決まっていたからかもしれない。
「繁盛してる?」
「まあ、そこそこ?」
それよりお前だろ、と恭平は俺を指さした。
「どうなの? 大学」
「ぼちぼちだよ」
「いや、そうじゃなくて。海洋生物学者になるんだろ?」
「うーん」
俺は言葉に詰まった。
水生生物が好き、その気持ちは変わっていない。だけど、目を輝かせて夢を見るには、俺は大人になりすぎた。国は基礎研究にあまり金を出さない。化学や物理、宇宙系の分野にすらないのに、医療以外の生物分野に十分な資金があてがわれるわけがない。国の研究機関に入れればよいのだが、俺は天才ではないから、それは厳しい。環境や野生生物の研究は儲からないから、民間の組織で研究を続けるのも難しいだろう。食いぶちにあぶれるような生活はしたくない。
「お金と現実がね……」
「海洋生物、儲からなそうだもんねえ」
市役所職員の容赦ない言葉がかかる。
「本当は博士課程に行きたいんだけど。でもこれ以上親に迷惑もかけられないし」
「でもさ、そもそも今も就職できるかどうか怪しいんじゃなかったの?」
学部に入学したばかりのころに言っていたことを、よく覚えているものだ。
「博士取って、大学に残るっていうのは?」
本当はそれが一番いいのかもしれないとは思う。博士号を取れる自信がないというのが問題なのだ。
「お前、そもそも就職活動してるのか?」
「一応ね……」
「うわ、やる気なさそう」
恭平は恭平でひどい言い草だ。
「だらだらしていても仕方ないんじゃない? どうせその言い方だと、親にも相談してないんでしょ?」
院一年生のうちに早く相談しておかないと、お金関係とか面倒なことになるよ、と早苗に忠告される。それもその通りだ。だが、なんとなく言い出しづらい。親との関係は悪いわけではないが、重大な話を切り出すのは心底苦手だった。
黙っていると、早苗は朗らかに笑った。
「いいじゃん、とりあえず相談してみなよ。おじさんもおばさんも、頭ごなしに否定したりするタイプじゃないでしょ」
「もし喧嘩になるようだったら、味方してやってもいいぜ。おじさんたち理詰めで来るから俺の力だけじゃ厳しいかもしれないけれど」
恭平が茶々を入れる。
なんだか不思議な気分だった。自分は二年間もこの場所を見捨てていたのに、彼らはまだ、俺の味方をしてくれる。理系大学院生のことを何も知らないからと言ってしまっては元も子もないが、それでも彼らの言葉は、同級生の言葉よりも柔らかくて温かかった。
俺は、足元に置かれているノートを拾った。ジンベエザメの箔押しされたノート。確か、特に気に入った生き物についてスケッチしたり調べたことを書いたりしていたノートだ。ノートをくれたのは、恭平と早苗だった。
「俺たちはさ、徹也が小さいころから魚とか好きだったの知っているからさ。応援したいんだよな」
恭平が、風に溶けそうな声でそう言った。
「毎週海に連れていかれたのもさ、そのころはめんどくせえと思ったこともあったけど、なんだかんだ好きだったよ」
「そうだよね。海に行ってよくわからない甲殻類とか捕まえてこその徹也だもんねえ」
二人の中の俺は、想像以上に水辺に張り付いている人間だったようだ。思わず笑みがこぼれる。
「無理やり連れ回してごめん」
「謝るようなことじゃないだろ、なんだかんだ楽しかったって言ってるわけだし」
でもまあ、と恭平が付け加える。
「小さいころからの夢を叶えるってさ、俺たちにはできない事だから。徹也がそれを目指すなら、背中を押したいって思うよ」
恭平の視線の先、夜空の星々を追う。
「結婚するんだ。半年後に式を挙げる予定。近くなったら招待状出すぜ」
聞いたことのない話だった。恋人がいることすら知らなかった。
俺は、早苗を盗み見る。
「いやあ、本当におめでたいよね」
早苗は朗らかに笑った。当然のように、彼女は知っていたようだ。
「まさか恭平が一番に結婚するとはねえ。相手の人、めちゃくちゃ可愛い人なんだよ。徹也も早く会えるといいね」
恭平は下を向いて頭をかく。うつむいて落ち着きがなくなるのは、照れた時の彼の癖だった。
「家の方も、そろそろ本格的に継ぐことになるだろうし。こんな風に冒険できるのは本当にあと少しなんだろうと思うよ」
生ぬるい夜風が三人の間を通り過ぎていく。
「辛気臭い顔してるんじゃないわよ」
早苗がそう言って、俺たちの背中を叩いた。
俺は、バージンロードを歩く花嫁を待つ恭平を思い浮かべた。白いタキシードは似合わない、黒の方がいい。きっと、眩しいものを見るような瞳で、花嫁の姿を見るのだろう。花嫁はどんな人だろうか。高校生のころ、恭平は穏やかで可愛らしい女の子が好みだと言っていた。
「結婚式、楽しみにしてるわ。飯はうまいやつで頼むよ」
その言葉に、二人がくすくすと笑みを漏らす。
その時、恭平のズボンのポケットから、小さなバイブ音が聞こえてきた。
「
ちょっと出てくる、と言って恭平は数十メートル離れたところまで行って電話に出た。話している内容までは聞こえてこないが、その唇の角度やまなざしから、電話の向こうにいるユキさんという人が、婚約者なのだろうということは一目瞭然だった。
「うーん、恭平惚気始めちゃったよ。じゃあ私たちも、なにか違うことしようか」
早苗は、車のトランクを開けて、カラフルな袋に入った大きな何かを引っ張り出した。外側の包装の中に、小さな縦長の袋がたくさん入っている。手持ち花火だ。よく見ると、パッケージの上部には、ポップを通り越してギラギラした書体で「手持ち花火バラエティパック」と書かれている。
「本当はみんなでやろうと思ってたんだけど、先にやっちゃおう」
彼女は、同じくトランクから、水色のバケツも取り出した。幸いなことに、この駐車場には水道がある。俺は、バケツを彼女から受け取り、水汲み係を請け負った。
「さあ、やろうか」
水汲みから戻ってくると、早苗はどこからともなく取り出した、おしゃれな蠟燭に火をつけていた。
「その蝋燭、手作り?」
「まあね」
パフェのようにカラフルな層に、表層の花の飾り。こんなところで使ってしまうにはもったいないほどに、凝った意匠だった。
「もういいんだ」
彼女が最初に選んだのは、ススキのように火花が下に向かって流れていく花火だった。手持ち花火の定番。一本を俺に渡して、自分は蝋燭の火をもらいに行く。
シュウウ、という音を響かせながら、二人の炎が互いの顔を照らした。二年ぶりにはっきりと見た早苗の顔は、深夜でも化粧が完璧だった。
俺たちは無言で、順番に、何本かの花火に着火していった。コンクリートの地面に吸い込まれていく火花を見つめながら、小さなころ、両親と庭でやった花火を思い出す。
赤、黄色、緑。炎色反応で様々な色に姿を変える花火は、頭上の白銀の月を、はるかに凌駕していた。
早苗は、いくつもの袋を並行して開けていくスタンスのようだった。ススキのような花火、青緑の火花が散る花火など、全てが少しずつ残されている。
俺は、早苗がふと手に取ったものを見て、思わず制止した。
「おい、それ線香花火だろ」
「線香花火を途中でやっちゃダメなんて決めた人はいないでしょう? ちゃんと後で三人でやる分があるし、今私とやるためのものもあげるよ」
線香花火を強引に渡される。仕方がなく受け取って、彼女と同じように火をつけた。
花火の先の、緋色の球がだんだんと膨らんで、ぱちぱちと音を立て始める。弾けて咲く火花が、空中に消えていく様は、どうにも切なかった。
「私ね」
微動だにしないまま、早苗が呟いた。線香花火の二つの灯りは、あまりにも暗くて、その表情はうかがえない。
「ずっと好きだった。恭平のこと」
早苗の線香花火が落ちる。コンクリートの塊に打ち付けられた丸い炎は、美しくて眩しい欠片を放ちながら、瞬きする間に消えてしまう。
「気が付いたのは、中学二年生の時だったと思う。恭平が、初めて告白されたって言っていて、その時、他の人と付き合わないでほしいって思った」
普段の早苗のハイテンションなノリはなりを潜めて、囁くような低音だけが響いていた。
「分かってたよ。恭平のタイプって、おとなしい女の子だもん。私には勝ち目はない。いつも偉そうに威張っちゃうし、リーダーとかやるの好きだし、びっくりするくらいメンタル強いし。それにさ、言えなかったんだよ。今までみたいに接することができなくなったらどうしよう、って」
俺の線香花火は、どうやら成功したようだ。揺らぐ朱色が、スッと音もなく消えていく。
「もういいんだ。こういう日がいつか来るってわかっていたし。恭平には幸せになってほしいからさあ。私は、あいつに彼女ができた時も、結婚が決まった時も、本当に嬉しかった。でもさ、やっぱり」
苦しいのか、悲しいのか、辛いのか。その先の言葉は、闇夜に溶けていった。
「結婚する恭平の青春は終わり。だから、私も終わりにするんだ」
そうか、と思った。これはお別れのための冒険だったのだ。結婚する恭平、恋を諦める早苗、そしてここに戻る気のない俺。
俺たちの関係は、これからも続いていくだろう。盆と正月、さすがにそのくらいは、暇と金があれば俺も帰る。その時には、三人で飲んで互いの近況報告をするだろう。だが、それだけだ。もう二度と、三人でこっそり海に行くこともないし、深夜の遊園地でタイムカプセルを掘り起こすこともない。俺たちが、「いつもの三人」であった時間は終わる。
「でも結婚はしたいからさあ、職場で結婚相手探すわ……。一人先輩でいい人いるんだよね」
そういった彼女は、いつものように、明るくどこかつかみどころのない早苗に戻っていた。その完璧な化粧の下に、どんな顔が隠れているのかを、片鱗だけでも知っているのは、この世でもしかしたら、今の自分だけなのかもしれない。
「そういえばさ、徹也と恋バナしたことないね」
「そりゃあないだろ」
何が悲しくて女子と恋愛の話をする必要があるのか。
「なんかないの? 実は私のこと好きだったとか」
「よくそんなセリフが言えるなと驚いている」
早苗は燃やし終わった線香花火の棒をぐるぐると振り回した。
「俺はマネージャーの坂上さんが好きだったし」
「ああ、高校の部活の? 坂上さんいい人だったよねえ。というか、二人とも当てつけみたいに私と真逆の人間が好きじゃん」
「そういう風に考えたことはなかったな」
俺は、足元に散らばった袋の中から、もう一本花火を取り出して火をつける。
「徹也には浮いた話はないわけ? 今」
「そんな暇はないんだよね」
秋の入口に差し掛かった風にあおられる火花は、不釣り合いで滑稽だった。長い長い青春、青くて熱くて濃厚な時間、それが、この花火と共に終わってしまうことを、俺たちは悟っていた。
「おい、ずるいぞ!」
急に向こうから声がかかる。見ると、携帯電話を片手に持った青年が、こちらに向かってこぶしを振り回していた。
「それ、俺が持ってきた花火なんだけど」
「別にいいじゃない。どうせ余っていたんでしょ」
早苗が口をとがらせる。
「恭平もこっち来て一緒にやろう」
俺のたしなめるような言い方が気に入らなかったのか、恭平はやや不機嫌なままこちらにやってきた。
「いやあ、何の音沙汰もないから心配されちゃって。ちゃんとやりたかったことはできたって言ったら、何事もなくてよかったって言われたよ。あ、あと今度徹也にも会ってみたいってさ」
そういって頭をかく恭平の表情は、溢れ出んばかりの緩みようだった。
俺は、恭平にも手持ち花火を渡す。
「おう、ありがとう」
三本の花火が、黄緑色の火花を散らして燃え尽きていく。その鮮烈な光が、俺たちの、記憶よりもずっと大人になった顔を照らした。
左腕の時計は、午前二時を指していた。最初で最後の、俺たちの深夜の冒険。さよならの旅。季節遅れの花火を、頭上の金色の月が静かに見下ろしていた。
残夏、卒業小旅行 藤石かけす @Fuji_ishi16
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