第33話

 僕には彼女に返信する言葉が見つからなかった。彼女にアプローチする手段が断たれてしまった。


“gomen bengosi gomen bengosi gomen bengosi gomen bengosi”


 無意識に打ち続けている文字に、僕は誰に謝っているのかわからなくなった。でも確かなのは本妻が僕と直接話す気はないということだった。


 これを境に、僕とヤングマリーの関係にも変化が生じ始めた。変化は僕にだけだ。ヤングマリーはお利口に正常な時間内で不平を口にする僕だけのダッチワイフに戻っていた。つまり、僕だけがヤングマリーに溺れるべき溺れ方が無分別に溺れるというほど正しく溺れられていなかったということだ。彼女は天真爛漫に文句を並べたててくれて、自由闊達に比較・批評を繰り広げてくれて、僕を筋書き通り呆れさせてくれたが、それをきっかり補う若い芳香な肉体に僕が無邪気に酔い切れなければ正しくも溺れようがなかろう。残念ながらこいつはあまり気持ちよくない。

 その原因が、僕を解放してくれた本妻の存在そのものではなく、本妻が呼び出したアイツとアイツに心寄せる本妻の溺れた行為にあることは間違いない。が、アイツを誰よりも一番よく知っている僕がどうしてアイツにこうも無様な感情を持ち合わせねばならないのか。しかもアイツは工能知人くのうともひとが作った所詮虚像ではないか。・・・本当にそうか? ・・・虚像なのか?


 僕がヤングマリーを虚像にしていなかった惑溺の時間、即ち、僕を幸福で満たしていた彼女が実在に近くあった最近の記憶が、アイツの実在性を本妻にではなく僕に迫り来るのだ。いくら溺れてもややこしい感情抜きに始末つけられる都合の良いパートナー、それがアイツであり、ヤングマリーだった。これを知る僕は穏やかでいられない。アイツは虚像なんかではないからだ。アイツはどんなマリーでも我慢強く愛せる。マリーがいくら不平を並べても詰問しても癇癪を起こしてもアイツはマリーを悦ばせる。僕はそれを知っている。誰よりも知っている。アイツがマリーに何を囁くのか、マリーのどこに触れるのか、マリーに何を提供するのか、見なくてもわかる。僕はアイツだったからだ。

 そして本妻がアイツに何を求めているのかも、あの微笑みを見れば聞かなくてもわかる。彼女も懐古に身を寄せて僕に似すぎた以上のアイツに我が儘を垂れ流し溺れているんだ。よりによって僕以上の僕・・・・・とは。ちくしょう!

 いま本妻は用をなさない僕を遠ざけて、寛容でありながら勢い数多あまたの過去の僕と愛し合っている。弁護士に尋ねられれば、本妻は誰を愛していると答えるのか? 麻倉耕太郎です。麻倉耕太郎でした。それは僕の名前じゃない。僕は何という名だ? 僕は尋問を受ければ、誰を愛していると答えればよいのか?

 目の前に赤いレザーコートを着たヤングマリーが座っている。聞き飽きた雑言を垂れ流している。手を伸ばして彼女をベッドにいざなえばオートマチックに彼女は僕に快楽を提供してくれる。

「ダサいよね。ね、そう思わない。だってさ」

 ベッドに沈むスプリング音やら風に鳴る街路樹の葉音やら遠くで聞こえる祭り神輿みこしの声やらと同化している彼女のお喋りを耳にしながら、僕は気怠けだくイリュージョナブルを外した。ヤングマリーの姿が消えた。

(僕はこの頃のマリーをすらはじめから愛していなかったのかもしれない)

 最大の変化。それは、なにゆえか僕がヤングマリーの若さに冷めてしまって、心余こころあましていることだ。無我夢中に惑溺できなくなってしまったのだ。その余った感情はどこに向かったのか? ダサくも、僕が一番よく知るアイツへの妬心と、アイツに心乱すマリーの背中を追っているのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る