第27話

 僕を抑圧する最大のものが僕の生活から完全に取り除かれた。出て行ったと思ってはいるが戻ってくるのかこないのか不確かな不安は僕に残ったままだった。それが彼女から届いた1通のメッセージによって僕を完全に彼女から解放してくれた。

 それ以上何の余す意味も為さない粗いアルファベットの文字は、僕をなじる最後の愛情さえも帯びず、ただ彼女の世界から僕を消去するだけに終始していた。

“zutto kao mitakunai”

 ひび割れていた夫婦生活ごっこに彼女からピリオドを打ってくれた。やがて要求されるかもしれない高い代償は或いは覚悟せねばならないかもしれないが、それと引き換えに得られる自由に、僕は心震わせていた。俗事にまみれた爾今じこんのことなどいまはどうだっていい。いまは、何もかもを忘れてヤングマリーに溺れてみたい。溺れるべきだった。こうなりゃ明日も明後日も出社を拒み、永遠にあのパワハラ相談から距離をおこうかとも思う。

 イリュージョナブルを手に取る。彼女がそこに現れる。彼女がそこに有る。僕にだけに実在している。

「おはよう耕太郎」

 お決まりの接吻を彼女の唇に合わせた。

「おはようマリー」

 もう忘れることなどない。欲しかった日常だ。こんな生活に戻るなら僕は何も要らない。

「昨日はごめん」

 喧嘩したんだろうと先回りしておく。習性は体に染み残っている。この展開が最も多かったんだから忘れはしまい。だが今回はちょっと違った。

「何謝ってんの?」

 外したか? 昨晩は何があったんだろう? こうした推量も逢瀬の楽しみのひとつになっていた。

「昨日要らんこと言わなかったかな、僕?」

 昔も今も顔を合わせばマリーは大抵僕に矛先を向けて文句を並べていたのだから、これは一番人気に山を張るようなものだったはずなのだが。

「ふうん、そうなんだ」

「なに?」

「君はね、必ず聞くんだよ。嘘や後ろめたい事してるとき、要らんこと言った? ってね」

 このころからこうだったのか。この時分は深く考えもせずおそらく受け流していたんだな。だからあまり刺さるものを感じなかった。いまもしこれを本妻に言われていたら心は扉を閉ざしただろう。

 その違いは結局のところ若さだ。張のある若いお肌が言葉を薄め曖昧にしてくれていたんだ。若さにみなぎったお肌は言葉に意味を持たせなくともそれ自身で自律できる。若いお肌は熱を帯びて自らの汗で熱を冷ます。若さはなんと単純で愛すべき存在か。その違いこそが僕を心地よく劇薬に走らせているんだ。

 ところが若かったお肌の効用が次第に薄れていく先に、うんざりとの間のクッションになってくれていた曖昧さが剥がれ落ち、言葉の猛々たけだけしさだけが残った。僕が本妻を疎んじた主たる理由がそこにある。

 ここで大事なことは、枯れたと思っていた僕側の性欲がまだ枯れてなくて、単に相手のお肌の衰えに付き合えていなかったということだ。でなければこれほど僕は若いお肌に溺れはしまい。

「言ってたよ要らないこと」

(何を言ったんだろ?)素直には聞けなかった。

「Aさん」

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