第26話

 翌朝、冷蔵庫の扉に手をかけた時、亡霊の姿を見確かめるように振り返ってみた。だが、そこには怯える必要のない平和があった。悦びを押し留められなかった。野菜ジュースとコップを高々と掲げた。

 不謹慎だろうか。道理からすれば不謹慎だろう。妻が家を出て大喜びしているのだから。しかし解放されたこの喜びを彼女が見ていない保証の元で、どうして抑えられようか。無理なことである。

 そして僕にはためらいはなかった。彼女を我が家に呼び戻すんだ。

 常ならば気の重いマンデーだったが仕事のことなんて考えられなかった。出社してすぐに引き出しを確認した。紙袋は昨日と同じ状態で安置されている。早く彼女の縄を解いてやりたい。しかし昨日と違ってここで彼女と会うには余計なものが多すぎた。だったら早々に仕事を引けて帰ってしまおうか・・・。

 理由付けが面倒なので、紙袋ごと抱えて逃亡することにした。出退勤管理システムに出張と打ち込んで得意先の会社を二つほど適当に入れておいた。管理職は自分のスケジュールを自分自身で管理するので、誰の決済も必要ない。

 オフィスを出ようとすると、背後から呼び止められた。

「麻倉課長」

 例のパワハラメールを寄越した男だった。

「いまよろしいでしょうか?」

 体は正直だ。後ろめたさに怯えて萎縮いしゅくする。

(面倒な奴に捕まったな)

 この男、所属部署は僕とは違う。しかしハラスメント相談窓口になっている僕にはいろんな部署から苦情が寄せられる。たまったもんじゃない。見た瞬間、彼が何を言いたいのかわかったので、

「用件はわかってる。だが生憎僕はこれから急用で出なくてはならん。明日にしてくれ」

 そう言うと、彼は存外物分かりがよかった。

「そうですか。では明日、改めてご相談させてください」

「うんうん、わかったわかった」

(こいつ今日車にでもはねられてくれんかな)

 彼が頭を下げて後退あとずさりしたところで災厄さいやくを振り切ったと安心した。

「そう言えば・・・」

 ところが彼は僕の足をまた止めた。

「日曜日、麻倉課長出社されましたよね?」

 昨日のことが頭をよぎった。

(こいつ何か知ってるのか?)

(待て待て、こいつは施設管理部門だ)

(休日の出入者記録をチェックしていたとしても別に不思議じゃない)

(誰が出社していたか確認するのは当たり前のことだ)

(そこで何をしていたかまではわかるはずない)

 自分にそう言い聞かせた。

「役員会議室、使われました?」

 嫌な質問だった。無論正直に答えるわけにはいかない。

「使ってないが」

「そうですか」

「どうしてだ?」

「開きっぱなしだったものですから」

 迂闊うかつだった。総務課のキャビネットからキーボックスをさがしだしマスターキイを拝借した。終わった後は間違いなく元の場所に返しておいた。しかしまさか閉め忘れたのか。確かに開けた記憶はあるが閉めた記憶がない。ヤングマリーを外に連れ出すことで頭が一杯だったからな。だがそうとも言えず・・・

「その前からじゃないのか?」

 迂闊うかつな発言をしたものだった。昨日の僕の所在を暗に示唆したようなものだった。しかし彼は僕の迂闊を迂闊にスルーしてくれた。

「先週誰か使ったかな・・・」

 彼は首をかしげている。そういった閉め忘れはほとんどないのだろう。

「ひとりで使うはずないじゃないか」

 本当のところは実在定かならぬ若妻と二人だったのだが、それは秘匿中の秘匿である。昨日のエクスタシーが思い出される。快楽を追い越して憂鬱ゆううつが胸の中でクラッシュしていた。

「失礼いたしました」

 彼はどこか挑戦的な腰つきを、折り曲げるのでなくつるを引くように引っ込めて代わりに不遜ふそんな顎を突き出した。

「それでは麻倉課長、明日よろしくお願いします」

「うん」

「重たい話ですけど」

 こちらの気も重たい。どこかで僕の逃亡を抑止する摂理が動いている。でも、やめるわけにはいかない。鞄の中であいつが僕を駆り立てているのだ。

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