第25話

 陽の明るいうちに帰る勇気はなかった。それに馬刺しを用意してもらう時間も考慮しなければならなかった。

 一旦職場に戻り、イリュージョナブルを机の引き出しに仕舞しまった。ここに安置しないとどうにも気が重くて何処へも足が向かなかった。

 本妻の検閲を受けたイリュージョナブルは、鎖で括られたダイナマイトみたいに思えた。誤って使うと引火し爆発、そんな危ないもののように感じた。この危険物の奥で、ヤングマリーが縛られてそこから出ることあたわざる身上にさらされていると想像すれば、どうして僕がこれを容易く使えようか。

 これを身辺から放せば、少しは気持ちが軽くなるかと期待したけど、ちっとも軽くならなかった。それどころか不安が増した気がする。ヤングマリーと会えなくなる不安とは一味も二味も違った不安だった。

 昔からこういった時の対処が僕はとても下手くそだ。不安を不安で上書きしようとしてかえって不安を増幅させてしまうのだ。この時も時間余しついでに、わざわざ見なくてもいい同僚間のパワハラの訴えを開封してしまう。

 考えとしてはこういうことだ。気鬱きうつなことは気鬱きうつな時にまとめて見る。幸運な時に見るとご馳走が減ったみたいで損した気分になる。だから僕は不安なことを一緒くたに扱うようにしている。

 しかしだ、激烈な訴えを目で追っていくうちに残っていた僅かな力まで削がれて負債を抱えたような気がしてきた。明日を生きるのが嫌になってきて吐き気さえ覚えた。どうもこのやり方は間違っている。そろそろこのやり方を変えなければならない。

 薄暗いオフィスを眺める。ヤングマリーと交わった午前の戯れが時を隔てウィルスのように僕の体に忍び寄る。体の何処かが感染したのかうずきに似た痛みを覚える。堪らず僕はオフィスを飛び出した。

 うっかりすると午前と同じルートを辿りそうだったので、景色をひっくり返し意識的に反対方向に歩幅を広げ歩いた。歩く他に気をしずめる手段が僕には探せなかった。

 酸っぱい多量の汗で色を変えたワイシャツが生乾く黄昏たそがれ時、僕はようやく帰宅した。携帯アプリで確認すると、今日一日で26378歩、歩いていた。

 疲れていなければ家に入れそうになかった。馬刺しを食べるのでお腹を減らすとかそういうんじゃなくて、余力を残して彼女と向き合う自信がなかったのだ。思考をできるだけ削り取りたかった。案ずることなかれ僕は十分にヘトヘトだった。

「ただいま」

 力ない自分の声が薄ら寒い。玄関に灯りもない。

(おかえり)

 心の何処かで反射してくるその声を浅い本能が遮断しゃだんしている。しかし家の中は静まり返ってなにも聞こえない。何故かスリッパが片方見つからない。仕方がないので裸足で上がりかまちに足をかける。キッチンに向かう。作り笑顔をセットし直す。彼女がどこで息を潜めているかしれないから。

 キッチンからは何の気配も匂いも、また調理の痕跡すら感じ取れない。臆病な心は命令もしないのに勝手に自らを解放しようとし出すので、僕はそれを必死で抑えている。

(ただいま?)

 押し込めた悦びが解放の上蓋うわぶたを押し上げようとする。

(いない・・のかい?)

 愛なくみ分つ人も声も姿もないこのわびしさ。

 待っていたんだ僕は、これを。心が緩みと怖さと安堵とごちゃまぜになって細動している。もう言うしかないだろ。

 ばんざい! ごめんマリー。

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