第24話

 彼女に何が見えたのかわからない。僕の場合は何度着けてもヤングマリーだったが、彼女が着ければどうだったのだろう。或いは自分の若い頃を見て驚いただろうか。彼女の表情からはそれは伺えない。或いは、僕の意中の相手がまさかの自分だったことに驚きもさることながら面映おもはゆさで怒るに怒れなくなっただろうか(できればそうであって欲しい)。いや、そうではなくいまの自分と過去の自分とを比べていた僕の時への冒涜ぼうとくを、さらにここでなじるだろうか。しかし、彼女は詰るようなことはしなかった。ただじっと僕を見つめている。それがまた肝を凍らせるほどに痛く怖い。

 答えは五里霧中ごりむちゅうのままだが、結局、彼女が僕をそれ以上問い詰めることはなかった。レンズの向こう側から鋭い目で僕を見つめ続けている。そして、何も見えなかったかのようにイリュージョナブルをゆっくりと外し、眺め回して言った。

「よく手に入れたね、こんなの」

 僕の手に戻ったイリュージョナブルを指して彼女がさらに言う。

「どうした? 着けないの?」

 着けられるわけがない。ここで僕のノスタルジアを再現したらどうなるかわからない。僕は悟った。本妻はすべてを知ってしまったんだ。もうこうなりゃあ潔く観念するか。

「そっか、もう近く・・を見る必要ないか」

 彼女の呟きに確信した。絶対そうだ。遠く・・(過去)を見てしまったんだ。

 愚図ぐづついている僕を尻目に彼女が席を立った。そこに折り重なっていたもう一人のマリーの姿はもうない。本妻は怒っているのでない、哀しんでいるのでもない、嬉しそうでもない、表情にはいろんな感情が足されたり引かれたりしているようだった。

「帰り遅くなる?」

 そこに追求はなかった。嫌疑は込められていなかった。りとてなにかを認めたわけでもないだろう。しかしどこかよそよそしい雰囲気があった。

「いや、それほど遅くはならない」

 帰ろうと思えばいつだって帰れる。こんなあとにヤングマリーともう一度会うことを僕は考えつかなかった。本妻の何か押し込めたような感情に、先ほどとは違うおそれを感じていた。

「なるべく早く帰るよ」

 僕の感情は不規則に波打っていた。

「そう、じゃあ君の好きなの用意しておくね」

「好きなの?」

 背中を伝う冷たいものを垂れ流すに任せていた。

馬刺ばさしでいいよね。ワイン飲みながら久しぶりに昔話でもしよっか?」

 馬刺しが好きだったのはうん十年前のことでいまは好きでもなんでもない。だがそんなことより・・・許された!? そうなのか? そうさ、はじめから後ろめたいことなどないんだ。僕が愛を再燃させたのはマリーという女性の時間軸の中だけなんだから。そこから一歩もはみ出していないんだから。

「いいね。ありがと。ごめんよ」

 何に感謝し何に謝っているのか自分でもわからなかったが、結局僕はこうはぐらかすことで彼女達を本気で愛せていなかったんだと思う。

 本妻は刹那せつな目を閉じてぎくしゃくした口端くちのはを不釣り合いに吊り上げた。僕の緊張の残滓ざんしはオンボロの心にへばりついたままだった。

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