第16話

 一夜明けて。紛争地帯(本妻と対峙たいじするキッチンのこと)で本妻と目が合った。瞬時にこう思った。

(やっぱり若いほうがいい)

 つやのない肌を見て、僕は昨晩のことを少し後悔していた。

「おはよう」

 毎朝僕から声をかけるようにしている。本妻は興味なさげに冷たい途切れ途切れの視線を寄越す。

「今日もあんの?」

「ああ」

 休日出勤だった。珍しいことではない。

「晩は?」

「食べてくる」

 こんな調子だった。僕たちの儀礼的な会話に意味などない。

 冷蔵庫から野菜ジュースを掴み出しコップ一杯飲み干してから、僕は慣れた手つきで一人分の朝食を用意する。ラップを掛けた冷やご飯を電子レンジで温め、インスタント味噌汁を溶かすためお湯を沸かし、その間に生卵とネギと納豆と出汁をかき混ぜフライパンで薄く焼く。冷蔵庫から小分けの玉子豆腐を取り出し小皿に移し上からオリーブオイルを注ぐ。デザートに苺ヨーグルトを添えてトレイの端に乗せる。これで僕の朝食は完成だ。

 トレイを食卓にそろりと運ぶ。いただきますを独り言のように呟いてから配膳に手をつける。

 その間、彼女は寝間着のままカフェオレをカップに注ぎ、朝刊に添えてあったチラシ広告を眺めている。彼女の朝食は僕より30分遅い。多くはシリアルか菓子パンのようなおやつに近いものだった。それまで彼女は気儘きままにこうして朝をキッチンで無為むいに過ごす。

 僕らは隣同士に居ながら違う時間を過ごしている。こんな生活がもうどれくらい続いていただろうか。

「最近、部屋にいる時間長いね」

 思わぬ彼女の急襲に味噌汁を吹き出しそうになった。何故急にそんなことを言い出すんだろ?

「そうかい?」

 平静を装ったつもりだが、彼女は僕の動転を見透かしたかのようにチラシ広告を眺めたまま視線を合わせない。

「変わんないと思うよ」

「ふうん、そう?」

「うん、そう」

 着けていないはずのイリュージョナブルを無意識に顔の辺りに探した。昨晩のヤングマリーとのいざこざが脳裏に蘇った。ここも謝るべきなのか? いや、そんなことしたら認めてしまうことになる。僕のささやかな秘事ひめごとを。こうなると僕にはげるしか手がない。無様なもんだ。

 ごちそうさまも独り言の呟きで、急ぎ食器を食洗機に放り込んだ。

「行ってくるよ」

 行ってらっしゃいの代わりに彼女は凍りつきそうな冷たい視線で僕を見送ってくれた。

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