第36話

 雄吉に聴こえたかどうかはわからない。だが、そこにいない尨毛には千鶴の声も聴こえていたし、見えてもいた。言語も、海の外も、交渉術も、イデアポウンも知らぬ尨毛にだけ千鶴のこえは届いていた。

 身につけていた高価な服飾をトイレで脱ぎ捨て、千鶴は貪婪どんらんから逃れるため公共バスに飛び乗った。


 雄吉の懊悩おうのうを語るより、あの禍事まがごとを語るほうが物語が浮き足立たない。

 はこの中に戻った千鶴は、雄吉の企図きとする解放を拒んだ。そうなると彼女の生活はまたもとの窮乏に戻らざるを得ない。彼女たちを養う自動販売機たちの働きは底打ったままだったし、同じ町内にある無人店舗コンビニは殷賑いんしんを誇っていた。ただしかし、雄吉が彼女の窮乏に拍車をかけるためき止めていた華奢かしゃな暮らしの脱糞は、雄吉の失職と共に彼女の手に再び降るようになっていた。詰まるところ、彼女は続ルンペン生活を選んだのである。

 ただしこのルンペン生活には以前と異なるいくつかの変化や見当違いが含まれていた。ひとつは、それまで好奇の目から彼女を守っていたサングラスが外されたこと。ふたつは、露出した晴眼があまりに美しかったこと。みっつは、彼女自身自分の価値を認識していなかったこと。よっつは、いまだ雄吉が千鶴の解放を諦めていなかったこと。

 そんな無防備なまま千鶴は自転車を引いて暁闇の街に生きる糧を探しに出た。


 彼女と遭遇したその男は近くのパン工場に勤める期間職工だった。千鶴はそこの廃棄場から余ったパンの耳を半ば勝手に持ち出していた。千鶴の習慣を事前に把握していたわけではない。だが、その日の夜勤明け、廃棄場でパンの耳を持ち出す千鶴を偶然見かけた。彼女の照明に燈された横顔を見て場違いなものを感じた。やつしてはいるがしかし漏れ出る蠱惑こわくは彼女の行動と合致しなかった。

 男の獣性が目覚めた。パンの耳を抱えて持ち帰る千鶴の後を追った。公園での集水を樹木の影から監視した。ここで男にある考えが宿った。この女はきっと明日もここに立ち寄る。そこを狙えば、れる。

 沸き起こったその場の肉欲をどうにか抑え、男は女の典雅な眼差しと襤褸ぼろを危険な淫情いんじょうで掻き回した。

 男の実行を遅らせ一日の猶予を作らせたのは他でもない、片眼の潰れた尨毛だった。彼女に付き随う邪魔な護衛を男はまず持って駆除しなければならなかった。

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