第25話

 それからだ。雄吉の頭の中に千鶴の虚像が棲みつくようになったのは。

 千鶴は身をやつしていき生ゴミを食べ襤褸ぼろまとい、道行く人に無心をした。それでも千鶴を助ける人は誰も居なくて、彼女は窃盗を働く。入店時に求められた生体認証を無視して店内に押し入り、ミネラルウォーターとパンと弁当をビニール袋に詰めるだけ詰めて、閉じたゲートを無理にもじ開け盗んだ商品を自転車に載せて逃走する。万引きした彼女を雄吉たちは取り押さえ、愚昧ぐまいな自動販売機を背柱に彼女を襤褸ぼろごと縄目に掛ける。彼女がどこを見つめているのかわからない。サングラスだけが彼女をさばき人たちの棲む危険な世界から守っている。縛られた彼女に雄吉が歩み寄る。雄吉は千鶴の最後の防備を引きがす。現れた彼女の瞳は雄吉への憎悪で満たされている。ところが、斜視であったはずの彼女の瞳は両眼とも綺麗にまっすぐ前を向いていて、その美しさに雄吉は息を飲み、我を忘れ接吻をする。だが、千鶴は激しくくびを振って拒絶する。右手を縄から引っこ抜いて、忿怒ふんぬを美しい面差しに湛え、人差し指と小指を立てて牛の角のような形を作って雄吉に突きつけた。

(憐れみいらない。いらない。いらない。いらない。いらない・・・)

 そこで彼の妄想はいつも潰えた。妄想の中で彼は日増しに太っていく確信めいたものに囚われていた。それは斜視でない彼女の瞳は見間違える程秀麗なであるということだ。或いはこの確信めいたものに至る霧状の虚像が彼に定かならぬ会話の声に耳を澄まさせ、違いすぎる共通項を探さしめていたのかもしれぬ。

 しかし、このことが彼に夢枕から目覚めの妄動を起こさしめんとしていた。それはつまりこういうことだ。彼女の斜視を矯正してやれば虚像は実像になるのではないか。彼女に感じた陰はこの変身を予測してのことではなかったか。

 ただ、その前に彼女を覆う大いなる|拒絶|を如何にして取り去るか、これが彼に課せられた入学試験だった。然れども例え入学試験を突破したとしても|拒絶|の扉の向こうの彼女は雄吉の描く理想社会より遥か遠い五蘊ごうんに座しているように思えた。

 雄吉が取った嚆矢こうしのアクセスは、彼女に我々との共通項を与えることだった(彼女がどうするかなど考えもせずに)。

 そこで、暁闇の運動公園で出くわした翌日にも、雄吉は性懲りも無く千鶴の元を訪ねた。

 千鶴は雄吉が初めて訪れた時と同じ姿勢で、部屋の中で微動だにせず端座していた。ここまで来れば禅行とどう違うのか。只管打坐しかんたざを彷彿させる不撓不屈ふとうふくつの精神を彼女のまだ見ぬうちに見る思いがした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る