第23話

「待ってくれったら」

 雄吉は千鶴の前に立ちはだかった。ジャンボが身を沈めうなっている。あと数センチでも爪先を前に動かせばジャンボは雄吉に飛びかかったであろう。このことと併せ千鶴の足を停めることができたので雄吉は事をいた。

「なにか、できることがあれば」

 焦慮しゅうりょがこんな不完全な言葉を置いて残してしまった。けだし千鶴はサングラスの向こうから不得要領に自分を見ているはずだ。もし隙が大きくなったならば彼女かまたは犬の動きに変化があるだろうと雄吉は踏んだ。恐らくわかりやすいのは犬のほうだ。例えばこの唸りが止めば千鶴の|拒絶|が緩んだと見てよい、雄吉はそう都合よく判断した。

 雄吉の思惑に投合したのか、首尾よくジャンボの唸りが弱まった。雄吉は心を覆っていた模糊もこたる不確かな陰を取り払いたいと焦った。またそれが今程の不完全な発露を捕捉せんとこんな愚かしい浅薄せんぱくな行為を重ねた。

 内ポケットから革の財布を取り出し、体裁ていさいの悪くない紙幣1枚を抜き取った。それを千鶴に差し出した。無論タバコを買うわけではない。

 すると突如、千鶴はサングラスを外し激しくくびを振った。右手の人差し指と小指を立てて牛の角のような形を作って雄吉に突きつけた。顫動せんどうしているその手が正確には何を意味するのか解しかねたが、薄明をたたえる沈黙の白眼はくがんがこう告げていた。

(憐れみいらない。いらない。いらない。いらない。いらない・・・)

 ジャンボが激しく咆哮ほうこうし牙をいた。それを機に雄吉は後退あとずさりし千鶴たちに道を譲らなければならなくなった。

 千鶴が自転車を引いて歩みだした。残された雄吉は、白々と明るむ高層雲こうそうぐもを背に千鶴の陰を追いながら、自分と彼女の違いすぎる共通項を探していた。

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