第18話

 こんな世俗から打ち捨てられた彼女にも、たったひとつだけ彼女が意思を伝達できる存在が現れた。

 ジャンボである。

 冷たい氷雨ひさめが彼の背中に溶け落ちて尨毛むくげを痛ましくつたしたたらせていたその日、ジャンボは千鶴の家の自動販売機から軒下に潜り込み、大きな体を精一杯丸めて震えていた。まるで凍った雨と人目を避けるかのように。泥土でいどが付着した尨毛むくげには首輪はなかった。これほどの大型犬がずっと野犬であるはずがない。誰かに捨てられたかどこからか逃げてきたかであろう。そのままにしていればジャンボは人間が作った人間の為のルールのもとで殺処分さつしょぶんされていたはずだ。

 濡れそぼった無残な姿と人目をはばかる姿態は千鶴の目にとまった。千鶴はジャンボに自分と同じ世の中から打ち捨てられた-孤独-を見た。それにも増して彼女がジャンボに自分を重ねたのは、ただれ醜くつぶふさがった右の眼だった。千鶴とジャンボは外斜視と潰れた眼を媒介ばいかいとして心のラインで繋がった。

 ジャンボは千鶴と一緒に暮らすようになった。千鶴が付けたその名は一度も肉声にくせいで呼ばれたことはない。また文字情報としても存在しなかった。なぜならジャンボという呼び名は千鶴の心の中だけで響いているものだからだ。それでもジャンボは千鶴の声にならない孤独な意思を、人間の誰よりも理解できていた。言葉なくも文字なくも。

 やがて千鶴はジャンボとの暮らしの中で、最低限の社会性を取り戻そうとしていく。その一つが独学での手話だった。手話を覚えることで外と遮断していたカーテンを外し、対面販売の扉をわずかながらも開けた。

 いらつく雄吉が彼女の窓を開いたあの邂逅かいこうは、それでも彼女が少しの社会性を取り戻し更生した頃だったのだ。

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