第17話

 この頃から、彼女は言葉を話せなくなった。思っていることを声に出そうとすると喉の奥に大きなかたまりが現出しつかえているようで言葉が出てこない。思考が止まっているわけではないがそれを音に響かすことができないのだ。

 気鬱症きうつしょうの為、医療機関に一人で行けぬ彼女には声の出せない原因も治療方法もわからず仕舞じまいだったが、明らかにそれまで千鶴を傷つけ破壊し続けてきた数奇すうきな生涯が起因しているものと想像はできた。

 失声症しっせいしょうだった。強いストレスや心的外傷を受けたことからかかる病である。この症状を彼女が自覚するには時間を要した。なぜなら、彼女の日常に言葉を発する機会がほとんどなかったからである。だがこれで社会における彼女の凍てつく-孤独-・・・・・・・・は外斜視と失声症によって永久凍土えいきゅうとうどと化した。

 唯一の人との交わりは、母がタバコ屋を営んでいた時から月に一度来てもらっているタバコ仕入れ業者の商品納入に限られた。されどこれとて言葉は不要だった。というのも千鶴は買い入れるタバコを紙に書いて業者に渡していたからである。飲料水の自動販売機も委託業者が定期的に商品が少なくなれば補充しに来てくれた。並べる商品も業者に委ねていた。設置当初から場所を提供するだけの契約だったからである。こういったことからつまり彼女が業者とさえ言葉を交わす必要はなかった訳である。因みにこの時分に彼女は対面販売を謝絶し手交する窓口をカーテンで封鎖していた。彼女の生活を支えていたのはまさに愚昧ぐまいな自動販売機たちだけだったのである。

 誰とも話さない、話す必要がない暮らしの中では、いずくんぞ彼女に伝達手段としての言葉が必要であったか。してやテレビもラジオもインターネットもイデアポウン・・・・・・もない彼女の暮らしに言語情報を運ぶ媒体を必要とするそのささやかな情報自体が入り込めたであろうか。

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