第8話

 通常15分から20分はかかる説明だったが千鶴には10分要しなかった。

 他の住人なら「はあ」とか「うん」とか「そうですか」といった相槌あいづちや質問を返してくれたりするのだが、千鶴は全くの無反応だった。反対者であっても「だめだ」とか「なに考えてんだ」ぐらい言って適度に絡んでくれるのだが、千鶴には反対の意図もない。まるで雄吉の言葉が千鶴の体をすり抜けて向こう側の暗い壁にぶつかって霧と化しているようだった。

(無人ならいちいち反応を気にする必要もないんだが)

 雄吉は早く時代が転換してくれることを願った。

「いかがでしょうか? ご協力いただけますか?」

 結論を迫るより他なかった。彼女からは何も返ってこないのだから。先日のり取りで彼女の聴覚と認識能力には障がいがないことはわかっている。自分が話したことは彼女には理解できているはずだ。ここでその石膏せっこうで塗り固められたような堅い首を少しだけ前に傾けてくれさえすればいい。それをだくの意思として雄吉は持ってきたカメラとプリンターをカバンから引っ張り出せる。

 意思表示はもっと直截的ちょくせつてきだった。顔に貼り付いていたサングラスを彼女が取ったからである。これが顔写真の撮影に応じるという意思だと、雄吉ならずとも思うはずである。

 しかし暗い部屋の中でおぼろげながら彼女の素顔を視認した雄吉は、それがだくなどでは決してないことを悟った。彼女の両眼はどこを向いているのか全く分からぬひど斜視しゃしだったからである。よく見れば斜視は右眼だけだったが焦点の合っていない両眼はちぐはぐな意志を持つ別々の生き物のようだった。

 続いて彼女は人差し指と親指で眉間を掴む仕草をした後、掌を鼻の前で立てて頭を下げた。この仕草が何を意味するか雄吉にも理解できた。

 彼女の|拒絶|をきっかけに、犬が起き上がり雄吉に吠え立てた。つぶれてふさがった眼までが雄吉を睨み据えて拒んでいるような気がした。

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