第7話

 誤算があった。雄吉の誤算である。千鶴の家にはあの苦々しい経験から、もう二度と立ち寄るつもりがなかった彼だが、最年少の担当者が勤務中体調不良を訴えたので帰宅させたところ、翌日には流行性感冒、所謂いわゆるインフルエンザの診断が下った。来週まで彼の担当箇所がフリーズする。

 急がずとも年明けを待てばよいと意見するメンバーの声を雄吉は聞き入れなかった。そこを遅らせればデータベースの完成が遅れる。渋る彼らを尻目に、ならば自分がと、チームリーダーである雄吉が彼の持分を引き取ることにした。

 あの陋屋ろうおくを再訪問したのは年も押し迫ったクリスマスの次の日だった。前夜、人であふれかえった雑踏でうるさいほどの光彩と聖歌に追い回された雄吉は、ここにはサンタクロースが訪れたことがないのではと聖夜を小馬鹿にした昨日の自分を忘れて因循いんじゅんな商いを優越からおとしめた。

 多分ふた週間ぶりだと思うが、その間のうちにもここはふた週間分の時間以上に自分と隔たったような気がした。

 自分の欲するタバコが陳列されていない自動販売機はもはや彼にとって愚鈍で重厚長大な建造物と同じだった。易々と堅塁けんるいを突破し、雄吉は千鶴の前に立った。

 千鶴はこの前と同じ格好で奥に座していた。服装から雰囲気から、玄関先にいる犬まであの日から静止しているようだった。

 今日は客ではない。しかし店先に現れた人間にいらっしゃいませぐらいはないといけない。定型会話を嫌うが、雄吉はその魂のない商用句を待った。

 仕切りのガラス窓が開けられた。だが、千鶴からはその言葉は聞けなかった。あの時と同じような招き入れるような不可解な手振りだけだった。

 雄吉は名刺をガラス窓の中に差し出した。千鶴は警戒しながら受け取った。雄吉は自分の会社と名を告げて、「少しお時間よろしいでしょうか」と慇懃いんぎんに腰を折った。ここでは彼女の反応を待たず雄吉は語り出した。


 彼の信念とする次世代型の省人化計画が如何に住人の生活を向上させるか、それがつまり安心できる街づくりに繋がることを、例えば人口減少社会にあっても外国人労働者に頼らず国内の雇用を安定させる取り組みであることを、この街での試みが日本全国で注目されていることを、彼は滔々とうとうと説いた。千鶴はサングラスで表情を隠したまま黙って聞いていた。玄関口から犬が時折開く方のまぶただけ僅かに持ち上げて無聊ぶりょうそうに雄吉を眺めた。

「ご賛同いただけるようでしたら、ぜひ貴方様のお顔のお写真と掌の紋を撮らせていただきたいのですが」

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