第2章 短大時代の妖怪事件?

第1話 夜の公園の妖怪(のっぺらぼう)

私、三澤 翠(旧姓須藤)は、今年(昭和四十四年)の春に松葉女子高校を卒業したばかりだ。


お見合いで知り合った主人と五月の連休に結婚した。主人は私より一回り年上の開業医で、優しい性格なので、私は幸せな新婚生活を送っていた。


その日も朝七時頃にベッドから起き上がり、隣のベッドで寝ている主人を起こさないように少しだけカーテンを開けると、鏡台の前に座って自分の顔に薄化粧を施した。


「家の中でも妻はいつもきれいにしていなさい」というのが同居している姑の教えだったからだ。


口紅を薄くさしてから寝間着を着替え、部屋をそっと出て台所に向かった。


三澤家の朝食はパンだ。八枚切りの食パンをトースターに入れ、同時にお湯を沸かしておく。お湯が沸く間に玄関先から新聞と牛乳を取り込んでおいた。


食パンが焼き上がったらバターを塗り、お好みに合わせて使ってもらうようイチゴジャムの瓶を食卓に並べておく。


お湯が沸いたらティーポットに紅茶の茶葉を入れ、お湯を注ぐ。しばらく待って茶葉がお湯の中で開いてきたら、ティーカップ二つに紅茶を注ぐ。これは私と姑用だ。


主人用にはドリッパーにペーパーフィルターを敷き、コーヒー粉を入れてお湯を注いだ。インスタントコーヒーやティーバッグをこの家では使わない方針なので、ちょっと手間がかかるが、その分味はいいのだろう。


コーヒーのいい香りが台所から食卓に広がる頃に主人が起きてきた。まだパジャマ姿だが、いつものことだ。


「おはよう、あなた」「おはよう、翠。・・・今日もきれいだね」


「ありがとう、あなた」元々主人は真面目で口べたなタイプだ。私をきれいだと褒めた言葉も姑の指示で言わされていると思うが、悪い気はしない。


そのとききれいに身支度をした姑も現れ、主人と一緒にテーブルに着いた。


「おはようございます、お義母かあさま」


「おはよう、翠さん」私を頭の上から足先まで眺め回してチェックする姑。特に問題がなかったようで、今朝は何も言われなかった。


トーストとコーヒー、紅茶を二人の前に置き、牛乳を入れたミルクピッチャーと角砂糖入れとイチゴジャムの瓶をテーブルの中央に置く。そしてバターを塗ったトースト(一人二枚)を配って私も食卓に着いた。


ちなみに三澤家の朝食はトーストだけで、おかずは作らない。昔からそうだったらしい。早く起きなくていいからその点は感謝している。


「お昼はニラ入り卵焼きと納豆にしましょうか?それととろろも用意しましょう」と姑が昼食の指示を出した。


開業医の主人は自宅に併設してある診療所で仕事をする。専門は内科と小児科だ。昼食は自宅に戻って食べるのだ。


その主人はコーヒーを片手に新聞を読んでいたが、少し新聞を降ろして、


「最近とろろご飯がよく出るな?・・・好きだからいいけど」と姑に言った。


「あなたの健康を考えてのことよ」と姑が主人に言った。長芋を擦ると手がかゆくなるけど、主人のためだからがんばっている。


姑は私の方を向いて、


「夕飯は豆ご飯に豚肉の生姜焼きにオクラを炊いたものを作りましょう。お味噌汁も作って、卵を入れましょう」と続けた。


「わかりました」と答える私。ちなみに嫁いでから、料理と家の掃除と洗濯は主に私の仕事になった。姑は診療所に出向いてよく看護婦たちに掃除や片づけの指示を出している。私が家事でもたつく時はいろいろと口を出してくるけど、それでも私がわからないと手取り足取り教えてくれる。自分だけ楽をしようと思っているわけではないとわかるので、素直に指示に従っている。


「子どもができるともっと大変よ。だから手際よく家事ができるよう、今のうちから練習しておきなさい」というのが姑の口癖だ。


「三時のおやつにはヨーグルトを出してね」とも言われた。このおやつは私たちだけでなく、看護婦さんたちにも振る舞われるものだ。


「わかりました。イチゴジャムも用意しておきます」


「お願いね。それから今度のお休みにはみんなで鰻でも食べに行かない?洋食屋さんでカキフライもいいわね」と姑。


ちょっとぜいたくに思えるが、我が家の財布を握っているのは姑だ。その姑が食べようと言ってくれるのだから逆らうことはしない。


「いいですね。おいしそうです」


それにしても精がつきそうな食べ物ばかりなのはいかがなものだろうか?別の魂胆がありそうで怖い。


看護婦さんたちには「先生は結婚されてから顔がつやつやしてきましたね」とよく言われる。主人は額が広い髪型だけど、生え際が後退してるんじゃないでしょうね?


そのとき電話がかかってきた。私はすぐに立って受話器を取った。


「もしもし、三澤でございます」


「高木医院の高木だが、三澤先生はおられるか?」と男性の声が聴こえた。


「はい。すぐに替わりますので、そのままお待ちください」と私は言うと、受話器の送話口を手で押さえて主人に話しかけた。


「高木先生からです」確か五十代の開業医さんだ。専門は内科と皮膚科だ。


すぐに立ち上がって受話器を受け取る主人。「もしもし」と言ってしばらく何かを話していたが、鉛筆でメモ書きすると、電話を切ってから私に話しかけてきた。


「雪女の騒動を解決してくれたのは、翠の友だちの・・・藤野さんだったね?」


「そうです」と答えて私は結婚前の騒動を思い出した。夜中の診療所前に雪女のようなのが立っていて、主人に捨てられた女性が、恨んで化けて出たんじゃないかと噂された騒動だ。


「当時妖怪ハンターと呼ばれていた美知子さんに謎を解いてと私から頼みました」


「そのことを高木先生にも話したことがあるんだが、今度は高木先生が妖怪に出くわしたらしくて・・・」


「ええっ!?」と私と姑は同時に叫んだ。


「ほんとうなの?」と主人に確認する姑。姑も当時雪女騒動に振り回されていた。


「高木先生がそう言うんだ。そこでもし良かったら、また藤野さんに本物の妖怪か暴いてくれないかって」


「美知子さんは今下宿して短大に通ってます。すぐに会って話をすることはできないと思うわ」と私は言った。


「その下宿に電話はないのかい?」


「部屋にはないと思います。管理人室にはあるのかもしれないけど、そこでは長話はしにくいんじゃないかしら?」


「高木先生は困ってらっしゃるの?」と姑が聞いた。


「妖怪らしきものに出会ったとは言ってたけど、切羽詰まっている様子はなかったよ。ただ、本当に妖怪なのか知りたいだけみたいだった」


「だったら、手紙で問い合わせてもいいかしら?」と私は聞いた。


「それでもいいと思う」


「それで、どんな妖怪が出たの?」と聞く姑。


「高木先生がつい先日の夜、飲み屋から自宅へ歩いて帰る途中で公園にさしかかったら、街灯の下にひとりの女性がうずくまっているのに気づいたそうだ」


「夜中に女性がうずくまっていたの?」


「そう。その女性は頭にベレー帽をかぶり、ミニスカートを履いていて、高木先生に背を向けてうずくまったまま泣いていたらしい。そこで高木先生はその女性に『大丈夫ですか?何かお困りですか?』と声をかけたそうだ」


「高木先生も女の格好をよく見てるわね?」と姑があきれたように言った。


「確かに。僕なら今別れたばかりの女性がどんな服装だったか、まったく記憶に残らないよ」と主人。


「翠さんも身ぎれいにする甲斐がないわね」と姑がまたあきれたように言った。どっちもどっちだ、と私も思って苦笑した。


「で、高木先生が声をかけたら、その女性は背中を向けたまま立ち上がったそうだ。その時その女性の足を見たら、獣のように毛だらけだったらしい。・・・毛深い女もいるが、そんなもんじゃなかったそうだ」


「高木先生は女をじろじろ見過ぎですね」と私もつい言ってしまった。今後会う機会があったら気をつけなくては。


「とにかく高木先生はその毛むくじゃらの足を見て酔いが醒めてきたそうだ。そのとき女が振り返ったんだが、・・・その顔には目も鼻も口も耳もなかった!」


「ひいっ!」と私は小さな悲鳴を上げて口を手で塞いだ。


「の、のっぺらぼうなの?」と聞く姑。のっぺらぼうとは顔に目、鼻、口がない妖怪の名前だ。


「高木先生は毛むくじゃらな足からむじなだと思って、一目散に走って逃げ出したそうだ」


「む、むじなって、何ですか?」私は怖いながらも主人に聞き返した。


むじなってのは、狐や狸と同じように人を化かす動物だよ。妖怪と言った方がいいのかな?」


「確か小泉八雲の『怪談』にそういう話が載っていたわね」と姑が口をはさんだ。


「とにかく高木先生が恐怖に駆られて走って逃げたら、後からその女が走って追いかけて来たそうだ。そして『おいてけ〜、おいてけ〜』って叫んでいたらしい。・・・ここは『おいてけ堀』の話みたいだね」


「『おいてけ堀』?どんなお話なの?」


「おいてけ堀って所で釣りをした男が釣った魚を持ち帰ろうとすると、『おいてけ、おいてけ』という声がするんだ。男が無視して帰ろうとすると、『むじな』の話と同じようにのっぺらぼうに遭遇するんだ」


「怪談話のまんまね。若者がふざけてやってるんじゃないの?」と姑が言った。


「若者のいたずらだったとしても、高木先生はよく逃げられたわね?」と聞く私。


「高木先生は若い頃陸上の選手で、韋駄天と呼ばれていて、今でも足が速い。戦争がなければオリンピックに出ていたとも言っていたけど、本当かどうかは知らない」


「でも、顔がないのはどういうことかしら?」


「目や口がないお面をかぶっているとか?」と主人。


「目がないお面だと前が見えないじゃない。後から追ってきたんでしょ?目が見えないと夜道を走れないわよ」


「じゃあ、厚化粧をしていたとか?・・・高木先生の方を向いたときは目を閉じていて、追いかける時には目を開けていたんだよ。そこまでは高木先生も見る余裕はなかったんじゃないかな?」


「それならあり得るかも。でも人騒がせな仮装ね」と私は言った。


私は主人を仕事場に送り出すと、姑の許可を得て美知子さん宛の便せんに次のように文章を綴った。


「藤野美知子様


 拝啓 ようやく梅雨が明けましたね。美知子さんもお元気で短大生活を楽しまれていることと思います。


 さて、本日主人の知り合いの開業医さんより相談を受けました。美知子さんお得意の妖怪についての相談です。以下に主人が聞いた内容を書きますので、美知子さんのご意見を伺えたらとても助かります・・・」


書き上げた手紙は買い物に行くついでにポストに投函した。切手を貼った返信用の封筒を同封することを忘れずに。


その三日後、私が昼間に家で家事をしていたらドアホンが鳴った。すぐに玄関に出て行くと、郵便局の配達員が立っていた。


「速達です」


「お疲れ様です」と言って速達を受け取る。配達員はすぐに帰って行った。


私が速達郵便の差出人を見ると、美知子さんからだった。返信用封筒が速達になっていて、差額の切手が貼ってあった。あわてて家の中に入って封を切る。すると中の便せんには、


「三澤 翠様


 拝復 暑くなってきましたね。新妻として張り切り過ぎて熱にあたらないよう祈っています。それでなくても熱々でしょうから。


 ところでお尋ねののっぺらぼうの体験談ですが、ただの若者のいたずらではないように思われます。


 足にすね毛が生えていたことから、若い男性が女装して人をおびき寄せようとしていた可能性があります。


 また、顔に目鼻口耳がなかったとのことですが、のっぺらぼうという妖怪ではなく、映画やドラマや実際の強盗事件で使われているストッキングの覆面のような気がします。ストッキングで髪まで隠れるのをごまかすためにベレー帽をかぶっていたのではないでしょうか。もっともストッキングは薄手で、目鼻がある程度透けて見えるから、もっと厚手のタイツでもかぶっていたのかもしれません。


 つまりその女は女装した男で、泣いているふりをして酔っぱらった高齢男性を誘い出し、タイツで顔を隠して襲い、昏倒させて金品を盗もうとしていたように思われます。


 のっぺらぼうに遭遇された方の足が速くて逃げ切れたのは幸いでした。もし犯人が再度犯行を試みたら、今度は実際に被害者が出るかもしれません。


 最寄りの交番に通報して、その公園あたりの巡回を強化してもらった方がいいのかも。私の杞憂であればよろしいのですが・・・」と書いてあった。


美知子さんの洞察力は健在のようだ。私は主人に美知子さんが怖れている犯罪の可能性を告げに診察室に行った。私の話を聞いた主人も驚いて、すぐに高木先生に電話をかけていた。

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