第8話 一枚のICカードから

「一枚のキップからって、国鉄のキャンペーンがあったの覚えている?」

「それ、私らが小学生の頃でしょ?」

「うん。いい日旅立ちの前のキャンペーンや」

 自動改札で、男女は腕を組んだまま、横に向いてICカードをタッチする。

「カニさん歩きしてまで、腕を離そうとしないのも、なぁ」

「当たり前でしょ。逃したくないもん」

「逃げる気、ないって」

 彼らは再び、カニさん歩きをやめてまっすぐ下りホームへと向かう。

「一枚のキップからというより、一枚のICカードから、やな」

「そうね。さすが作家大先生」

「実はこのICカード、大学の鉄研で知合ったとある同級生が開発したものや。わしがあるとき彼と会って、うっかり金券ショップで買った回数券を持っているのがバレてしもて、君、オレらの敵やって、言われてもうたわ」

「あまりにもキヨくんらしいエピソードじゃない?」

 エスカレーターに乗っても、彼女は腕を離そうともしない。

「何だか、逮捕されて護送されている犯罪者みたいやな」

「そんなつもりないよ、オオカミさん。あとでしっかり・・・」

 ホームに来た。列車はすでに入っている。彼女が岡山に来た時と一緒の新型電車である。もうラッシュ時ではない。頃合いな場所に、二人並んで座れた。小学校の遠足の時以来。二人並んで同じ乗り物に乗ることは初めてである。

「しばらく腕を放してあげる。うちに来るまではゼッタイ、離さないから」

「わかったから。ちょっと、周りの人に見られたら恥ずかしいやんか」

「いいでしょ。別に見られて減るわけでもないでしょ。あ、そう言えばそっちには見られたら大きくなるものがあったね、何だっけ?」

「そういうことを今こんな場所で言うのやめなって。このドスケベ女」

「そういうあなたは、エロ酔っ払いでしょ。人魚のおばさんに言いつけるよ」

 人魚のおばさんというのは、彼が毎週SNSと小説サイトに掲載している御意見番のアシスタントでこの数年来登場させているトロピカルージュプリキュアの人魚の国グランオーシャンの女王様・メルさんことメルジーヌさん。しかしリアルでないのにどうやって言いつけるのかとは思うが、そう言っておけば彼も少しは、ってところ。

 これ以上やられるとまずいと思ったか、作家氏が少し機転を利かせた。

「あ、せやせや。この本、読んどかなあかんわ。仕事にならんからな」

 

 うららと称されるこの電車、すでに岡山駅を出て隣の北長瀬駅に停車している。彼はこのところ、緑内障の治療でこの駅前にある市民病院にかかっている。

「この目薬、打っておかないと」

 病院の建物を見ながら、目薬を差す。横にいる彼女は、彼の腕を枕に目を閉じている。こんなことになるとは、つい数日前までは彼も彼女も想像だにしていなかったことはいうまでもない。

 目薬を差し終え、彼は再び本に向かう。

 電車は肥沃なる岡山平野を西へと進む。庭瀬、中庄と山陽鉄道開業時からある駅で乗降客をさばき、さらに倉敷へと向かう。電車は倉敷駅に到着した。ここでかなりの客が降りる。代わりにいくらかの客を拾い、電車はさらに西へ。まずは水島臨海鉄道と並走し、気付いたら倉敷の郊外を走っている。西阿知でまたいくらかの乗降客を拾い、高梁川を渡ると、そこは旧船穂町。かの作家氏が爆弾を落としたことで一部では有名となっている地である。その経緯についてはここでは述べない。ここは水田とぶどう畑のひろがる、まさに肥沃の地。新幹線が北の方から寄り添ってきたら、かつての玉島、いまの新倉敷である。

 彼の初恋の女性は目を開け、彼の腕を再び自分の腕で組み直した。

「キヨ君、次ね。次」

「わかっとる。由佳ちゃん宅(とこ)、駅から歩いてどのくらい?」

「10分もかからんよ。あの塾のあった近くのアパートにおるんよ」

 やがて、電車はK駅こと金光に到着。中年男女は電車を降り、階段を上り下りして改札を出た。自動改札は、一枚のICカードで出場できた。その代わり、二人の持つそれぞれのカードの残額が幾分減る。


「ようこそ、由佳の住む町へ!」

 彼女のカラメル腕の強さがいくらか増した模様。ここはもう抵抗なんかしないで彼女の意のままに動くしかない。かつて彼が仕事に現れた塾のあったビルの横を通り過ぎて少し先のアパートに、彼女の住居はある。

 妙齢の女性であるから、2階建ての2階。階段を上がって程なく、彼女の住みかに到着した。彼女はようやく腕を放し、ドアのかぎを開けた。

「おいでおいで~」

「なんか、プリキュアに浄化されてニコガルテンに帰る動物みたいやな」

「でしょ。それ、ちゃんと予習しといたもん」

「じゃあワシはガオガオしとるニコガルテンの動物さんかよ」

「何、ニコガルテンって?」

「ニコガーデンのドイツ語読みや」

「大昔のドイツかぶれのインテリさんみたいね」

「褒められているのかけなされているのか」

「半々よ」

 話しているうちに、彼女は居間のソファに彼を招いた。それと同時に、風呂場のお湯を入れ始めている。美熟女のメガネの縁に反射した光が作家氏の目を射抜く。


「お湯が入ったら、一緒に、あそぼ!」

「そこまでぼくの趣味に合せてくるわけ?」

「なんたってまずは、お互い、言葉なんかより、ね」

 彼女は、いつからこんなに大胆になったのだろうか? 目の前のテーブルの上にはすでにゴム製の何かが入った箱が置かれている。

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