令嬢の夜遊び

朝研(早蕨薫)

ワインに一匙

妖しの令嬢

 女中アンジェが公爵令嬢付きを命じられたのは、元々その役目を担っていた女中が休暇を取ったからだった。ただでさえご令嬢の身の回りの世話なんて経験したことがないのに、令嬢ロクテーヌは気難しく、女中は一人しか認めないという。敬遠する女中たちの中で白羽の矢が立ったのがアンジェである。身に余る大役は恐怖でしかなかったが、専任の女中の休暇が明けるまでの期間限定ということで精一杯頑張ることにする。その代わりにこの期間中、多少のミスは見逃すと侍従長に保証してもらった。全力で取り組まねば名門シャンペルレ家の女中の名折れというものだ。

 本来であれば名誉ある大任があたかも罰のように扱われたのには理由がある。ロクテーヌは変わり者の令嬢で、社交界はおろか自室の外にさえ姿を見せないのだ。使用人たちのほとんどはこの不気味な令嬢を見たことがない。日当たりの悪い北側の部屋を自ら選び、鍵をかけて人払いをしているのだから、使用人たちの間で不名誉な噂がまことしやかに囁かれるのも仕方のないことだった。

 曰く、自室を離れ人目を避けているのは美しい妹と対照的な容姿をしているから、だとか何とか。

 アンジェはバルコニーで寛ぐ主をまじまじと見つめた。日当たりの悪いバルコニーを囲い込むようにして木々が揺れている。昼中の日光が遮られた結果、バルコニーに快適な木陰を作り出すのだということをアンジェは初めて知った。当の令嬢ロクテーヌは読書に耽っており、アンジェの不躾な視線を気にする様子もない。

 綺麗に結い上げられた金の髪から覗く碧の瞳。気品漂う手足はすらりと伸びて、透き通るように白い指先がページをめくる。同じ女性であるアンジェも魅了されてしまうほど、ロクテーヌ=シャンペルレは美しかった。

 根拠のない噂なんて信じるものではない。騙された。これはとんだ詐欺だ。アンジェはロクテーヌ付きの女中ソミュールに心の中で憤慨した。主の不名誉な噂をソミュールが否定していれば、そしてこれほど美しい素敵なご令嬢であると知っていれば、アンジェはロクテーヌの側で仕事ができるように前々から希望を出せたものを——と言っても、他の使用人に教えてやるつもりはなかった。折角の素晴らしい役職なのに倍率が上がってしまったら元も子もない。

 それにしても美しい人だ。いつ誰が一目で恋に落ちたって仕方ないような整った顔立ちをしている。表情は理知的だが体格は華奢で、仕草一つとっても洗練されている。手元の分厚い本は外国製でアンジェには詩集なのか歴史書なのかもわからない。それから、それから、睫毛の一本一本が繊細で——。

「アンジェ」

 何ということだ。声まで透き通っている。

「アンジェ」

「っふぁい⁈」

 うっとり見惚れていたアンジェの意識は一気に覚醒した。早速の粗相に肝を冷やして体が上手く動かせなくなる。宝石のような碧の瞳に見つめられては堪らない。あっという間に頬が紅潮し、額が汗ばんだ。

 ふ、とロクテーヌは口元を緩めた。

「……そんなに緊張せずとも言いつけたりしませんよ」

 アンジェが余程滑稽で呆れただけかもしれないが、その微笑みにアンジェの心臓が跳ね上がる。

「紅茶を用意していただきたいのですが」

「はい! かしこまりました!」

 勢いよく返答してから徐々に顔を曇らせた。目が左右に泳ぐ。

 アンジェは特定の主人付きになった経験がない。すなわち主人に紅茶を用意したこともなかった。勿論、実生活を含めれば紅茶を入れたことくらいあるが、家族からも同僚からも茶葉を取り上げられたお粗末な腕前である。

「茶っ、茶葉はどうしましょうか」

 声が上擦ったがすぐに持ち直す。動揺を押さえこんで張り付けた笑顔は完璧な女中のはずだ。

「そうですね……アンジェの一番好きな茶葉を」

「すきな……ちゃば……」

「一緒に何か甘いものもお願いします」

 駄目だ誤魔化せない。アンジェの心はあっという間に罪悪感でいっぱいになり、くしゃりと顔を歪めた。

「……あの」

「何ですか、アンジェ」

「じ、実は私の紅茶はあまり評判がよくなくてですね」

 かなり、と言うべきところ、アンジェは見栄を張った気でいたが態度で筒抜けだった。そわそわと手を組んで離してを繰り返している。厨房の人間に手伝いを頼みたいところだが今日は誰もが忙しい。そもそもアンジェが果たすべき仕事である。

「それで、しかも、ロクテーヌ様を大変お待たせするのではないかと……」

「あら、暇つぶしは得意ですよ」

 ロクテーヌは手元の本を指さした。いつも本ばかり読んでいるという噂の方は真実だったらしい。それに、とロクテーヌは続ける。

「一生懸命いれてくれた紅茶は美味しいものですから」

「あ……ありがとうございます!」

 勢いよく体を直角に折り曲げる。アンジェは名誉ある任務を何としても達成してみせようとすぐさま厨房に向かった。なんて素晴らしい令嬢なのだろうかと心が躍る。美しいだけでなく、聡明なだけでなく、心優しい方だなんて、向かうところ敵なしだ。



 アンジェが退室した後のバルコニーで、ロクテーヌは本を閉じた。青空を遮る木の枝が作る心地よい陰の下、まばたきを一度して己の失敗を反省する。考えていることがすべて顔に出るような女中だったので油断した。初対面の、しかもまだ名乗っていない女中を、名前で呼ぶべきではなかった。幸い違和感を抱かなかったようだが、反省点には違いない。

「さて」

 ロクテーヌは顔を上げた。たった一人のバルコニーで空中に向かって声をかける。

「フィード、そこにいますね」

 強い風がガラス扉のカーテンを巻き上げ、木を揺らした。木の葉が騒々しく、ロクテーヌの形の良い眉が不愉快そうに寄せられる。土煙を運んでくるよりはましだがもう少し静かにできないものだろうかと男への不満を露わにしたのだった。

 バルコニーからガラス扉を抜けた先、部屋の中央に男が立っていた。公爵家の洗練された調度品の中で男の粗野な服装が浮いている。ろくに手入れをしていない髪では折角の優れた体格も台無しだ。フィードと呼ばれたその男は雑に髪をかきあげて、愉快そうに目を細める。

「見たことない顔だったな。ソミュールはクビにしたのか?」

「ソミュールは休暇中です……仕方ないでしょう?」

 侵入者に声をあげることもなく、ロクテーヌは腕を組みガラス扉に体重を預けた。

「ちなみに紅茶をいれるのが苦手だそうで」

「致命的だな」

「可愛らしいじゃありませんか」

 フィードからは生返事が返ってくる。新しい女中には興味がなく、話半分に机の上に手を伸ばしている。が、残念ながら軽食が見当たらないことを悟ると、行先を失った手のひらを頭の後ろで組んだ。

「フィード、そういうわけでしばらくアンジェが出入りしますからくれぐれも……」

「分かってる。姿を見られるな、だろ」

 軽い調子で本当に分かっているのか怪しい返事をする。気安い態度は仮にも公爵家の令嬢に向けるものではなかったが、叱る者はいない。

「そんなヘマしねえよ」

「……まあ、いいでしょう」

 ロクテーヌは険しい表情で息を吐いた。未婚の令嬢が若い男の侵入を許しているなんて醜聞もいいところだ。そうでなかったとしてもあってはならない存在である。秘密は秘密のまま腹に抱えて墓まで行きたい。

 遠くに蹄の硬質な音が聞こえた。打楽器のように規則正しいリズムで、徐々にこのルデジエール城に近付いている。事前の連絡より早いので使用人たちも慌てているだろう。

「なんだ、来客か?」

 ありふれた馬車の音に珍しく反応したロクテーヌを興味深そうに見つめる。そして今気が付いたかのように、アンジェが編み上げた髪から磨き上げられた靴まで目を滑らせた。胸元と手首で装飾品が揺れており、金細工の小花がついた髪飾りが煌びやかだ。

「……そういえば服もいつもと違うな」

「文句でもあるんですか」

「ないけど」

 虫の居所が悪いのか、些細な一言にも厳しい視線を飛ばす。どうせ女の服装なんて分からないのだから黙っていればいいのだ。一人では着られない深い赤のドレスが、今は重苦しく感じられる。

「客なんていつもみたいに無視すればいいだろ」

「王宮からの客でなければ私だってそうしますよ」

「王っ……」

「ふうん、王がどんな身分なのかくらいは知っているようですね。てっきり知らないのかと」

 馬鹿にしやがって、とフィードの目が言っていたが見なかったことにする。

 公爵令嬢ロクテーヌ=シャンペルレは社交界への招待もすべて断り部屋から出ない変わり者だが、例外というものはある。たとえ相手が王族本人ではなくその使者であったとしても、王家は公爵家より上の立場だ。一令嬢でありながら無視なんてできない。

 馬車の音はいよいよ大きくなってきた。使者様のご到着だ。

「そろそろ行かなければ……」

 ロクテーヌは溜め息をついて心底嫌そうに呟いた。せめてアンジェの紅茶を待つまでの丁度いい時間つぶしになることを祈って。



 目的地であるルデジエール城は花の都から少し離れた街にある。街で一番大きな教会の背後にそびえる、小高い山の頂上に見える白壁の城がそれだ。馬車に揺られながらシェリーは膝の上に乗せた手を動かして気を紛らわしていた。長旅で体が疲れているのに、あるいは慣れない土地の街並みは美しいというのに、どうしたって緊張で手のひらが湿る。

 これから会う予定のシャンペルレ公爵はこの国有数の大貴族であり、王族からも一目置かれる存在だ。いくら王の使者として訪ねるとはいえ、シェリー本人からすれば雲の上の存在であることには違いない。

 敬愛する国王陛下相手ならばここまで緊張することもないのに、と溜息をついた。

 シェリーはレッティーニ伯家第四女として幼い頃から王家に仕えるための教育を受けてきた。死に物狂いで取り組んだ動機は、姉たちと対等以上に自分の居場所を確立するため、という切実なものであったが、侍女として仕えるようになってからは変わった。特に国王陛下と出会ってからは。

 彼の人は信頼に足る、素晴らしい人物である。この方が国の頂点に君臨していることが誇らしく、侍女として役に立てることが嬉しい。小さな仕事にも気配りを欠かさず丁寧に仕上げるうち、シェリーに与えられる仕事は侍女の範疇を超えるようになった。その結果が今回のシャンペルレ家訪問である。

 馬車は城門を過ぎて、山頂へと近付いていく。ここから先のルデジエール山一帯は全てシャンペルレ家の敷地である。小窓から城門を振り返ると、門番の衛兵が美しい敬礼で馬車を見送っていた。シェリーではなく国王陛下の馬車に向けられた敬礼だ。使者としての役割に身が引き締まる思いがして、背筋を伸ばした。

 山と言っても小高い丘のようなもので、山頂まではすぐに辿り着いた。ルデジエール城の前には使用人が整列しており、到着を知らせるトランペットの音と共に深く頭を下げる。正面の扉は解放され、馬車が止まるのを見計らって穏やかそうな男性が進み出た。肖像画で見たよりも皺が増えていたが、シャンペルレ公爵その人だ。

 使用人が馬車の扉を開くと同時に公爵が手を差し出した。臆する心を隠して王の使者として堂々と手を取り微笑んで見せた。

「公爵自らお出迎え頂けるなんて光栄ですわ」

「長旅で大変だろう。今日はゆっくり休むといい」

「心遣い感謝いたします」

 公爵に連れられてルデジエール城に一歩踏み入ると、シェリーはその美しさに息をのんだ。贅を尽くした華やかな王宮に比べても遜色ない。それどころか、人によっては趣向の異なるこの城を好むだろう。落ち着いた色味が多い代わりに、繊細な装飾が豪華な空間を作り出している。頭上で揺れるシャンデリアの水晶飾りが太陽光を乱して、大理石の床に細かな光の粒が降り注ぐ。

 公爵の紹介を聞き逃す前にシェリーは我に返った。惚けてしまったことを恥じ、一瞬だけ唇を食む。目の前では美しい金髪の少女がきらきらと目を輝かせていた。シャンペルレ公爵家第二女のミルティーニ=シャンペルレだ。型にはまった無難な挨拶を終えると、待ってましたとばかりに話しかけてくる。

「お茶会でシェリー様は優秀な方だと伺っておりますわ。年齢も近いですし、困ったことがあれば何でもおっしゃってくださいね」

「ありがとうございます」

 きっと三人の姉の誰かと話したことがあるのだろう。侍女となってからずっと、茶会や夜会に伯爵令嬢としては参加していなかったので、ミルティーニの反応は新鮮だった。今回は王の使者としての訪問なのだが、彼女はシェリー本人と話そうとしている。

「私、ずっと楽しみにしてたんですよ。陛下の信頼が厚い侍女だなんて、きっと素敵な方だろうなって」

 見たものの心を一瞬で溶かしてしまう、純粋で無垢な笑顔だった。初対面だというのに古くからの友人に向けるような温かな歓迎だ。つられてシェリーも心からの笑顔を浮かべる。

「そんな……ミルティーニ様こそ、これほど愛らしい方だなんて知りませんでしたわ。短い間ですけれどよろしくお願いいたします」

「勿論ですわ!」

 ミルティーニは照れくさそうにした後、誤魔化すように両手で小さく力こぶを作った。賛辞なんて聞きなれているだろうに、初々しい反応だ。のびのびした素直さは陰謀渦巻く王宮ではあまり見られないもので、見ているだけで癒される。

 張り切ったミルティーニが早速城を案内しようと意気込んだが、呆れ顔の公爵に止められる。

「ミルティーニ……お疲れだろうから、そう次々と振り回してはいけないよ」

「……そうでした!」

 ミルティーニは口元を押さえて目を丸くした。あっさりと城の案内は諦めて、無邪気にシェリーの腕を引く。大広間に簡単なもてなしを用意しているのだという。快活な令嬢を好ましく思っていることが伝わったのか、公爵はミルティーニを咎めることなく奥の扉を指した。

 いつの間にか、手のひらの汗は引いていた。重苦しく胸を塞いでいた緊張が解けて、同じ場所に今は期待と意欲がある。王の使者としての訪問だったが、シェリー自身にもっと知りたいという心が湧いてきた。この、何とも魅力的なシャンペルレ家の人々のことを。

 そんなシェリーの考えを遮るようにその黒猫は現れた。

 大広間に入る手前、小さな鳴き声にミルティーニが振り返る。その目線を追うと、丁度シェリーたちの後ろに黒猫が佇んでいた。まだ小さな仔猫で、はちみつ色の瞳が美しい。丁寧に手入れされているであろう毛並みが艶やかだ。

「あら、ビオじゃない」

「ビオ……」

「シェリー様も一緒に撫でますか? ……と言っても触らせてくれるかはビオ次第ですけど」

 シェリーは猫なんて触るどころか、間近で見たことすらない。王宮でもレッティーニ家でも飼っておらず、伝え聞く話に思いを馳せたものだ。叶うなら是非とも、見るからに柔らかそうなその毛並みに触れさせてほしい。シェリーが頷くとミルティーニは座り込んでチチチと舌を鳴らした。隣で公爵が額を押さえていたが見なかったことにする。

 しかしビオはつれない態度でつんと鼻を逸らした。

「う~ん、なかなか上手くいきませんわ。申し訳ありません」

「ふふっこんなに可愛らしいのですもの。近くで拝見できただけでも十分ですわ」

「……言われてみると珍しいわね」

 ぽそりと呟いて、ミルティーニは頬に手を当てた。

「ビオはお姉さまの部屋から滅多に出てこないのですけれど」

「まあ、ロクテーヌ様の黒猫でしたの」

 その名前を口にした一瞬、周りの空気が変わった気がした。

 ロクテーヌ=シャンペルレの噂なら、シェリーも嫌というほど聞いている。醜い容姿のために虐げられ閉鎖された部屋の外には姿を見せない公爵令嬢、と。噂は所詮噂だが、事実として彼女は貴族同士の社交場に現れたためしがない。この優しそうな公爵を父に、快活なミルティーニを妹に持ちながら何故世間から隠れるように生きているのだろうか。事情を知ってそうな貴族は皆揃って口を閉ざしているし、目の前の彼らがロクテーヌを虐げているようには思えない。

 シェリーは事実が知りたかった。相手は国内有数の貴族シャンペルレ公爵家の令嬢なのだから、王の使者としてその人物像を知るのは重要な任務と言える。あるいはただの興味本位も、任務という大義名分を得て堂々と聞くことができる。

「あの、ロクテーヌ様は……」

 ——言葉を靴音が遮った。それだけで、大広間の時が止まったように感じられた。固いヒールが大理石の床を叩く音に、使用人やミルティーニが、そして公爵までも声を失う。

 ビオがしっぽを揺らして駆け出し、大広間の側にある螺旋の階段を上るとその途中で足を止めた。靴音は螺旋階段から響いていた。じれったいほどの速度で下りてくる。シェリーにはその瞬間が待ち遠しいようにも永遠に訪れてほしくないようにも思え、ただ螺旋階段から目が離せない。

 逆光に金の髪が煌めいた。陶器のような滑らかな肌に、瞳は碧く澄んでいる。ドレスには深い赤色の布がたっぷり使われ、階下にふわりと広がった。黒猫を連れたその女性はどこか神秘的で、完璧な造形からは無機質な印象を受ける。

「お……姉……さま……」

 ミルティーニの声はかすれていた。先程までの明るく無邪気にはしゃいでいた少女はそこにはおらず、代わりにただ目を見開いている。公爵はその場から動かず、使用人たちの驚いた表情がロクテーヌが部屋を離れないという噂は本当だったのだと物語った。

 それは異常な空間だった。世界から切り離されてしまったかのように音が消え、目は彼女に釘付けになった。誰一人、口を開くことはなく、木々のざわめきも小鳥のさえずりさえも消え去った。

 誰かがそっと膝をついた。階級で言えば公爵が、王の使者であることを踏まえればシェリーが最上位であるはずが、敬意は別の場所に向けられている。一人、また一人と跪く中、彼女は堂々と胸を張ってシェリーの前で小さく礼をした。

「ようこそお越しくださいました、シェリー=ド=レッティーニ伯爵令嬢。ロクテーヌ=シャンペルレと申します」

 シェリーの喉から引き絞るようにして発せられた音は言葉になる前に消えた。溢れんばかりの美貌と気品に圧倒されて目が眩む。それはかつて王宮で初めて国王陛下を拝見したときの感覚に似ていた。式典のように厳かで、教会のように静謐で、深い瞳に射抜かれる。

「この城での滞在が良きものになりますよう」

 ロクテーヌの言葉はそれだけだった。シェリーはロクテーヌと同じ目線に立っていることに不安を感じた。自分の落ち着く場所を本能的に探し、極々自然な動作で跪く。床ばかり映し出す視界の端で黒猫の尻尾が揺れていた。

「……」

 ロクテーヌは何も話さない。何か大きな失敗をしてしまっただろうかと省みて、じわりと額に汗が滲んだ。やがて靴音が遠ざかると共に顔を上げたが彼女はもういなかった。

 一人として動こうとしない中、慌てた様子の女中が通りかかる。手押しのカートには紅茶とアップルパイのティーセットが並び、用意したばかりなのか温かそうだ。

「……ティータイムにいたしましょう。わがシャンペルレ家自慢のワインを用意してますの」

 ミルティーニが音を立てて両手を合わせた。途端に大広間は音を取り戻し、シェリーは呆然としながらも立ち上がって裾を整えた。まだ混乱している頭が痛く、指先は冷たくなっていた。

 それからシェリーは素晴らしい歓待を受けた。大広間では各種取り揃えられたチョコレートと紅茶を楽しみ、試飲も兼ねて赤白のワインが提供された。チョコレートはワインにも絶妙に調和して口の中に幸福が広がった。公爵は言葉通りシェリーが休めるよう余裕のある予定を立ててくれていた。仕事の話は明日以降と割り切って、今は城での滞在を楽しむ。

 すべて夢だったのではないかと勘違いしてしまうほど、誰も先程の話題に触れなかった。何もなかったかのような振舞いは歪で、しかしシェリーには尋ねる勇気がなかった。

 その夜、与えられた角の客間で日記帳を広げ、真っ白なページをぼんやりと眺めた。侍女の身には過ぎる豪華な調度品に囲まれて、落ち着かない夜だった。部屋の中には沢山の燭台があったが、中でも小さな燭台にだけ炎を灯した。夜はとっぷりと更けて、使用人たちも退室している。

 今日一日で起きた様々な出来事を振り返り、しかし脳内で上手く纏めることができない。浮世離れした美しさの女性だった。見た目だけの話ではない。無条件に畏怖を抱かせるような神々しさは努力で手に入る類のものではなく、嫉妬なんて浮かばなかった。言い換えれば、彼女からはおおよそ人間らしさを感じられなかった。あんな人間がこの世に存在するのかと、殴られたような衝撃を受けた。

 日記に記すには獏としていて上手くない。考えながら使い古した櫛で何度も黒髪を梳かした。入念に手入れをしたところであの金糸の輝きには敵わないと分かっていたが、それでも手を止めることはなかった。

 机の前に座ってどれほどの時間そうしていただろうか。聞き覚えのある足音がシェリーの手を止めた。

 固いヒールが大理石の床を叩く。たった一度の経験だったが忘れるはずがない、彼女の足音だ。理解した途端、背中が湿り肌が粟立った。部屋の扉を隔てているというのに動くことはできず、呼吸も躊躇われる。靴音は徐々に近付き、シェリーの部屋の前で立ち止まったかと思うと通り過ぎていった。

 そこでシェリーは違和感に顔を上げた。

 おかしな話だ。シェリーに用意されたのは角の客間であって、通り過ぎようにもその先は壁しかないはずだ。

「……」

 いても立ってもいられず、シェリーは勢いよく扉を開けた。廊下を見渡したが、足音が過ぎ去った方向には誰もいない。行き止まりの壁にはタペストリーが掛けられ、月明かりの下で黒猫が尻尾を揺らしていた。

 五月蠅い心臓を鎮めたくて胸の前で手を合わせたが無駄だった。自らの呼吸が耳障りで、とかく客間の鍵をかけて机の前に戻る。昼間と同じだ。何もなかったかのように振舞えばいい。足音なんて聞こえなかった。夜更けなのだから、廊下に誰もいなかったのだから、それでいいはずだ。

 ペンの先をインクに浸して、とりとめのない話を日記に書き連ねた。平穏なルデジエールの街、素晴らしい公爵と、愛らしいミルティーニ。そして、美しいロクテーヌの記述に至り、手が震えていることに気が付いた。

 シェリーはようやく理解した。人並外れた美しい彼女を、シェリーは恐れているのだ。

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