第48話

 夏休みに入ってからの私は、本当によく頑張っていると思う。

 水族館、動物園、海。一人では絶対に行かないような場所ばかり足を運んだ。

 楽しくなかったと言えば嘘になるけれど、面倒な事が多かった事も嘘じゃない。

 それでも、なんだかんだ楽しんでいる自分がいたのも事実なのだから不思議なものだ。

 去年の私と今の私は、同じようで同じ生き物ではない。

 勿論、細胞が入れ替わるまでの期間がどうとかで実質別人、みたいな話でもない。

 ボタンが一つ掛け違えていたら、何もかもが違っていたかもしれない。その理由も漠然と理解はしている。

 それは清水の存在だった。彼女とはまだ出会って三ヶ月くらいだろうか。

 そんな短い時間で、私は清水から何かしらの影響を受けている気がする。

 ただ、さほど良くない頭で考えても、それが何かは分からないでいた。

 宿題に向き合うのは姿勢だけで、ペンを持つ手は解答欄の少し上、虚空を彷徨っている。


「誰かの事を考えてる時点で、やっぱり変だよね」


 その誰かの名前を口にしないのは、私が変えられた事を認めたくない僅かながらの抵抗だった。

 宿題も手に付かず、諦めてペンを放り投げると、見計らったようにスマホが鳴る。


「噂をすれば、か」


 電話に出ると、「小深、ですか?」とおどおどした可愛らしい声で尋ねられる。

 私の携帯番号なのだから、私以外が出る事なんてまずないけど、その口振りに、普段の強引さが鳴りを潜めるみたいに、彼女本来の奥ゆかしさを感じられて頬が緩む。


「そうですよー、小深さんですよー」


 鼻をつまんで少し声を変えると、電話口から困惑した様子が伝わってくる。


「えっと、小深菊水さん、ですよね?」


 確信を持てないのか、暫く考えて、フルネームを添えて確認を取る方向に舵を切ったらしい。

 家族からも下の名前で呼ばれる事が少ないので、菊水と呼ばれると、呼ばれ慣れていない事もあって、耳が少しこそばゆくなった。


「そうだよ、楠希ちゃん」

「な、ななな!? え、えと、これからはその、下の名前で、呼び合う、の?」

「あはは、普通に苗字でいいよ」

「そ、そっかぁ……」


 軽い戯れも、清水からすると呼称が変わる一大イベントへと早変わりしてしまう。

 苗字で呼ぶ方が、その人の輪郭を捉えているようでしっくりくるけど、清水はやっぱり名前で呼び合いたいのだろうか。

 でも私の名前って、ちょっと独特だからなぁ。ロシア人のパパが日本で初めて飲んだお酒が私の名前の由来らしい。それを知った当時の幼い私は、普通にショックを受けたものだ。


「それで何か用?」

「えと、明日の事を話そうと思って」

「明日……明日?」


 明日と言われて頭に疑問符が浮かぶ。

 今日は十三日、つまり必然的に明日は十四日になる。

 首をひねり、空白だらけのカレンダーに目を向けると、私が忘れていただけで十四日の場所にはしっかりと予定が書き込まれていた。えらいぞ私。


「あー、フードフェスね。ごめん、完全に忘れてた」

「ううん、いいの。小深の事だからもしかしてって思って


 どうやら清水から私は、「約束をすぐ忘れる人」みたいに思われているらしい。

 そんな事はないと否定をしたかったけれど、たった今忘れていたと自白をしてしまったのだから、どの口で言えばいいのだろうと考えていると、続けて清水が言う。


「……それに、声、聞きたかった、ので」

「へー、なんか付き合いたての恋人みたいな事言うね」


 可愛い事言うじゃん、みたいな感じでからかうと、電話口から落下音が響いた。次いで清水の慌てふためく声が聞こえてきて、その様子を想像すると笑ってしまう。

 あぁ、やっぱり私は少し変わったんだろうな。

 清水との会話を楽しんでいる私と、それを遠巻きから踏み込むなと牽制する私が同時に存在している。

 どちらも私なのだけれど、安定しない思考はふとしたきっかけでどちらにでも転ぶのだろう。

 うーん、全くもって面倒くさい。自分自身の事なのにな。


「ご、ごめん。スマホ、落としちゃった……」

「ん、いいよいいよ。それで明日はどうしたらいいの?」

「えと、狭山駅に八時に集合なんだけど、詳細はメールで送るね……それと」


 それとゴニョゴニョ、そう言い電話口から深呼吸する音が聞こえ、何を言われるのかと身構えてしまう。


「その、一緒に行きたいなぁって」

「一緒に? まぁいいけど。じゃあ駅には七時半くらいでいいのかな?」

「ぇぁ……」


 どうせ駅は同じなんだし、断る理由はなかった。

 しかし、清水にとっての色よい返事をしたつもりなのに、やけに反応が薄い。

 もっと大袈裟に喜ぶものだと思っていたから、少し不思議に思っていると、「そうじゃ、なくてぇ」と小さなたどたどしい返事が返ってきた。

 そうじゃない? じゃあどういう意味なのだろう。


「えーっと、明日のフードフェス会場に一緒に向かうって事じゃないの?」


 困惑気味に尋ねると、聞こえずらいものの清水の呻き声が聞こえてきて、少し怖い。

 何かを言い渋っている可能性もあるけれど、清水が私に遠慮するとも考えにくく、反応がないのでベッドに横になった。

 暫くすると、考えが纏まったのかゴソゴソと音がし、清水の遠慮がちな声で「そうです……」と囁かれる。

 明らかに不満がありそうだけど、そこに踏み入る程、私は優しくも面倒見が良くもない。


「そっか。じゃあまた明日。頑張ろうね」

「うん……」


 そして通話を終了する。


「はぁ、明日に引き摺らないといいけどな」


 どうせ働くなら、楽しく労働に身を委ねたいのにな。

 遅れて仕事内容が添付だけされたメールが届き、返信するべきか自問して、返さない事にした。

 メールに目を通すと、私と清水は朝から夕方まで焼き鳥を焼き続ける簡単なお仕事をするだけとの事だった。

 大将は何をするのだろうか、仕込み? と言うか素人が焼いた焼き鳥なんて提供していいのかな……。


「んー、まぁいいんだろうな。知らんけど」


 見たところ、フードフェスと名乗ってはいるものの、地域の小さなお祭りみたいな規模感だから味やクオリティを求めている人はそういないのかもしれない。

 スマホを枕元へ置き、瞼を閉じる。

 人生初バイトに緊張はあまりない。

 それなのに、夏の嫌な蒸し暑さのような、言葉に言い表せない不安が肌にまとわりついている気がした。

 私の不安を駆り立てている理由が清水なのだとしたら、それは大変面倒な事になりそうだ。

 だからその解決は明日の私に託す事にして、今はまだ安眠を楽しむ為に、思考を放棄した。

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