第40話

「お待たせしましたッ」


 遅れてやってきた汐ノ宮は、走って来たみたいで少し息が切れていた。

 キューズモール内から出ていないのだから、わざわざ走って来る必要もなかったのに、汐ノ宮がそうしたのは一重に小深を思っての事だろう。


「状況はどうなっていますか?」

「尾行し始めてから、ずっと良くない」


 向けた指の先を汐ノ宮の目が追う。

 そこには、楽しげに服を選ぶ二人の姿があった。何も知らない人が見ればカップルと思っていてもおかしくない距離感だ。

 それに、小深があの男性に服をあてて楽しそうに笑っている。

 わたしの水着を選んでくれた時もあんな風に笑っていたけど、あれはわたしにだけ向けてくれた笑顔じゃなかったんだと思うと、胸の奥がざわざわと荒れていく。

 小深は優しい。わたしにしてくれる事はきっと誰にでもやっている事なのだと薄らと理解していても、息が詰まるように苦しい。

 だとすれば、あの時のキスは? 一度意識してしまうと、考えたくなくてもその事だけがわたしの頭の中を侵食していく。

 アドバンテージだと思い込んでいたものが音を立てて崩れていく気がした。


「妙ですね……濡れた服を替えるだけならどうして女性服コーナーに? 清水さんあれは――」

「汐ノ宮ってその、小深とキス……した事、ある?」

「は、はぁ!? ある訳ないでしょう! 藪から棒になんですか!」


 顔を真っ赤にして狼狽する汐ノ宮を見て、そこに嘘はないのだと感じ取った。

 だからと言って、小深が私以外にキスしていない証拠にはならないとは分かっている。

 不安を押し殺すように、唇を指でなぞる。

 少し硬い指の触感に、あの日の出来事を思い出す。

 彼女の柔らかい唇が、彼女の特別である証明が、恋しくて酷く堪らない。


「あの、本当になんなんですか……」


 汐ノ宮の声で我に返る。

 彼女はまるで奇妙な物を見るかの様な目でわたしを見ている。


「ちょっと、考え事してた」

「会話の最中に恋する乙女みたいな顔をするの、本当に気味が悪いのでやめてくださいね」

「気味……」


 陰口は嫌いだけど、面と向かって言われる悪口も嫌いだ。でも、今回は言われても仕方ないのかもと、ぐっと言葉を呑んだ。


「あれ、小深がいない」


 先程までいた場所に人の姿はなく、小深の姿を探す。


「貴女がぼーっとしている間にレジを済ませて試着室の方へ行かれましたよ。凡そ、着替えるのでしょうからここでもう少し待ちましょう」

「試着室……不健全な臭いがする」

「不健全な臭い? ハッ!? まさかあの不逞の輩が何かするとでも?」

「分からない。でも、あの男の人がわたしなら、間違いなく更衣室に連れ込むと思う……」

「な、なんたる不道徳……しかし貴女が言うと説得力がありますね……」


 わたしと汐ノ宮は顔を見合わせ、無言の一致により店内へと駆け出した。


「くれぐれも見付からない様にしてくださいね!」

「分かってる」


 一目散に試着室へと向かうと、その入口に店員らしい人物が仁王立ちしていた。


「お客様、ご試着ですかー?」

「あっ、えと」


 アパレルショップで働くだけあり、店員の陽のオーラがわたしの足を竦ませる。

 手ぶらのわたしを品定めする様に見たと思えば、この先に入る権利はないとの圧力を感じ、躊躇っていると汐ノ宮が私の前を行く。


「試着、二名で!」


 汐ノ宮が手にしたワンピースを掲げると店員は、そっと後ろに退き、満面の笑顔を浮かべた。


「奥へどうぞ〜」


 心強い。今日初めて彼女にそんな尊敬の念を覚え、歩を進める汐ノ宮の後に続く。

 試着室の入口から中を覗くと、小深の姿はなかった。


「小深、いない……」

「まさかっ、本当に連れ込まれたと言うのですか!?」


 汐ノ宮が悲壮な表情を浮かべ、何かに気付いたのか声を上げる。


「あれは小深の靴です、私と一緒に買ったものだから間違いありません」


 私には見覚えのない靴だったけれど、更衣室の前に靴が二足も置かれている場所はそこしかなかった。


「あの男……許せません」

「わたしも、同じ気持ち」


 今すぐ飛び込みたい気持ちを抑え、その隣の空いた更衣室へ飛び込み、耳を澄ませる。


「こんな感じでいいんですか?」

「んッ、いいよ菊水ちゃん……」


 隣から小深の声が聞こえ、嫌な予感は的中したのだと悟る。でも、小深の声色からは嫌そうというか、連れ込まれた雰囲気といったものは感じない。

 だとしたら自分の意思で入ったのだろうか。それだと小深とあの男の人は本当に付き合ってる疑惑が更に深まってしまう。

 でも、観覧車で小深が口にした、「恋愛感情が希薄」という言葉がわたしの理性をすんでのところで引き戻してくれた。

 続けて耳を壁に付けていると、布の擦れる音が聞こえ、不意に男性の艶やかな声がした。


「うっ、菊水ちゃんってもしかしてエスっ気があったりするのかな?」

「えっ……なんでですか」

「強引というか、容赦がない感じがね。よし、ちょっと触って確かめてくれない?」

「触ってもいいんですか? あっ、ホントにちょっと硬くなってる……こんなに変わるものなんですねー」

「あ、あんり凝視されると照れるね……」


 一体、隣で何をしているんだろう。

 会話を聞いていても想像がつかず、汐ノ宮に助言を求めようと顔を上げる。


「汐ノ宮、ちょっと――」


 ドゴンッ! それは顔を上げると同時に、わたしの頭の少し上の壁を汐ノ宮が殴った音だった。

 暴力の衝衝撃と、予想外の行動に思考がフリーズする。


「はぁはぁ……認めません……」


 顔面蒼白という言葉が今の彼女に当てはまるくらいに顔色が悪く、巨躯な汐ノ宮の目だけは血走っていて、その姿に恐怖を覚える。

 そんな汐ノ宮が、よろりと体を揺らして更衣室の外に出ようとした事で、思考を止めていたわたしは慌てて彼女の足を掴んだ。


「だ、ダメ……! 小深に見つかっちゃう」


 更衣室の壁を叩いてしまった事で、隣は既に不信感を抱いている筈だ。

 それに、小深はないにしても、あの男の人が逆上してこっちに来てもアウトなんだから、今は大人しくするべきなのに!


「見つかる? もういいじゃないですか、もう我慢なりません。あの男を殺して、私も死にますっ」

「し、シーっ! 聞こえちゃうから。わたしは怒られたくないのっ」


 更衣室から出ようとする汐ノ宮の足にわたしは全体重を乗せてしがみつく。


「離してください! あんな会話を聞いて、あなたはよく冷静でいられますね!」

「よ、よく分からないけど、一度落ち着い……あうっ」


 しかし抵抗も虚しく、身長差が三十センチ程もあるとなると、子供の児戯をあしらう様にわたしは足からふるい落とされてしまった。


「だ、ダメ! 汐ノ宮!」


 わたしの静止を無視して、汐ノ宮は更衣室から出て行ってしまう。

 あぁ、終わっちゃった……。

 小深にストーカーはダメって注意されたからバレたくなかったのに。

 尾行はストーカー行為に該当するのかな? 汐ノ宮に脅されたと言うべきか、それとも見付からない内にわたしだけでも逃げるべきなのか。

 どっちにしても、あの暴走した汐ノ宮の口からわたしの名前が出たら終わりだし……。

 汐ノ宮はもっと冷静な人だと思っていたけど、あんなに自己中心的で感情的な一面があるなんて知らなかった。

 知っていたらわたし一人で尾行したのに。

 そんな後悔は今となっては意味はない。小深に怒られない事だけを祈って、更衣室の隅で三角座りをし、息を潜めるように顔を埋めようとした矢先の事だった。


「小深がいません!」


 慌てた様子の汐ノ宮が、そんな言葉を口にして戻ってきたのだった。

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