第36話

 夏休みが始まって一週間近くが経っていた。

 天井をボーっと仰ぐ事が日課になりつつあるが、このクソ暑い中、どこかに行く気にもならず、かと言って宿題に着手する気にもならず、こうして私は充実した暇を満喫していた。


「はー、夏、滅びないかな」


 窓の外から燦々と降り注ぐ太陽の光に悪態をつきながら、またあの日の事を思い返してしまう。

 そっと自分の唇に触れる。触れた指の触感は清水の柔らかな唇とは違い、少しばかり硬い。

 人生初めてのキスが、まさか清水とする事になるとは思ってもみなかった。


「でも、嫌な感じじゃなかった、かな」


 清水が可愛かったからかもしれないけれど、その理屈だと千早や唯華ともキス出来る事になってしまう。

 そもそもだ、友達同士でキスしてしまった今、私と清水は大手を振って友達と呼べるのだろうか。

 友達の定義を調べてみると、サイトによって書いてある事がまばらで、参考にはならなかったけれど興味深い発見もあった。

 添い寝をするソフレ、お風呂を共にするオフレ、ハグを楽しむハフレ、そしてキスを楽しむキスフレだったりと私の知らない間に、友達の可能性は無限に拡がっていたみたいだった。

 だとすると私と清水はキスフレの関係になったのだろうか。否、あれはあの時限りのお詫びのキスであって、次はない。

 やはり私と清水は友達でそれ以上でもそれ以下でもない。

 これ以上考えるのが面倒になってスマホを放り投げた。

 こんな時にはお風呂に限る。無駄な思考を洗い流そうと一階に降りて、お湯はりボタンを押したタイミングで呼び鈴が鳴った。なんとも間の悪い。


「宅配……かな」


 僅かに清水の可能性が頭をよぎったものの、呼び鈴は一度鳴っただけで大人しくしていた。

 仮に清水だとしたら、諦めの悪いセミのように呼び鈴は鳴り響いているだろう。

 そう考えて警戒心を解いた私は、思考を放棄して不用心にも玄関を開けてしまった。


「小深、終業式ぶりですね。元気にしていましたか?」


 扉の先にいたのは、日傘を畳みハンカチで汗を拭っている幼馴染の姿があった。


「事前にアポを取ってから来てくれませんかね」

「まぁ、事前に連絡すれば小深は快く歓迎してくれるのですか?」

「それは……」

「ふふっ、ではお邪魔しますね」


 目を逸らした隙に、私を押し退けようとする千早を止める術はなく、侵入を難なく許してしまった。

 千早の身長はクラスの中でもかなり高い。私と清水の身長差と同じくらいの身長差が千早との間にある事から、どう足掻いても力で千早には勝てないのだ。


「部屋に上がっても大丈夫ですか?」


 玄関を閉めて振り返ると、今になって入室の許可を求める素振りを見せるものの、千早の足は既に二階へ繋がる階段へ向いていた。

 清水も図々しい所があるけれど、千早の場合は意識的な図々しさを感じるので、少しばかり腹が立つ。


「私の許可なんか取らなくても勝手に入るんでしょ。中学の時なんて学校から帰ってきたら私の部屋にいた事もあったくらいだし……」


 学校から直帰した筈の私よりも早く私の部屋にいた事を今思い出しても身震いがする。

 というか私の恐怖体験の大半は千早が絡んでいる気がする。

 深く考えた事なかったけど、どこにでも現れるんだよなぁ……。

 千早の神出鬼没さに頭を悩ませていると、千早は少し照れたように口を開いた。


「その、何か見られたら困るものや、片付けなければならない物があるのでしたら、ここで待ちますが……」

「変な気、使わなくていいから!」


 自室の扉を開けて千早を部屋へと押し込んだ。

 清水ほどじゃないにしても、私の部屋の私物もそこまで多くはない。

 一時期、趣味を持とうと色んなものに手を出してみたけれど、面倒くさがりの私にはどれもしっくりこなかった。

 この部屋に置かれている物はその頃の名残で、何年も使われていないオブジェとして飾っている。


「中学の頃とあまり変わってませんね」

「まぁね。物欲があんまりないから物が増えないんだよね」


 部屋を興味深そうにキョロキョロと見渡すと、何かを見付けたのか千早が手を伸ばした先にあったのは、ホコリの被ったギターだった。


「小深、弾いてみてください」

「私が軽音部に入っていない時点で察してほしいな」

「弾けたとしても小深は部活動に勤しめる性格ではないと思うのですが」


 その言葉は流石にグサリと刺さる。腐っても幼馴染、お見通しと言わんばかりの言葉に私が苦笑すると、誇らしげに口角を上げていた。


「では、私が一曲」


 ストラップを肩からかけ、机の上に飾ってあるピックを手に取った。

 ジョークにしては少し長く、突っ込むべきかと考えていると、ジャラーンと弦を響かせた千早はベッドに腰をかけた。


「えっ、本当に弾くの?」


 私の言葉に重ねるように、千早は手馴れた手つきで指と手を器用に動かし始めた。


「カントリーロ〜」

「弾き語り!?」


 まさかの「カントリー・ロード」だった。

 それほど難しくなく初心者向けの曲だとしても、初心者がそう簡単に弾ける筈がない。

 しかし、三十秒ほど弾いて満足したのか、ギターを弾く手が止まった。


「ご清聴、ありがとうございました」

「えーすごっ、っていやいや、千早ってギター弾けたの? 初耳なんだけど」

「ふふっ、簡単なものなら少しばかり」


 そう笑って簡単に言うものの、私もギターの練習をしたけど弾けなくて、結局一ヶ月も経たないうちにやめてしまった。これが才能の差なのかな……。

 集中力が高くて多才な千早は何でもすぐ身につけてしまう。まさに才色兼備といったふうで、私には残念ながら才の部分が欠けていた。


「千早がギターねぇ、何かに影響されて始めたとか?」

「影響……まぁそうですね。今となっては持て余した技術ではありますけどね」

「そーなんだ」


 一瞬、寂しそうな表情を浮かべた気がして、それ以上深く聞く事が出来なかったけど、好きなミュージシャンが亡くなったとかそういう理由かもしれない。

 手渡されたギターを元の位置に戻し、私も千早の隣へ腰を下ろした。


「それで、何しに来たの? まさか用もなくこんな所まで来た訳じゃないでしょ?」


 千早がこうして私の家まで訪れる事は多くは無いけれど、全くない訳じゃない。

 こういう時は決まって何かしらの理由があり、私としては本題にさっさと入りたかったのだけど、千早は楽しくなさそうに頬を膨らませる。


「小深は行動の全てに理由付けしないと気が済みませんか?」

「えっ、いやそういう訳じゃないけど……」

「……冗談ですよ。物事に意味を見い出す事は悪い事ではありませんからね」


 ……今日は、やけに当たりが強いな。

 露骨に機嫌の悪さを見せてる訳じゃないけど、ふとした瞬間に見せる口の悪さ、というか嫌味っぽさに空気の淀みを見てしまう。

 こういう時は下手に探りを入れるのは悪手だと経験が語っている。


「あー、何か飲み物取ってくるよ」


 喉が渇いてる事にし、気まずさから逃げる様にそそくさと部屋を後にした。


「あれ、お姉ちゃんいたんだ」


 リビングに入ると、珈琲を片手にスマホをポチポチしている暇そうな姉の姿があった。

 私も人の事を言えた柄ではないけれど、ずっと家に引きこもっているのは如何なものかと。


「何かお茶請けとかあったりする?」

「アハハ、そんなものあると思う?」


 質問に質問で返さないでほしい。

 でもこんな事を言うと、「お母さんと同じ事言ってる! やっぱ血よねー」と嫌味を言われるのが目に見えてるので絶対に口が裂けても言わない。

 冷蔵庫を漁ったものの、お茶はあってもやはりお茶請けと呼べるものは一切なかった。

 日持ちするお菓子でも買っとこうかな……。


「なに、誰か来てるの?」

「呼び鈴聞こえてなかったの? 千早だよ。なんかちょっと機嫌悪そうなんだよね」

「年頃の女の子なんて外面が良いだけで、いつも機嫌悪いじゃない。良い時なんて恋してる時くらいじゃないの?」

「うーん、言い得て妙……」


 少し偏見が入っている気もするけど、絶妙な解像度に思わず唸ってしまう。

 それが千早に該当するかはまた別の話になるんだけども。


「あー、そうだ、アンタ明日暇だったりする?」


 諦めてお茶だけを手にしてリビングから出ようとすると、そんな要件不明な言葉を背後から投げ掛けられる。

 嫌な予感がした私は、即座に曖昧な言葉を投げかけした。


「えー、なんで?」

「質問に質問で返すなってこの前、ママに怒られたばっかでしょうが。それでどうなの? 暇なの?」

「……暇だけど」


 結局、何を言っても嫌味で返ってくる宿命だったのだと諦め、姉へと振り返る。


「暇だったら何なのさ?」


 意趣返しのつもりで威圧的に睨みつけると、姉は気にした素振りすら見せずに、私に命令を下した。


「アタシの後輩とデートしたげてよ! 拒否権はないわよ、けって〜い!」

「……は?」

「待ち合わせは十二時に天王寺駅だからよろしくねん。顔は知ってると思うけど写真送っといたから! よろしく〜」

「ちょ、待ってよお姉ちゃん!」


 本当に拒否権はないようで、私の言葉をがん無視した姉は、リビングからだけでなく家からも飛び出して行ってしまった。


「はぁ……やっぱりこうなった」


 物心ついた時から姉と関わるとろくな事がない。

 悪態をつく相手もいなくなったリビングで、私はこの夏最大のため息を吐く事でしかストレスを発散する術はなかったのだった。

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