第35話

「わたし、何してるんだろう……」


 明るかった空は、ゆっくりと時間をかけて赤く染まっていく。

 三週目のチケットを買って、乗り込んだ観覧車の景色は何度見ても空の色くらいしか変わるものがない。

 観覧車の窓に反射する自分の顔は虚ろげで、逃げてきてしまった事を今更になって悔いてしまう。

 どれだけお洒落をしても、そんな事で性根が変わる事なんてあるわけなんてないのに。


「小深、怒ってるかな……」


 スマホには『ごめんね』の四文字の謝罪文が映し出され、それを見てまた惨めな気持ちになっていく。


「謝らせたかった訳じゃないのに……」


 小深から貰える言葉はなんだって嬉しい。

 でも、これは違う。わたしが言わせてしまった言葉だ。

 後悔の念がぐるぐると頭を回り、寺本唯華の顔が浮かび上がる。


「今頃、あの人と一緒にいるのかな……」


 小深に特別な感情を抱いている疑惑のある二人のうちの一人。

 彼女はわたしとは違って、恋愛感情は抱いていないと思うけど、やけに小深との距離感が近いというか、馴れ馴れしい。

 何より、小深が当たり前のようにそれを受け入れている事にわたしは不満でならないけど、これが醜い嫉妬だと分かっているから、逃げ出してしまった。

 本当ならデートの最後に小深と一緒に乗るはずだった観覧車は、狭い空間がやけに広く感じる程度には空回りしているのだと実感する。

 少し前まではあれだけ安心できていた心は、すっかり冷えきってしまい、見下ろした先のカップルや恋人を目にすると、孤独さが浮き彫りになる。


「でも小深だって、悪いんだもん」


 寺本唯華と遭遇した時に、有無を言わさず断たれたわたし達の繋がりを示す握られた手。

 まるで拒絶するように、何事もなかった様に振る舞う小深の背中が、酷く遠く感じてしまった。

 その行いが小深にとって、何を意味するのか想像に難くない。けれど、だとしても、わたしの気持ちを無視されたのは事実で、込み上げてきた悲しさが涙と形になって目尻が滲んでくる。


「義母さんもこんな気持ちだったのかな……」


 再婚してすぐにお父さんが亡くなって、あまり仲が良いとは言えなかったわたしを引き取ってくれた義母おかあさん

 血の繋がりはない、義母が愛しているのはわたしじゃない。世界から切り離された孤独感と、まだ若かった義母の人生を縛っている後ろめたさが、家族になろうと愛情を注いでくれていた義母の手を、最後まで取る事が出来なかった。

 愛情を素直に受け入れられなかった人間が、誰かに愛情を受け取ってもらえる訳がない。だからこれは、その報いなのだろう。

 当たり前にある世界から切り離され、モノトーンな日々を送る中で、出会った小深菊水という太陽のような彼女は、わたしの世界に彩りと温もりをくれた。

 この愛を受け取ってもらいたい、そんな一心で探し当てた彼女には振られてしまったけど、友達になり、今は親友を目指している。

 けれど、いつの日か親友になれたら、わたしはまた告白して――そしてまた振られるだろう。

 それでも、きっと何度も何度も、一方通行の告白を繰り返す。

 小深から拒絶されるのは想像するだけで怖いけど、この気持ちを伝えないまま、彼女が誰かのものになってしまう方が、ずっと怖いから。

 それに、わたしも彼女達も、きっと小深と結ばれる事はない。

 短い間だったけど、ずっと見ていたからそう感じるんだ。

 淡白だけど、人当たりが良くて。

 透明な分厚い壁を作っていても、歩み寄ったら手を取ってくれて。

 面倒くさがりなのに、面倒見が良くて。

 そんな優しい彼女は、その優しさゆえに、きっと誰の手も取る事はないだろう。


「っ……ぅぅ」


 それでも、気持ちを受け取ってもらえないのは辛かった。

 冷房が効きすぎて、寒さを覚えたわたしは、膝を抱えて短い夢を見る。

 わたしと彼女が、結ばれる幻想を胸に抱いて、ゴンドラの扉が開く。

 そして、泡沫の夢は醒め――


「私も一緒に乗ってもいいかな」


 開いた扉から、そんな言葉と共に現れたのは、小深だった。

 まだ夢を見ているのかと、何度も目を擦る。

 けれど、そこには実体があり、正面に座った彼女の温もりが膝越しに伝わってくる。


「観覧車が透明で助かったよ。おかげで清水を見つけれたしね」


 どうして? そんな言葉が喉まで出掛けていた。

 帰るとメールをしたのに。ここにいるなんて教えていないのに。見付けてほしいなんて言いたくても我慢したのに。

 気まずそうに、でも柔らかな印象を与える彼女の双眸がわたしを捉えている。


「あー、また泣いてる……」


 小深の手が、ハンカチ越しに頬を撫でる。

 ポロポロと溢れてくる涙は、どうしても止める事が出来なくて、ハンカチは次第に水気を帯びていく。

 それでも小深は、困った表情を浮かべながら、わたしの涙を拭い続けていた。


「どう、して……」


 立ち上がり、堰を切ったようにわたしの口は、激情の波が押し寄せるかの如く、勝手に言葉を吐いてしまう。


「どうして、どうして小深はここにいるの? わたし帰るってメールした! すぐ追い掛けて来てくれるかなって思って、何度も振り返ったけど小深は来なくて、寂しくて、悲しくて、辛くて! 小深に手を振り解かれた時、突き放されたって思ったの。寺本唯華に見られたくないのかなとか、わたしと手、繋いでるの見られるの嫌なのかなとか、ずっと嫌な考えが頭から離れなくて! モヤモヤして逃げて……ッ、こんな、小深に八つ当たりしてるわたし、嫌なのに……ッ!」


 何を言いたいのか考えが纏まらず、感情の赴くままに言葉をぶつけてしまう。

 それなのに、小深はただ黙って聞いている。


「なんで、どうして小深は……そんなに優しいの……? わたしの事好きじゃないのに、ホントは面倒だって思ってるのに、わたしみたいなめんどくさい女なんて早く見捨てちゃえばいいのに!」


 悲しみから憤りに変わった感情は、荒れ狂う波になってわたしの心をぐちゃぐちゃにする。

 本当はそんな事思っていないのに、かまってほしい子供みたいに、駄々をこねている。

 こぶしを強く握り、肩が勝手に震えてしまう。

 わたしが言葉を吐き終えるまで、静観すると決めたであろう小深のそんな優しさが、わたしをまたおかしくする。


「なんで、わたしを見付けてくれたの……そんなに、そんなに優しくされたら、また執着して嫉妬して不機嫌になって……また迷惑かけちゃう。それでもわたし、勘違いしちゃっても……いいの?」


 息を荒らげ、涙を流す姿は、きっと酷く醜い。

 言葉を吐き切ると、少し冷静になった頭には、小深にこんな醜悪な姿を晒してしまった恥ずかしさと、寂寥感が同時に襲い来る。

 糸が切れたマリオネットの様に、力無く座り込むと、静寂が訪れた。

 俯いた私は、小深の顔を見れず、祈る様に自分の手を握った。

 面倒くさい。そう言われても仕方のない事をしたのに、小深はいつもと変わらない口調で口を開いた。


「清水、みて。すごく綺麗」


 言葉通り、顔を上げると一面の夜景が広がっていた。

 シースルーなゴンドラからは、足元からも夜景を見下ろす事ができる。そう雑誌には書いていた。

 ずっと乗っていたのに何も感じなかった景色は、小深がゴンドラの外に目を向けている姿を見ると、途端に輝いて見えてしまう。


「きれい……」


 ライトアップされた観覧車、日が落ちた事で街全体が景観を装飾するように灯っていた。

 わたし一人じゃ抱く事のなかった感想に、小深は「あのさ」と言葉を切り出した。


「正直、清水が逃げた理由が分からなかったんだよね。唯華の事か、妹の事か、スケジュール通りに行動できなかったからとか。そんな風に思ってた。でも、違ったんだよね」


 そう言って、割れ物に触れるみたいに、小深の手がそっと手の甲に触れた。

 握られた手が優しく解かれ、柔らかい手に包まれる。


「理由も分からずに謝るのが私の悪い癖らしいけど、理由が分かって良かったよ」


 ぎゅっと握られた手からは、小深の体温が溶け合うように混じり、わたしの冷えきった心を溶かしていた。


「清水、ごめんね」

「わ、わたしこそ、逃げたりしてごめん、なさい」


 互いに謝りあうと、小深がにやりと笑った。


「それにしても、清水ってちゃんと喋れるんだね。素で驚いた」

「ふ、ふつうに喋ってる、けど」

「ほらそれ。今は喋り方がたどたどしいじゃん。みんなとは普通に喋ってるのに、なんで私の時だけそうなるの?」


 指摘され、わたしは羞恥で頬を染める。

 難しい理由はない。ただ小深と話す時はいつも緊張してしまうからだ。

 それを改まって本人に言うのは、少し……いや、かなり恥ずかしい。


「小深は、デリカシーが、ない」


 そう指摘し返すと、小深は目を丸くして、少ししてアハハと笑う。

 そんな小深を見て、わたしも自然と笑がこぼれる。

 清々しい気分になったついでに、わたしは小深と初めて出会った時から感じていた気持ちを伝える事にした。


「わたしね、小深と出会えた事って、奇跡……うんん、運命だと思ってる、の」

「運命、それはまた大袈裟な」

「大袈裟じゃない。わたしにとっては、小深がなの」


 そう言葉にすると、想像通り、小深は少し困ったように微笑みを讃える。

 運命の相手、強い繋がりを可視化させるような言葉の重みは、小深にとってはあまり受け入れ難い言葉なんだろう。


「……でも、小深の運命の相手は、わたしにも分からない。だから小深がその相手を見付けたら……きっとその人に夢中になっちゃうんだと思う」

「ふふっ、なにそれ……」


 軽く笑った小深は、少し考える素振りを見せ、「まぁいいか」と小さく呟いた。


「私ね、大切な人ってよく分からないんだよね。恋愛感情が希薄と言うか、誰に対してもって感じかな」

「それは……わたし、も?」


 思い切って聞いてみると、苦い顔をして小深は頷いた。

 正直、ショックだった。

 でも、小深が心の内をわたしに話してくれた事への嬉しさが勝ってしまう。

 大切じゃないと言われて喜ぶのも変な話だと思うけど、これは退歩ではなく進歩なのだと感じていたから。

 だからわたしは、開いた心の隙を見逃さまいと、今だけは、小深の悩みを利用する悪いわたしになると、決心する。


「じゃあ……試して、みる?」


 わたしは、ゆっくり立ち上がり、小深の膝の上に腰を下ろす。

 胸が張り裂けそうな程に鼓動が高鳴っていき、頬が紅潮していく。


「えっと、清水さん?」


 珍しく小深が動揺していて、それすらも愛おしく感じる。

 小深の肩を掴み、羞恥心を忘れ、今世紀最大の悪女を演じる。


「今日はわたしへのお礼を兼ねたデートなのに、他の女の子と楽しそうにしてて、傷付いたの」

「それはさっき謝っ――」

「お詫び、ほしい」

「お詫び?」


 首を傾げる小深の言葉に頷き、彼女の優しさを利用する。


「小深が本当に悪いと思ってるなら……だけど」

「それは……」


 あぁ、わたしは死んだら間違いなく地獄に落ちるんだろうな。

 でもいい。死ぬ前に少しでも可能性が高くなるなら、わたしは何だってしてみせる。

 逡巡した後に、小深は唸りながらも、「分かった」と呟き、言質を取る事に成功したわたしは、深く息を吐き、言葉を紡ぐ。


「じゃ、じゃあ、きしゅ――」

「きしゅ?」

「うぅ……」


 また噛んでしまった。大切な時に限って回らない舌を交換したくなる。

 忘れた筈の羞恥心が戻り、恥ずかしさのあまり、涙が滲んでしまう。


「キス! 今から、キス、します……!」

「おぉう、唐突だな……」

「誰にも好きにならないなら、キスしたって、問題ない、でしょ」


 ヤケクソ気味に暴論を振りかざすと、小深は苦笑する。


「けどさ、友達同士でキスってするものなの?」


 暗に、キスしたら友達じゃなくなるよと言われている気がしたけれど、わたしの最終目標は恋人なんだ。

 私の意思は固く、それを感じ取ったのか小深は諦めたように肩の力を抜いたのが掌から伝わってきた。


「いいけど、一瞬だけだからね……」

「う、うん……!」


 小深はそう言って瞼を閉じてしまった事で、本当に今からキスをするのだと、血が沸き上がるような感覚に陥る。

 すぐ目の前には綺麗な顔があり、頬が朱に染っていた。視線は自然と下に向き、ふっくらとした柔らかそうな唇に目を奪われてしまう。


「き、キス、する、ね」

「うん……」


 膝の上に座った事で、わたしと小深の顔の位置はほぼ変わらず、ややわたしが顔を上げる。

 わたしの顔が近付いてる事が、分かると小深の肩が少し震え、そんな僅かな動きにつられて、わたしの体が少し跳ねる。

 一瞬の緊張、そして、わたしの唇に彼女の唇が触れた。


「んっ……」


 そんな声が漏れ、どちらなのかはもう分からない。

 多幸感が全身を巡り、頭が真っ白になる。

 わたしは今、小深とキスをしている。その事実が独占欲を刺激し彼女の肩を強く掴む。

 唇と唇を合わせるだけの行為に酔うように、わたしは小深から制止されるまで、キスを続けた。

 凍える様に寒かった筈のゴンドラは、もう寒くなんてなかった。

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