第8話 妻だから判る

 程玲衣は悲しくて泪が止まらなかった。

あと二日で愛する夫と永遠のお別れである。

どうしても寝付かれず、夜半に棺桶の前に座って蓋を開けた。

棺の中の夫は生まれた時のままの状態でいれられてあり、冷たくなっ体を玲衣は頭から顔首筋から肩、胸から腹に臀部から太腿、臑から足首を辿って膝を撫でて足の付け根へと手を這わせたのである。

玲衣は夫の躰を知り尽くしたつもりだったがこうして改めて手を這わせてみると何となく感触が違っていたのだ。

『それは死人だから当然だ』と言われるかもしれないが、玲衣は違いを知ったのだ。

それは最後の部位に触れて分かったのだが、感触が違うと言うより抑々形が違っていたのである。

 それともう一か所左肩にこれまでに見たことの無い文字が薄く刻まれていたのだ。可なり薄く彫られているので読み取りにくかったのだが良く目を凝らして観ると、[假貨jia huo]と読めそうだった。そうだとしたら偽物と言う意味になる。

〈ということは矢張り夫ではない〉

 顔形はそっくりであったが、決定的な部分が違っていたのと肩の彫り物が証明したのである。

 これは天地爺の仕業ではない。

正しく夫張徳豊の芸術品であった。

 読者諸氏なら覚えてお出でだろう、こんな場面を…。


【仕事に関する話などしたことは無かったのだが、或る日ある疑問について若い娘に質問したのである。

「なぁ玲衣、知っていたなら教えて欲しいのだが」

「私で分かる事でしたら…」

 徳豊は少々照れながら、

「男と女の違いは分かるよな」

「はい」

 言おうとしてるのが解るのか、程玲衣は下を向いて答える。

「合わせたら判るものかね」

「えぇっ」

 程玲衣は真っ赤になって下を向いたままであった。

「詰まりさ私の物と、他の物との区別がつくかと聞いてるんだよ」

 徳豊も喉が渇くのか水を頻りに飲んだ。

「先生の方がご存じでしょうに」

「いやその経験がないも……」 

 肝心の部分が聞き取れない。

てなことで、互いに不慣れながらこの後実物による検証に及んだのである。】

 こんなことを切っ掛けに玲衣も次第に徳豊の研究に感化されて、人体の成り立ちやそれらの機能を覚えたものだった。


 さて目の前の遺体が夫でないとしたなら、このそっくりさんは誰なのか?。

これを解明できるのは外ならぬ徳豊でしかないのだ。 

事故現場で見つかったのはこの遺体を含めて四人であった。

そして一人不明者が居たがどのような人物だったかは特定出来なかったのである。  

張徳豊とされた遺体にはルシーノフ共和國の大統領から頂いた拳銃を身に着けていたのだからそれは間違いない筈なのだが、葬儀直前に妻の程玲衣から夫の遺体ではないからと葬儀の取りやめを申し出たのだが、ルシーノフ共和國からも弔電が入ったり、葬儀に参列する弔問團が来訪していたのである。

程玲衣は遺族として参列し國葬としてそれなりの形を以て執り行われたのであった。


 程玲衣は葬儀のひと月後に青州に行き、其処から北のモウコル地区に入って行った。

腰には徳豊が西安を発つ時に父親から持たされたという古い軍用銃を下げていた。

この辺り一帯はモウコル族の自治区で、事件の無い静かな山村であった。

 玲衣は例の飛行機事故の様子を聞いて歩いて廻ったのだった。

殆どの者は判らないと言ったが、山の中腹にある寺院の僧侶二人が手招きして言うには、事故の後怪我した男が寺を訪ねて来たので寄せて看病したと言うのである。

ある程度良くなると男は一人で山から山草を取って来ては薬を作っていたというのだ。

「名は何と言いましたか」

「ポクジンとか言ってたなぁ」

「ポクジンですか、で何処に行くと言ってましたか」

「東に在る國とか言ってたよ」

 風体からすると徳豊に間違いなかった。

だが此処で事故の模様を目撃したという者が現れたのである。

その近くで農業を営む紅蘭という女性であった。

紅蘭はあの日、作付けをしている最中にそれを目撃したと言うのだ。

場所は國境に極めて近い所で、小型の飛行機が戦闘機の様な飛行機に打ち落とされたというのである。飛行機は炎を上げて山林に落ちたという。

良く見るとその黒煙に巻かれるように大きな傘にぶら下がった人の様なものが中腹の寺の近くに落ちて行ったと証言したのである。


 目撃証言が前後したが、如何やら乗客の内一人は助かったようだ。

プライベートジェットが無印の戦闘機によって國境沿いで撃ち落とされ、四人が無くなって後の一人は怪我を負いながらもパラシュートで脱出して助かったということだ。

 それが張徳豊であるかは判らないのだが、玲衣は固くそう信じているのだった。

 東の國とは何処のことだか分からないが、…ルシーノフ連邦國に出かける前に大桂國のも一つの友好國チョンソンに行かなければならないかも知れぬとは言っていたような気がするのだ。

もしかするとそのチョンソン共和國のことかも知れなかったが、一体何しに其処へ行ったのだろうか?

國から指示が出た訳でもない筈だから単独渡航はしない筈であった。

 玲衣は一旦家に戻ることにした。

その序に煌陽に寄ることにしたのである。

此処は玲衣の出身地だが、今更家に戻っても意味がないので、順天府近くの旅籠に宿をとった。

休むには未だ陽は高いので、近くに在る公園に暇潰しに出掛けてみた。

 薄暗くなりかけた公園には未だ結構人がいたのである。

公園の中をざっと見渡してみると、酔っ払いかどうかは判らないが、浮浪者の様な男が木に寄り掛かって地べたに座り込んで居るのが目に留まったのである。

 比較的暖かい時期だからその様にして寝ている浮浪者もいるには居た。

特に気にすることも無いのだが、何故か気になって近くに寄ってみた。

すると気配に感じたのか男が顔を向けたのだ。

「あっ、徳豊」

「玲衣か?」

 二人は奇跡とも言える再会に吃驚して、言葉が出なかった。

玲衣は駆け寄ると徳豊に抱き着いた。

「痛い~」

 怪我が治癒していないのだろう。

苦痛に顔を歪めるのだった。

「ご免なさい。酷い怪我をしたのね」

 玲衣は生存を信じた夫に会えて嬉しかったが、旅籠に連れて帰るに一苦労した。

旅籠に戻ると主人に事情を話して少し大きめな部屋に換えて貰った。主人の計らいで風呂場を貸し切りとして呉れたので、ゆっくりと汗を流すことが出来た。

序ながら古着まで提供して貰ったのである。

 

 ソファーベッドに座って改めて無事再会を喜び合った。

「漸く帰って来ると思ったらこの事故?でしょう、豪いショックだったわ。貴方の遺体を見て最後のお別れにと体全体を撫でたのだけど、その感触がどうしても納得できなかったの。ひとつはこれよ、そうこれだわ」

 そっくりさんだったけれどそこは見ただけで違いが解ったと言い、もうひとつは彫り物を見つけて假貨と彫られていたことで偽物と判ったのだと言った。

「流石玲衣だ。その通りだ」

 徳豊は長引く逗留に危惧し、いざと言う時の自身の替身を用意して置いたのだった。

プライベートジェットが用意された時、身代わりに頂いたばかりの拳銃を持たせて立場を入れ替えて搭乗したのだと言った。

そして予想通りのことが起きたので、落下中に落ち着いて扉を手動で開けて、飛び降りて落下傘を開いて助かったのであった。

「貴方のお陰で命が助かったと言うのにどうしてそのようなことをしたのかしら」

 コロチェンコの替身が狙撃されて助かって居乍ら、その恩人とも言うべき人物を卑劣な手段を用いて抹殺しようとしたのだから当然であった。

「それは秘密を護る為だよ。詳しいことを知ってるのだし、況してや他國民だからさ」

 抑々替え玉を用意するのは刺客から身を護る為で、身代わりが犠牲になるのは当然のこととしたのだ。

「卑劣な男ね。懲らしめてやりたいわ」

「その内天罰が下るさ、必ずな」

 二人は新婚旅行を兼ねて龍陽に帰るまで、彼方此方旅して歩いたのであった。

旅費は十分持って居たので心配なかった。

曾祖父が若い頃住んだことのある擢冓てきこうに行こうとしたが途中が通行止めであった為、其処に行くにはかなり遠回りしなければならなかったので仕方なく諦めたのである。


 曾祖父の手記に寄れば洞窟の中に在る池から外に流れ落ちる水が反対側から見ると、まるで額の中の滝のようで、それは自然が作った絵画であり、絶景と言えたようだ。

道が遮断されているのでは仕方なかった。

と言って西方に行くには徳豊にはきつかったので、もう少し此処煌陽でゆっくりしてから龍陽に戻ることにしたのである。

 龍陽に戻ったら事実を報告しなければならなかったので、事実に即した報告書を作成したのである。


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