晴れた翌朝、乃進と兵頭、そして寅一(とらいち)の三人が畑へ監視にやってきた。

 おい紀平っ、畑はまだか! 寅一の声は威勢よく響いた。そこへ権兵衛と五郎助がすばやく寄ってきてこう言った。ちょっ、ちょっと待ってくだせえ、いまあすこは段々畑にしようとみんな思っとるんで…

 段々畑ぇ? なんだそりゃ。寅一は怪訝な顔をした。心配性の五郎助が気をもんで言った。

 へえ、あの丘を平地にして、水やりをよくしたいんす。そうすりゃ収穫も増えるし…

 ふん、獲れ高が増えりゃあ文句はねえ。秋までにできるんだな?

 へっ、もちろんっす。権兵衛がすかさず答えた。寅一は顎をさすりながら言った。

 喜衛門(きえもん)さまに報告するぞ。いいな?

 へへっ! 二人は深々とお辞儀した。それを見た三人は満足して立ち去った。

 喜衛門さまって? 紀平は五郎助に聞いた。

 那珂川(なかがわ)喜衛門さまよ。この辺一帯の名主さまだて。大名さまがお泊りになったこともあったと。

 …あいつら、喜衛門さまに特別可愛がってもらってるからって…調子に乗るんじゃねえ! 権兵衛は捨て台詞を吐いた。こっちにゃおきぬさんがついてるんだ。

 昨日、きぬに相談した結果、「何もしないよりはええ」と答えが出た。

 ただ…賽の河原にだけはならないようにな。どこもかしこも地獄じゃけえ。どこに行っても地獄だと、地獄の前の煉獄だと、覚悟しとき。

 

 段々畑にするにしても、どうやってすんだ? おらにはちっともわからん。おらも。段々畑は見たことあるが、どうやって作ったらいいのかさっぱり。村の連中が頭を寄せて長く考えたが、いかんせん盛り土の仕方がわからず、道具も足りない。

そこへ累がやってきて、きぬの伝言だと言った。おまえら小っこい蟻よう見とけ、奴らはとても小っこいが、土のなかには細けえ穴をようけ作っとる。段々畑なんて目じゃねえ。

 村の連中は足元の蟻をじぃーっと見た。が、仕組みがさっぱりわからなかった。累はきいっとなり、おまえらよおく見とけ、蟻が運ぶんは蟻より大きいもんだ。これからおまえらが作る段々畑は、おまえらよりも大きいんだ。累はきいきいついでに言った。

 それとな、この鳥の巣を見ろ。懐から鳥の巣を出してみなに見せた。これは燕の巣だ。細かい藁を集め、泥と自分の唾を混ぜて乾かせば多少の雨でも平気だ。卵は割れず立派に雛を孵しとる。いいか、蟻の穴と燕の巣だ、ちゃんと見てみい。

 はて…段々畑にするには、まず岩を積んで藁と泥を混ぜ、隙間をふさぐ? いやいや、土も混ぜたほうがいい、そのうち草が生えて、根の部分をしっかり支えてくれる。

 累はにやっと笑った。おっし、みんな、ちっとやってみんべ! 

 仕組みがわかった連中は即座に動き出したが、上の空だった紀平はぼんやりと立ったまま、我に返ったときには累が無言で一本の切り出しを差し出した。もらった切り出しをよく見たが、何に使うか紀平にはわからなかった。そんでかよを掘んな、思う存分。累は言った。


 紀平、紀平…山の頂からかよの声がして、紀平は七曲りの山道を登っていった。初めて登る山だが、奥の道から細い光の絹糸のような筋が見え、紀平を迎えに来たようで少しも迷わなかった。人気のない小屋があり、積んだばかりの薪があった。紀平は薪に走り寄り、ひとつひとつ薪を見て選び、切り出しでかよを彫った。

最初のうちはどうしようもなく下手だった。右手で握った切り出しで左手指を傷つけた。生傷が絶えなかった。生木に血が滲んだ。途中まで掘った木を、これじゃないと放り、また薪を掴んで切り出しで彫った。

 村人たちは畑の改修に忙しい一方で、紀平は懸命に木彫りした。毎日山に登る紀平を見た村人たちは文句一つ言わなかった。

 収穫のときがやってきた。黄金色だった畑が、みるみる枯れた藁色になる。本百姓たちが集めた雑穀や米を山のようにうず高く積み、それを見た喜衛門は高らかに笑った。今年も豊作だ、来年もそうだろう。冷害続きの地方は、わしにはまったく無関係だ。収穫した米は一粒もやらねえ。飢える奴は勝手に飢えて死ね。喜衛門は石切屋に注文した大きな石柱を門に使い、村じゅうに自慢した。また喜衛門には福原右衛門(ふくはらうえもん)という計算高い商人がついており、知恵を借りて新たな蔵を完成し、これで那珂川家は永年続くと二人で喜んだ。長男の一系(いっけい)に続き、次男の千代治(ちよはる)が生まれ、喜衛門の妻・丹美(たみ)が千代治を抱いて、四人はこの世の栄華を寿ぎ大いに笑った。那珂川家は永遠に続くのだ。喜衛門は笑いが止まらなかった。陸奥の大飢饉、浅間山の大噴火も知らず、明日は我が身とも知らず。

 段々畑がぎりぎり完成した集落では思いのほか収穫が多かったが、それも本百姓たちが全部吸い上げ、名主のもとへ集まり、大名のもとへ集まり、将軍のもとへと集まった。水呑百姓は自分たちの土地がなく、収穫が多くても少なくても自分たちの手元には一切残らない。田畑を耕し穀物や野菜を育て、収穫するのは無駄だと知りながら、逃げることもできず、いまだ自分のものではない土地に縛られている。水呑百姓はどこにも逃げられない。

 紀平は黙って掘りつづけた。眉間の皺が深くなって濃い髭も剃らず、表情が険しくなり、寡黙になり、村人と会うのを避けた。小屋には彫りかけた無数の薪がごろごろ放置され、紀平は何かに憑りつかれていた。

 ごめんください、飯持ってきたで。須江の大きな声がする。紀平は作業をやめて入り口をのぞいた。須江ともう一人の娘が立ち、大きなわっぱ飯を抱えている。ほれ、紀平どんにいつか挨拶させようと思ってさ、うちの村の柴乃だ、仲良くしてけろ。須江は柴乃の背中をぽんと叩き、びっくりした柴乃は驚いて声を出した。ししし柴乃(しの)です、お昼をお持ちしました。そう言って板の間にわっぱ飯を置いて笹の蓋を開いた。弁当の中身は、大きなおにぎりふたつ、たくあん、胡瓜と蕪の糠漬け、川魚の塩焼き。

 それを見た紀平は、いきなりぐうと腹が鳴った。あらあら、と須江は笑い、これ全部柴乃が作っただよ、紀平どん、ここんとこ満足に食ってねんだろ? 元気ないまのうちにたんと食ってけろ。

 そんな…おら畑の手伝いもまったくしねえで彫り物ばっかやっとる穀潰しだによう。人の役にまったく立たん。畑の仕事は関係ねえ、仕事はしてもしなくても、生きものはみな腹減るもんだ。さ、食え食え。

柴乃は紀平におにぎりを取り分けた。おにぎりを受け取った紀平は、すぐにぱくついた。おにぎりに入った紫蘇梅が紀平の鼻と舌を刺激した。

 どうだい、うめえだろ? 須江は紀平が食べるのを見守り、柴乃は水の入った大鍋に火をつけ、大根と人参とわかめの入った味噌汁をたっぷり作った。

 紀平は久しぶりに満腹になった。気が緩んだのか、仰向けに寝転んで幸福なため息をついた。

 柴乃は明日も明後日もくるだによ。なあに、紀平どんの美味そうな顔を見守るためさ。空になったわっぱ飯を抱いて、二人は小屋を去った。

 そのうち紀平は満足のいく木彫りができた。木彫りはかよの顔になんとなく似ていた。紀平は木彫りのかよをしげしげと見つめ、切り出しで整えた。嬉しいことがあっても静かに笑っている顔は、なんともそっくりだった。かよの木彫りがいくつもでき、小屋の端っこに並べ、ときどき野花を飾って観音さまと呼び拝んだ。紀平の満足した笑顔は、やがて虚しい顔となった。柴乃は毎日弁当を持って通ったが、挨拶ひとつしただけで二人ともずっと黙っていた。やがて柴乃は気まずそうにそそくさと帰った。紀平は木彫りのことしか考えていなかった。どれだけかよに似た姿を彫っても、木彫りは木彫りでしかない。かよは死んだんだ、もう戻ってこない、かよはこの世にいないんだ。紀平の胸は虚しくきゅうっと痛んだが、涙はもう出なかった。そうか、おらのいまの気持ちは悲しみじゃなく、寂しさなんか…

 寂しさとはこうして少しずつ味わわされていくものなのだろうか。それが落ち葉のように重なり合ったら、大きな自然の生きものの仕組みのなかに組み込まれて、おらもいつの日かそんなかに吸われてくかもしんねえ。

 自分で選んだわけでもないのに、紀平は偶然かよと幼馴染となった。二匹の仔犬のようにじゃれ合い、少しのあいだともに暮らした。これが縁というものなのだろうか。紀平は不思議な思いにつつまれる。経糸と横糸が紡ぎ合い一枚の布を織るようにして、紀平とかよの人生は織り合った。しかしこれだけは言える。たとえ夫婦でなくても、かよにとって質の良い幼馴染でいたいと紀平は願うだろう。紀平はかよの人生と重なり合うことができた。その偶然にいま、紀平は心の底からこみあげてくるような深い感謝の気持ちを持っている。おらはかよに出会えて本当によかった、本当に本当に本当によかった。おらは幸せもんだ。

 紀平さん、こんにちは、柴乃です。入り口の簾をあげて柴乃が入ってきた。わっぱ飯を置いて笹の蓋を広げた柴乃は、いつもと同じですみません、と申し訳なさそうに言った。いや、いいんだ、ありがとう。紀平は初めて口をきいた。晴れた青空のようにすっきりした表情だった。うろたえた柴乃は飯を落としそうになった。紀平は手を合わせて、いただきます、と丁寧にお辞儀し、ゆっくり食べた。柴乃は台所に立ち、せっせときのこ汁を作っていた。

 …最初から思ってましたけど、紀平さんて、お優しいんですね。

 優しくなんかねえべ、ただの怠けもんだよ。そういや木彫り、やっとできたんだ。紀平は壁に並べた観音さまを見やった。柴乃も同じように見やった。

 へえ…美しかとです。こんなきれいな木彫り、初めて見ました。

 なんのなんの、手探りで彫ったまでのことよ。

 ううん、木彫りの美しさは、彫る人の美しさで作ってるんですよ。

 …おらが? 美しいだって?

 きょとんとした紀平は柴乃をまともに見た。柴乃は耳まで真っ赤に染まって台所の隅に逃げ込み、お盆で顔を隠した。なんでもないですなんでもないです、でもうちは紀平さんのこと、心が優しくて美しい人だと思ってますから…

 おら優しくもねえし美しくもねえ。さっきまで木彫りのこと考えてたんだ。津波で死んだかよのこと、ずーっと思ってたんだ。木彫りに似てますように、かよの生き写しになりますようにって。

 かよって奥さんのこと?

 んだ。死んだとき、腹んなかに赤ん坊がいた。

 …うちも十平太(じっぺいた)という夫がいました。婚礼の夜、嵐に遭った十平太は雷に打たれ、あっけなく死んじまったんです。

 …。

 うち、十平太が優しかったのかどうかわかんないの。まだそんなに親しかったわけじゃないし、うち恥ずかしがり屋だから、顔さえまともに見れんかった。死んだ後になって夫の顔を初めて見た…遅すぎたんだわ。

 じゃあ、おらの顔、よぉく見てけろ。紀平は顔を近づけて柴乃を追ったが、柴乃は盆を手にとり顔を隠し、紀平はじりじり寄って雪隠詰めにした。おらの顔よく見ろってば、ほれ。手は一切出さず、怯える柴乃を優しく見守った。柴乃は両手で顔を覆っていたが、やがて指の隙間で覗き、紀平の顔を見た。頬に飯粒ひとつくっつけた紀平はにっこり笑った。柴乃もつられて笑い、頬の飯粒をとって柴乃の口に入れ、安心して紀平の肩に顔をもたれた。紀平は柴乃の背中をさすった。

 前から思ってました。うち、紀平さんのこと、好きです。

紀平は黙って強く柴乃を抱きしめた。

 …まだ、かよさんのこと想ってるの?

 紀平は大きく振りかぶった。

 うち、紀平さんの子どもほしい。赤ん坊産みたい。たくさん産みたい!

 柴乃の帯を静かに解き、褌を外した紀平は、柴乃の奥に入っていった。柴乃は紀平を強く抱きしめた。物語の織物の、糸は一本では紡がれない。縁があれば糸は二本になり、経糸となり横糸になり、こうして物語の織物は紡がれる。


 翌朝、日の出る前に紀平は焚き火をして、観音さまを全部焼き払った。かよによく似た観音さまは、炎を浴びて静かに焼け焦げていき、黒炭へと変わり、もろくも崩れた。紀平はそれをじっと見ていた。紀平は立ちあがり、小屋に入って言った。

柴乃、おらの髭剃ってくれ。

 横になっていた柴乃は飛び起きて急いで衣を羽織った。


 …こんなんでいいの?

 紀平は剃り心地を確かめるため、手のひらを顎に滑らせた。

 ああ。

 鍬を持った紀平は言った。そんじゃ行ってくる。

 行ってくるって、どこへ?

 村の連中がいるとこ、畑さ行ってくる。

 驚いた柴乃は追いかけるようにして言った。

 あんた、弁当届けに後で行くから!

 おう、紀平は柴乃を見ずに片手をあげて言った。すがすがしい朝だった。


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2024年11月26日 10:00
2024年11月29日 10:00

煉獄の國 コンタ @Quonta

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