弐
やっと実った麦や芋が大雨で流される紀平の不安や危機の想像に重ねて、かよが津波で流される惨い現実を視た。あれは白昼夢ではない、現実だ。現実が紀平の目に焼きついて離れない。何度も視たのに涙は止まらない。いつしか涙は止んで哀しみは枯れはてた。紀平はもう何も感じなくなっていた。すでにかよのことも想い出さなくなってしまった。
紀平とかよは同じ集落に生まれ育った幼馴染だった。人懐っこくて勝気なかよが、気弱で大人しい紀平を野山に誘って遊んだ。草や花の匂いをともに嗅ぎ、雲の移りゆくさまをともに寝そべって眺めた。春になれば苺や野草を摘み、夏になれば河で泳ぎ魚を獲り、秋になれば葡萄や柿、栗など採った。
ねえ、このたんぽぽの色どう見える? 黄色だよ。黄色って? あたしが見ている黄色と紀平が見ている黄色って同じ? そんなこと考えたことねえけど、同じ色だよ。ほんと? うん。ほんとに同じ色に見える? うん同じ色。じゃあの空は? ちょっと薄青い。ほんと? うん。あの楓の木の葉は? いまは緑、秋になると真っ赤になる。その枝にいる小鳥は? 真っ白だよ。よかったあ、あたしと紀平が同じ色の世界にいる。かよは安心したように微笑んだ。
紀平、山はどんな人も入れる場所と、人は決して入れない場所があるんだよ。あたしは漆の葉が最初だった。葉に触れると肌が膨れてかゆくなんの。山が言うには、こっから入っちゃだめってこと。知ってる、おらもそう思ってた。おらはまむしに食われた。一晩熱出て翌朝けろっと治ったけど、まむし噛まれて死んだ子らもいっから気ぃつけねえと。
十四になったばかりのかよが、あたし、隣の村さお嫁行くんだ、ぽつり紀平に言った。そんなの嫌だ、紀平は最初に思ったが、あえて気持ちぐっとこらえて押し黙った。そっぽ向いたまま、いつ行くんだ、と代わりにかよに訊いた。かよはいきなりぶうっとふくれて、嫁に行くな! おらんとこに来い! って言ってくんなきゃ嫌だっ! と言い、紀平はおろおろした。かよは紀平に、あんたがいっとう好きだと言った。紀平もかよに、おめえがいっとう好きだと言った。おらんとこに来い、と小声で言った。二人は恋仲となり、夫婦となり、赤ん坊もできた――
かよの思い出が断片的に蘇る。当時はなんてことない、取るに足らない記憶だったが、いまになってみると数々の思い出話が白い雪のように音もなく降りしきり積み重なっていく。紀平は何度も思い出を噛みしめた。生きているかよの記憶が紀平の生きる糧だ。
日がとっぷり落ちたころ、百姓たちはねぐらへ戻っていった。須江と権兵衛にはきょん、さだ、きのすけという子らがいた。もちろん、亡くなった娘がいることも子らに聞かせた。その娘はお前らの姉さんだと。秋になると毎年、鉄砲水が起こった河で死んだ娘をみなで弔うのだった。
子らは紀平と一緒に挨拶代わりに遊んだ。ねぐらといっても掘立小屋で、百姓たちはみな雑魚寝をしていた。いびきや寝言や歯ぎしりがうるさくて眠れない紀平は黙って外へ出て、せせらぎが聞こえる小川のところに座って寝転んだ。風が心地よく、月や星の光が優しくきれいだった。自分でも驚いた。まだおらにきれいなものをきれいだと感じる心があるとは。この数か月、津波から逃げ、生まれた土地から逃げ、死んだかよと赤ん坊からも逃げ、哀しみも苦しみも逃げた。逃げたのにまだ追いかけてくる。逃げるのはもうたくさんだ。おらはほとほと疲れてしまった…
紀平は決して生を諦めているのではなく、生を放棄しているのでもない。肉体は此岸にいながら、心の奥深いところで彼岸を見つめている。現世を懸命に生きながら、来世へと継続してゆく希望を失ってはいない。心は疲れ切っているが、肉体はそうではない。紀平は自分の喉元に指をあてた。まだ温かい。血がどくどくいっとる。確かにおらは生きてるんだ――
なあ紀平、どうすんだ? 権兵衛と五郎助がこっそり近寄ってきて言った。丘の荒畑の件である。おらでが思うに、段々畑にするほかねえな。時間と手間はかかっけど、そのぶん収穫はもっと増える。どうすっぺか?
紀平は黙って聞いていた。二人は顔を見合わせて言った。…そうだ、初顔合わせもかねて、おきぬさんのところに行ってみっか。そうすっぺ。
おきぬさん?
ゴシ沼のはずれにあずま屋があるべ? あすこのおきぬさんだ。沼の主ともいわれとる。困ったことがあったらまずおきぬさんに相談するのがここのならわしだ。権兵衛と五郎助は、さっそく紀平をきぬんとこに連れて行った。
手入れしてない家はすぐにわかる。その家に人が住んでないこともぴんとわかる。けれど集落から十間ほど歩いてゴシ沼を通り過ぎ、あずま屋の周りをぐるりススキの穂が取り囲んでいて、入り口に手書きで「無限洞」と荒っぽく墨で書かれた板切れに、なぜか勢いを感じた。それが人かばけものかはわからない。が、紀平は生の勢いを信じた。
こんちゃす。おばあ、入るよ。権兵衛が挨拶をしたが、返事はなかった。
おばあ、まぁたススキがばけもんみたいにうわっとる。ほんま逞しいススキやで。後で手入れしてやっからな。五郎助が言った。そこへ大きな柴を背負った累(かばね)がやってきて、ああっ、ススキがまた生えてきた、さっき刈ったばっかなのに…と背負った柴を置いて鎌をとった。累は長い黒髪を垂らして片目だけ出し、少々気味悪いが、きぬの助けで一緒に住んでいる。
入り口の奥のほうから、へ、へ、へ…と唸るような声がした。建てつけの悪い戸を開いてみれば、土間にはきぬという老婆がぼろい座布団を敷いて座っている。百歳は越えているだろうか、頭には白髪が生え、口の周りには黒髭がびっしり生えている、不思議な年寄りだ。
五郎助、権兵衛、おひさしゅうござんす。死んでると思ったか? へ、へ、へ…
おばあ、まぁだ生きとったんか。もうとっくにいなくなったと思った。わはは。三人は冗談交じりに笑い飛ばした。
そちらさんは? きぬは見えない目を細めて紀平のところを指した。五郎助が答えた。
紀平といって、最近来たばかりだ。兵頭たちがさっそく新入りいじめしてるんで、ちっと見てもらえんだろか。権兵衛が魚を束ねたものをきぬに見せた。これ今朝釣ってきた。後で煮つけにしようと思って。それとも焼くのが早いかの。
ああ、煮ても焼いても刺身でも、魚は大好物だ。きぬは垂れた涎を袖で拭いた。
直立不動になった紀平は深々とお辞儀した。そんなにかしこまらなんでも…そう言ったきぬは座ったまま、ゆらゆらと身を動かした。
…紀平。最近おまえさんはとてもひどい目に遭った。そのひどい土地を棄てて、ここにたどり着いたんだのう…へ、へ、へ…
紀平は不意を突かれたような気持ちになった。そして、思わずきぬに尋ねた。かよは、かよはいま、どこに…?
きぬは目をつぶったまま、にっこり笑って言った。安心せい、おまえさんの背中にずっとおる。
そのとき紀平は感じた。透明な光になったかよが、自分の背後から包み込むようにふわりと寄り添っているのを。
はじめて涙を流した。これまで抑え込んでいた苦しみ哀しみ、故郷の喪失感、無力感、言葉にならないこまごました感情が一気に吹き出て、それを全部押し殺して嗚咽となった。紀平は身をかがんで顔を伏せた。涙と鼻水と涎が一気に垂れた。
かよ、かよ…どしておらが生きてて、どしてかよは死んだんだ。かよが死んだらおらも死んだようなもんだ。どうせならおらが死んだほうがよかった、かよに生きててほしかった。かよのいない世のなかは地獄のようだ。なのにおらは、おらは…
…紀平、あたしのことなら大丈夫だよ。あたしはいまきらっきら光る大っきな原っぱにいて、あったかいお陽さんのそばにいるから安心して。いつも紀平を見守っとるから。赤ん坊も無事生まれたよ。ほら。
きぬの声は、いつの間にかかよの声になった。紀平の目には幻の赤ん坊が元気に笑っているのが見えた。
紀平は自分の意識が変化するのを感じた。きぬの声が、もしかすると死んだかよの声かもしれないと耳を傾ける。人は理性的に生きているつもりでいても、危機に陥れば理性の回路は壊れ、感情によって理性が緩んで隙間が生じることがある。その隙間から、理性や日常における知覚の範囲を超えた異なる要素が侵入してくる――
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