煉獄の國

コンタ

――なき人の来る夜と聞けど君もなし わが住む宿や魂なきの里

                              和泉式部


 桜もすっかり葉桜となった遅い春、常陸からやってきた紀平(きへい)は安房にたどり着いた。翌日、同じ長屋に住む水呑百姓・五郎助(ごろすけ)に聞いて、さっそく畑を耕そうと道を歩いた。初めて見る土地は、なだらかな丘全体が浅い柴、深い柴、輝く柴、影の柴、柴紺、江戸柴などの群落である。紀平は丘の前に佇んで、ただひたすら柴色を見つめ続けた。すると柴色の陽炎がゆらゆらと立ち上ってゆくのが見えた。

 のぼるにつれて柴色が薄れてゆき、しだいに脱色されて透明になり、空の高みへ溶け込んでゆく。妻・かよが地上での生を終えて、そののちどこへ行ったのかと紀平は探していたが、かよは柴色の陽炎のように、しだいに脱色され浄化されたのだ。地上でのすべての汚れも哀しみも過ちも許されて、無色透明なやわらかな発光体となって漂い、この地上に光を送ってくる。

 闇はなく、苦楽もなく、夫も妻もなく、女と男、動物と人間、すべては消し去られ浄らかな霊性のみがそこに存在するのを、紀平は感じていた。

 おらもやがてこの世のぜんぶ脱ぎ捨て、霊魂だけの存在になるんだろう。地上の名残りは惜しいけんども、次の備えのなかに入ってゆくことも哀しいことばっかじゃねえ。そう紀平は思った。

 聞いていた畑にたどり着き、ひび割れて乾ききった土に紀平はせっせと鍬を入れた。ここ数年、畑は手つかずで、荒れ地になっていたのだ。集落の人の数もそう多くない。ここでも不作や飢饉、疫病、災害でも遭ったんだろうか。もしそうだとしたら、哀しみや苦しみが浄化された後の土地は、穏やかで静かなものであろう。

 はよう、精の出るごったね。隣の畑に五郎助がやってきて、笑顔で紀平に声をかけ、鋤で浅く土を掘り返した。

 いやあ、ゆんべは寝られんでね、ごろごろしてんよりゃはよ畑さ行ってみよと思って、と紀平は同じく笑顔で返した。

 おめ昨日着いたんだべ、ゆっくりしとけれや。おらでが急いでもおてんとさまはそう簡単に芋や麦の芽を出さねっがらさ。

 そうは言ってもなあ…紀平は手を動かしながら俯いて言葉を濁した。身体を動かしていないと頭だけが働きぐるぐる空回って気がおかしくなる、紀平はひとり胸に言葉を秘めていた。この思いは墓場までもっていこうと決意した。

 あれから何か月経ったのだろう。あの朝、大きな地震がぐらぐらっと来て、畑仕事をしていた紀平たちは急いで天神平の高山にのぼったが、身重のかよはそう歩けない。大八車もないし、ひとりで歩くしかなかった。急いで歩いたらお腹の子どもがつるんと出てきそうで、かよの胸も腰もひどく痛むし、どうしていいのか誰もわからず、ただ指をくわえて見守るばかり。高山から下りた紀平は、かよの肩や背中を支えて急ぐ。やがて海の向こうから真っ黒い津波がぬらぬらやってきた。

 あたしもうだめ、胸もお腹も苦しい。かよの歩みが止まった。なにばかなこと言ってんだ、はよ歩け、紀平は優しくせかしたが、かよの脚から血が流れるのを見て、こりゃあ大事になった、と肝を冷やして立ち止まった。

 津波は力強く静かにやってきて、陸にあるものすべてをごっそり奪っていった。漁船も、二艘の小舟も、舵も、網も、家々も、畑も、枯れ木も、野菜も、麦も、逃げ遅れた集落の人々も、かよも、生まれてくる赤ん坊も。

 助けて! 助けて…振り返った紀平とかよの目が合った。合った目が黒い津波に飲まれて覆われ、二人のあいだは隔たれて、一瞬にしてかよは消えたのだ。なぜ紀平はかよの手が離れたのか記憶もなく、まったくわからなかった。もっとしっかり握っていれば、かよは助かったのかもしれん。周りの人々に助けられた紀平は高山に戻って座り、荒れ狂う海をぼんやり見つめていた。あれからかよの姿はもう見えない。亡骸にも逢ってない。ああ、おらはなんて莫迦なことしたんだ…。

 土地を耕していた紀平の目に涙がぽろぽろこぼれ、乾いた土に落ちてみるみる染みこんでいく。涙や鼻水が垂れるのもかまわず、紀平はひたすら耕し続けた。

 紀平の様子をじっと見ていた五郎助は、おめ見かけね顔だけんど、どっから来たんだ、もしかして常陸か、と聞いた。紀平は黙って頷いた。そっかあ、常陸かあ、ここ半月ほど大っきな地震と津波が遭って、命からがら逃げてきた連中が大勢いてな。おめだけじゃねえ、生きてるもんはみな苦しみや哀しみ背負ってるんだ。死んだもんのぶんも生きろってよ。

 生きてる者は、みな苦しみや哀しみを背負っている。五郎助の言葉が紀平の胸のなかで繰り返された。五郎助もまた生き別れ死に別れの哀しみがあったのだろうが、胸のなかでは同じように響くところと、はねっ返すところとがあって、紀平はずっと沈黙していた。

 五郎助の妻・須江(すえ)と権兵衛(ごんべえ)がやってきた。おうい、弁当持ってきたぞ、腹減ったろ。五郎助は腰を伸ばし、そろそろ休みにすっか、鋤を畑に置いて、須江と権兵衛のところへ行った。

 笹の葉に包まれた弁当を開いて、五郎助は喜んで言った。おお、今日のおにぎりはでっけえなあ、蕗味噌が旨い。おい紀平、こっちこいって。

 紀平はまだ土を耕していた。固く干上がった土は耕せば耕すほど柔らかくなり、空気が含まれてモグラやミミズが住めるようになる。痩せた土地を豊かにするのは百姓の手だけではなく、あらゆる生きものが土のなかで暮らせるように、祈りもまた必要なのだ。

 なぜ、なぜ、なぜ。なぜおらは生きてるんだ。かよが死んでこんなに辛いのに、おらとかよが生まれ育った土地を逃げ、家も畑も失い、おらはなぜたったひとりで生きてるんだ。おらにはわからん。誰か教えてくれ。耕しても耕しても答えは見つからん…。

 おおい紀平、全部食っちまうぞ。五郎助の言葉を無視していたわけではないが、紀平は無我夢中で土を耕しており、気づくと三人の弁当が残り少なくなっていた。答えが出ないまま紀平はようやく鍬を下ろし、二人のもとへ行った。

 ほら紀平、でっかいのとっといたぞ。今日はまだ食ってねんでねえの、おにぎりを食べながら権兵衛が言った。

 紀平が大きなおにぎりを掴んで食べると、摘んできた色とりどりの野花が地面に敷かれ、そこに小石を高く積み、その上の固まった米粒が目の前に見えた。これは、卒塔婆…紀平はそっとつぶやいた。

 これか。おらのかあちゃんのぶんだ。権兵衛が言った。おらのかあちゃんは大したもんだ、朝から晩まで働いて働いて、病であっけなくおっ死んだ。

 五郎助はおにぎりを食べ終え、須江の顔を見て言った。おらは娘のぶんだ。娘さ去年の鉄砲水で流されどっか消えた。今年で十二。どっかで生きとる、おらではそう信じとる。こうしておにぎり分けておくと、娘も一緒に食ってるような気ぃするんだ。

 あんた、なあにかっこつけてえ。須江がくすくす笑った。あんときあんた娘ば探しに探して泣き喚いとったんと違うか。ばかこけえ、死に物狂いで探して最後までいなかったら、あっさり諦めとるわい。

 須江は憮然として言った。絶対おらは諦めてね。いつか娘に会えると思っとる。すでに子ら三人いるけんど、娘もそろってまた会えるって。四人は黙って飯を食った。

 そっか。身内ひとりの死をどう見つめるかはそれぞれ違うんだ…。紀平は胸のうちにつぶやいた。おれはかよを…まだ諦めたわけじゃねえ。かよが津波に飲み込まれる場面を、紀平は目をつぶって頭を横に振った。

 ようあんた、常陸から来たんだってな。おらも生まれはそん近くだ。よっぽどんことがねえ限り、百姓は土地を棄てて逃げんことはねえべ。借金で夜逃げか? 名主がひどい意地悪したんか? おらでの名主も意地悪に違げえねえが…。

 紀平は食べかけていたおにぎりを止め、また俯いた。

 無理に話すことはねえ。でもな、おらでは紀平どんの胸の痛みをわかっとる。話してえときがあったら、いつでも話してくんろ。須江はそう言い残して、五郎助の後についていった。

 権兵衛は自分の畑を耕し、五郎助と須江は桶をもって近くの河へ水汲みに行った。ここには柔らかで温かい空気が漂っている、まるで死んだ者たちが生きている者たちを見守るように。

 哀しみがふいに紀平を襲った。どしておらが平気で生きてて、あんときかよは溺れて死んだんだ。かよが死んだらおらも死んだようなもんだ。おらひとりで生きてて何か楽しいことってあるもんか。どうせならおらが死んだほうがよかった。かよがいない世のなかは生き地獄だ。一生おらはひとりぽっちだ。これ以上生きたくねえ。

 蕗味噌入りのおにぎりをもった紀平は、あまり食欲がない。けど食べないと覇気のない自分まであの世に行っちまうと思い込み、無理矢理おぎにりを頬張った。

 …んめえ。米の甘みと蕗のほろ苦さ、味噌のしょっぱさ、後から鼻にくる、何とも言えない香ばしさが合う。一口噛んでは味わい、噛みながら味わいながらもつるりと喉へ通っていった。紀平はおにぎりをまた一口噛み、同じことを繰り返した。あと一口になり、あっと紀平は気づいた。かよのぶん残さねえと。ほら食え、たんと食え。うめえがら。

 そこへ乃進(のしん)と兵頭(ひょうず)がやってきた。二人は広い土地を持った本百姓で、五郎助や権兵衛のような水呑百姓とは違い、大威張りだった。

 やいやいっ、てめえは昨日きたばっかの奴じゃねえか、なあにのんびり飯食ってんだ、いそがねえと日が暮れちまうぞ、さっさと仕事しろっ。二人は紀平を睨んだ。

 黙ってお辞儀をした紀平は最後のおにぎりを飲み込みながら、鍬をもって畑を耕しに行った。

 あほうっ、おめえの畑はそっちじゃねえ、ここって言ってんだろうが。紀平が振り向くと、そこにはいっとう荒れ果てた土地があった。平地ではなく丘のように斜めになっている。指さした乃進はにやにや笑っている。兵頭はさっきまで紀平が耕した土地に堂々と種を撒いていた。水汲みに戻った五郎助と須江が、いきなり兵頭に怒鳴られた。おうおうっ、一番先はおれさまんとこだ、最初におれの畑に水を撒け、わかったな。

 紀平は丘の荒れ畑をじっと見た。誰も手をくわえてない。それもそのはず、このような丘の土地では、水をやると肥料が流れ、収穫がほぼないと聞く。その土地を、おらが耕して半年あまり世話するんだ。先は見えてるのに…いや、いまやらねばならぬ。紀平は鍬をぐっと持った。畑を耕す五郎助と水をやる権兵衛と須江が、何か言いたげにちらちらと見ている。

 何も考えねえ、何も考えねえ。一生懸命耕して、せいぜい花実はつけようとも、いざ収穫のときには大雨で流れちまう。おらの荒れ畑も兵頭どんの畑も同じ、大雨に流されちまうんだ…。

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