第三幕 伍
「たとえば」
握手を求めるように右手を伸ばす。その先にあるクレアの左胸に手を突っ込み、脈打つ塊に触れる。うわ、これ意外と気持ち悪いな。
「こうして心臓にじかに触れることだってできる」
そんなことはおくびにも出さずに言い放つ。久しぶりに道具扱いされてむかついたのだ。これくらいの意趣返しはさせてもらいたい。
クレアの顔から血の気が失せ、呼吸が止まる。恐怖からか心臓が早鐘を打っている。
「だ、駄目、駄目だよムラマサ!」
アリシアが儂の羽織を掴んだ。
「殺しちゃ駄目! お願い、放して! 殺さないで!」
「…………」
儂はわざとアリシアを一瞥してから、クレアを解放する。ずるりと手を抜くと、クレアはその場にへたり込んだ。
「ブラント曹長!」
座り込んだクレアにラルフが寄り添う。呼吸の仕方を思い出そうとしている彼女の背を何度も撫でる。
嗚呼、気持ち悪かった。
「……で?」
感触を振り払うように手を振りながら、儂はアリシアを見た。
「どうする、アリシア? お前さんはどうしたいんだ?」
そう。まだ何も決まっていない。
今までは軍の命令に従っていた。アリシアはその中継地点に過ぎなかった。
だが今は違う。
マイルズに支配されている上層部からの命令は意味を成さない。儂自身、マイルズに一泡吹かせてやりたいと思っていなくもないから、挑むのはやぶさかではない。ただあまりにも危険なのだ。
アリシアの意見一つで儂は帝国の敵にも味方にもなる。
ここが分岐点だ。
どうする、アリシア。
「わたしは……」
アリシアが目を伏せる。羽織を掴む手が震えている。迷っているのか。
「わたしは、マイルズが許せない……。街の人たちをあんなに怖がらせて、お父さんや、いろんな人たちを酷い目に遭わせて……。でも、どうしたらいいのかわからないの。まともに戦えないわたしが足手まといになって、ムラマサたちを危険に晒したくない」
どうしたらいいの、と消え入るような声でアリシアは言った。
そういうことか。ちらとクレアとラルフを見やれば、二人も互いに目配せをしていた。
アリシアの髪をぐしゃぐしゃと撫でてやる。困惑した顔でこちらを見る彼女に儂は笑いかけた。
「つまり、マイルズを倒したいってことだろ?」
「そ、そうだけど……」
「十分だ」
腹が決まればこっちのものだ。
「さっきも言っただろう? お前さんは儂の主だ。主は後ろで構えていろ。実際に行動するのは儂だ」
「でも……」
「今までと同じだ。前線に出て力を発揮する儂と、後方で情報を集め、支援するアリシア」
しかもアリシアは儂の活動の要だ。戦いになったらマイルズは必ず狙ってくる。
「元帥たちから時間はもぎ取った。作戦を練る時間は十分にある」
「…………」
アリシアが目を閉じ、深呼吸する。
次に目を開けた時、まっすぐ儂を見据えて言った。
「マイルズを倒したい。ムラマサ、お願いできる?」
儂はアリシアの手を羽織から外すと、仰々しく片膝をついてこうべを垂れた。
「我が主の仰せのままに」
次の日、儂らは全員で軍内部の図書室に入り浸っていた。
「ほい、七番の棚の最上段にある魔法全集一覧だ」
「ありがとー」
十人分の椅子を備えた長机には、大量の本が所狭しと積まれている。
そのすべてが魔方陣の記された本で、アリシアはその図案がある
事の発端はアリシアの一言だった。
「なんか、気持ち悪い」
上層部に用意させたニルウェルの地図を全員で睨んでいた時だ。城塞都市として発展したニルウェルは、防壁で街をぐるりと囲んでいる。出入りできるのは北と南に設置された二つの関所だけで、他から侵入しようものなら見張りの矢が飛んでくる。
街の中も貴族街や商業街など区分けされている。だがどこも複雑に入り組んでいて、下手をすれば地元住人も迷子になりそうだ。ちなみにマイルズの根城である市長の屋敷は貴族街の少し奥にある。
たしかに妙なところに建物を配置していて、もっと上手い区画整理ができるだろうにと思ったが、アリシアの視点は違った。
「ほら、これって魔方陣みたいじゃん。ここだけ空白地帯なの」
そう言って紙に描き出されたのは、簡略化されたニルウェルの街。余計な記号を取り払い、防壁の中に描かれたのは複雑に絡み合う道。浮かび上がったものを見れば、なるほど魔方陣に見えなくもない。アリシアが示した空白地帯も鮮明になった。
「たしかにそれっぽいけど……。ここに何が入るの?」
ラルフが問う。
「わからない」
アリシアの即答に膝から崩れ落ちそうになった。
「でも、たぶん探したら見付かると思う」
……というわけで、アリシアは朝からずっと魔方陣を眺め――もとい、探している。元の図案は頭に入っているらしく、およそ読んでいるとは言い難い速度で頁を繰っていく。その集中力は刺繍の時とほぼ変わらない。本の山が順調に消えていき、また新しい本の山が積まれていく。
食事などで席を離れなければならない時は、感覚を繋いだ儂が代わりに本を読んだ。頁をぱらぱらとめくっていくだけの単調な作業は欠伸が出そうだったが、アリシアが頁に振られた番号まで覚えているから読み飛ばしもできず、たまに手が止まっていると小声で注意された。
時間がかかると踏んだラルフが夜間利用の申請を出し、同時に特別閲覧室の利用も申請した。
特別閲覧室とは、名前の通り特別な場合においてのみ利用できる書架だ。主に禁忌の魔法を記した魔導書や古代の危ない儀式などについて記された本が置かれている。蔵書の内容が内容なだけに、申請から許可が下りるまで時間がかかってしまうのが今はもどかしい。儂ら魔剣の製造方法を記した本もこの中に入っているが、残念ながら壊し方までは載っていない。まあ壊せるならとっくの昔に壊しているが。
そうして丸一日かけて普通閲覧室の魔導書をほとんど読破したアリシアだったが、空白地帯を埋める魔法は見付からなかった。
「さすがに今日はもう遅いわ」
クレアが懐中時計を見た。時刻は午前一時を回っている。見回りの兵以外は寝静まっている頃だ。
「引き上げましょう」
「うん……」
眉間にしわを寄せたアリシアが頷く。眠いのを我慢している時の癖だ。根を詰めすぎた自覚はあったらしい。
「儂が全部戻しておく。お前さんたちはアリシアを送ってくれ」
「わかりました」
棚に戻していない本がまだ十数冊とある。何度も欠伸をするアリシアを連れた二人を見送って、儂は本を手に取った。
明るいうちから積んでは戻してを繰り返してきたが、その作業が終わるとほっと一息つく。このまま戻るのも面白くないから、気晴らしがてら見回り当番を驚かせに行こうか。
どんな方法で驚かせようかと考えを巡らせる中、近付く靴音を聞いた。さっそく来たか? いや、それにしては足取りに迷いがないし、靴音が重い。
立ち止まってやり過ごそうとしていたが、なんと靴音の主はこちらにやって来た。
「ああ、ここにいたか」
灯りを手にこちらを見やったのは、ワイズ元帥だった。
「……なんでここに?」
軍の頭であるこいつが、こんな夜中に来るなんて。しかもあの口ぶりだと、目的は儂なのか?
「いや何、君と話をしたくてな」
そう言いながら、こちらの承諾もなしに手近な椅子にどっかりと腰を下ろす。手で向かい側の席を勧められ、仕方なく座る。拒否権はないようだ。
「……で? 用件は何だ?」
ただのお喋りをしに来たわけじゃないはず。長ったらしい前置きを挟ませずに促せば、元帥はゆっくりと頷いた。
「…………マイルズについて、知りえるすべてを伝えに来た」
儂は目を見開いた。欲しいと思っていたものが目の前に現れたのだ。願ってもいないことだが、すぐに飛び付けるほど甘くないのもわかっている。
「なぜだ? 何が目的だ?」
あくまでも儂は魔剣だ。実際に動くのが儂だとしても、儂に話して一体何の利益があるのか。そしてマイルズの傀儡(かいらい)になっているこいつがこの情報を漏らしても構わないと思えるほどの魅力がどこにある?
「マイルズから連絡がきた」
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