ⅩⅢ
神田和様
長いこと報告の不義理をしていて、誠に申し訳ありません。結論から申しますと、私は精神科医として、木村聡さんという患者さんの診察・治療に、完全に失敗しました。これは私の敗北宣言です。遺書ともいえるかもしれません。
木村聡さんは木村聰さんのご子息であり、成人になるまで神田さんがご子息の保護者になるという遺言でした。遺言の理由は、おそらく木村さんがご子息を生きた貨幣として神田さんに委ねることだと推測します。言葉は不適切かもしれませんが、ご子息は生贄であり人身御供であるといえましょう。
聡さんは、幼少のころから(七歳〜聰さん死亡まで)父親の總さんに性的虐待を受け続けておりました。その内容は、口腔性交、肛門性交、緊縛、言葉攻め、爪と指の間に針を通す、蝋燭の火で腕や脇や股の内側を炙り、全身に蝋を垂らす、天上から身体ごと吊るしてむち打ちする、首を絞めて窒息寸前まで意識を失くす、乳首を火で炙る、ゴキブリやスズメバチ、野ネズミを食べさせられ、放尿して飲ませる、糞をひり出して食べさせるという、尋常ではないあくどい行為でした。母親の悠紀子さんは、消極的共犯者でした。聡さんの顔についた排泄物や精液を拭ったり、背中の傷を止血して治療するなどしていましたが、虐待をやめさせることは一切しませんでした。
木村さんもまた木村家の長男として、代々性的虐待の被害者であり、結婚して聡さんが生まれると、今度は加害者として性暴力のループに入ってしまいました。木村さんはおそらく性的虐待の恐怖の記憶が拭えず、何度もトラウマの再現をして、被害者としての恐怖の記憶を、加害者の記憶として懸命に塗り替えていたそうです。木村さんは聡さんを虐待しながら、「俺を殺してくれ! 頼む!」と号泣し、幾度も懇願しました。「聡もいずれ本家から許嫁とされる嫁と結婚し、子どもが生まれる。その子どもが男であれ女であれ、聡は間違いなく性的虐待をするだろう。木村家の長子は淫売の呪いに憑かれ続けるんだ!」とも言いました。
木村さんは、木村家の血の呪いを払拭しようとして、神田さんが聡さんの保護者となるように遺言しました。私の見解としては、このような処置はもはや手遅れと存じますが、たとえ宗教の力(浄化作用?)を借りても呪いは解けなかったと考えられますし、カウンセリング療法も無意味だと存じます。現代の最新精神医学をもってしても、いまだ力不足です。本当に申し訳ございません。
と申しますのは、私が聡さんをカウンセリングした手法もまた、聡さんを性的に陵辱して虐待の記憶を白状させる方法でした。そのように聡さんと私とで取引しました。聡さんが唯一個人的な告白をすることができるのは、性的関係を結んで親近感と安心感を得られる方法でラポールを形成するしかなかったのです。その方法は徐々にエスカレートしていき、私は肉欲と支配欲をコントロールできず、それらに溺れて、私の愛娘たちにまで性的虐待しようと思いました。怖くなって仕事も生活もままならず、家庭崩壊の危機を感じました。けれども私は、どういうわけか聡さんを治療中止にすることもできませんでした。
不甲斐なく、臆病で優柔不断で、無力な私をどうか許してください。この遺書を書き終わった後、私は必ず死にます。私は聡さんの話を聞きながら、地獄の門が開くところを見てしまいました。生きることは本当に恐ろしい。私一人ではなく、私の家族たちにも依頼者の神田さんにも深刻で重大な被害が広がる前に、私は死ななければならないのです。
二〇二四年九月一〇日
本間哲哉
息子が読み終わり、手紙を渡した。
「本当だったでしょ? 僕、嘘つかないからね」
「どうやってお父さんたちを殺したんだい?」
「僕、父さんの車の構造をよく知ってるから、車をいじったとバレないようにうまく調整した。ブレーキフルードに、ちょっと水足しただけ。完全犯罪だよ」
「なるほどね」
「本間先生はね、これを書いた後で、僕が『窓から飛び降りろ、証拠はあるから家族に訴えるぞ』って言ったら、ほんとに飛び降りちゃった。精神科医なのにメンタル超弱いんだから」息子は乾いた笑いを笑った。
世界の歴史は、国家間の侵略と抵抗の歴史であり、植民地と宗主国の歴史だ。強いものが生き残り、弱いものは滅びる。家族もまた、強者と弱者、支配者と抵抗者のコンフリクトの連続である。どちらにしても、生きるために殺し殺されるのだ。そして、生き延びた者が勝ち、死んだらすべて終わりで一切は無になる。記憶も、生きた証も、財産も、大文字の歴史も小文字の歴史も。俺は全部やめようと思っている。もうたくさん。もう見たくない。
「神田さんのお爺さんも、僕が殺したことになるのかな」
息子が爺さんのホームをときどき訪れていたことを俺は知っていた。そこで息子が爺さんにしていたことも、いまなら想像できる。息子は親しくなるために、手始めに自分や相手の性器を弄ばせ、性的快楽に味を締めた相手は、まるで猿のマスターベーションのように、死ぬまでペニスを勃起し射精し続ける。爺さんの悦びが息子の喜びである。やはり狂っているとしか思えない。表は可憐な美少年だが、美少年ゆえに身体を蝕まれ、心も浸蝕された。これは息子の運命か、俺の運命か、木村と出会った俺たちの運命なのか。
施設の介護職員の、困惑した表情を想像する。これが未来の自分の姿だと嫌悪するに違いない。息子に悪意はないと思うが、この地球全体を考えると、確実に悪意は存在する。しかし、誰も悪意が取り憑いていると思わず、取り払うこともできない。宇宙は悪意に満ちている。呪縛している。
「爺さんは寿命だったんだよ。君は悪くない、君は誰も殺していない。誰も恨んでなんかいない」
「よかった」
海を眺められる絶景のなかで、俺は車を停めた。俺たちは全裸になって抱擁し、挿入し、互いを貪った。息子は灼熱の太陽になって、俺の腹をじりじりと灼いている。『太陽肛門』のタイトルが浮かんだ。ジョルジュ・バタイユ。あの変態野郎め、クソ大好きだったよ。
どんなに卑猥な声で叫んでも、あられもない格好になっても、誰も見ていない。もし人間が見ていれば、俺たち二人はとても愚かで滑稽に映っただろう。それは俺たちに限ったことではない。人類の性交渉は愚かで醜悪で滑稽なものだ。見ているのは、人類を死なせるくらい無駄で膨大なエネルギーを解き放つ、あの太陽だけ。俺たちはすっかり解放されたのだ。
ありとあらゆるセックスを堪能し精も魂も尽き果てたころ、肉欲と血の祝祭は終了した。あとは気だるさと静けさ、物悲しさがやってくる。俺たちはもう笑ってないし、泣いてもいなかった。ただ虚無感、虚脱感が襲ってきた。このまま自宅に帰るのか。俺は回り道をして時間稼ぎをした。息子もすでにわかっていた。そういう霊感があった。
「僕、もうひとつ言っておきたいことがあるんだ」
「なんだい?」
起き上がった俺は息子の顔を見た。彼の顔は動かなかった。
「僕ね、学校の貯水タンクに、ちょっとずつ血を混ぜていたの」息子は左手首の傷痕をじっと見た。
「…いつから?」
「入学してからずっと。あいつら、おっかしいんだよ? ぼくのことエイズだエイズって囃し立てるから、もう可笑しくって。エイズになるには、まずHIV感染があって、無症候性のキャリア期っていうのを通って、それからエイズにかかるんでしょ? あいつらエイズとHIVの区別もつかない莫迦な連中だよ。みんな死ねばいいんだ」
息子は黒革のシートに寝そべり、身体と角度が合わなくてリクライニングで調整した。
「HIVはヒト免疫不全ウイルスで、エイズは後天性免疫不全症候群。病原菌と病気の症状では名称がまったく違うね」
「さすがパパ、よく知ってる」
「MSM(Men who have Sex with Men)、男性の男性による性的接触でいまも感染可能な病気は、B型肝炎、C型肝炎、梅毒、その他ヘルペス。手足口病は…俺は子どもがいないんであんまり関係ないかな。最近ではエムポックス(サル痘)もいずれパンデミックになるとWHOでは緊急事態宣言を出して警告している。でもHIVよりももっとも恐ろしいのは空気感染だよ。Covid-19なんか息するだけで感染して死に至ることが多い。肺呼吸する生物の弱点というか」
息子はシートに埋まったまま言った。シートは息子の棺桶のように見えた。
「この前まで、死んでしまいたい、辛くて辛くて消えてしまいたいって思うことが何度もあった。でもいまは平気。底抜けした、一線を越えたんだ。やられたらやりかえせ、目には目を、歯には歯を。復讐が重要だ。僕、エイズだって言われても全然平気だよ。僕の血は汚れてるんだ。エイズの「ゼロ号患者」ガエタン・デュガのように、僕が生きてるあいだ、この病気を世界中に蔓延してやる。まさかこの年になるまで生きられるとは思わなかった…」
息子は急速に進化していた。――どんどん強くなってやるから、どんどんいじめてくれ、どんどん攻めてくれ、どんどん攻撃してくれ、どんどん排除してくれ。それ以上に僕は強くなってやるから――。
道は真っ直ぐで、対向車はなかった。俺は息子の顔を見ず、一点透視図法の消失点から目を逸らさなかった。
「それで、お前の血を混ぜて学校中パンデミックにしたんだね。何に感染するのか、自分は何の病気なのか、時間が経って調査してみないとわからないから」
「早い人で、発熱したり、食欲不振になったり、嘔吐したり、とにかく疲れやすいって保健室に行く人が増えてる。廊下ですれ違うとき、目が黄色く濁った学生たちもいる。たぶん肝臓の病気。そのうち一〇代で死ぬよ?」
いままさに学校の水道水が汚染されているのに、その学校ジェノサイド計画を息子は淡々と語った。俺もまた、海の向こうの戦争のように静かな気持ちで眺めるように聞いていた。
「肝臓は“沈黙の臓器”といわれてるからな」
他人事のように俺は言った。その声は諦めが響いていた。息子は、まるで漫画かテレビドラマの盛り上がるシーンを再現するように、無邪気に答えた。
「遅ければ遅い人ほど症状は深刻だよ。放っとけば、自覚症状がないまま病気進行があって感染はますます広がる。慢性肝炎、肝硬変、肝臓がん。全部“死に至る病”、全部地獄へ道連れ。ざまあみろ!」
「俺も道連れのひとりだな」
「パパは特別な人だよ…」
息子の手は俺の膝に置かれ、静かにもたれかかった。ちょうど夕日が沈むころで、俺はサングラスをかけた。
「まぶしいの?」
「ああ」
「なあんだ。ちょっと期待したのに。でもまさかパパが泣くわけないと思ったんだ」
息子は俺の顔をじっと見て、俺の頬と首筋にキスした。
「パパが僕の保護者になる理由は? 父さんから聞いたの?」
「いや、聞かなかった。でもその理由は俺にはわかっている」
今日、ちょうど木村夫妻が事故死した日だ。息子の十四歳の誕生日に木村が死んで、息子の十五歳の誕生日には、俺たちが死ぬ。
「君のお父さんの伝言だ。これ以上、君を生かしておくわけにはいかない。が、お父さんは君を殺せなかった。君は正真正銘の、木村家の長男だからだ。でも俺は、君を心から愛している、本当に愛している。だから殺すんだ」
息子は泣きながら言った。
「いいよ。僕、パパとなら死んでもいい。殺してくれて本当にありがとう。パパとなら、この腐りきった世界にさよならを言えるから」
いつしか陽は落ち、真っ赤に燃えた夕焼けが地平線の彼方に見えた。崖の下には溟い樹海がある。苦悩に痛めつけられた情動と価値の下落した言葉からなるこの無人の地(ノーマンズ・ランド)は、どれほど死んでいようと神秘の究極に達さんばかりだ。俺は息子に最期のキスをしながらアクセルを勢いよく踏んだ。二人を乗せた燻し銀のオープンカーは一瞬の跳躍を見せ、やがて奈落の底に堕ちるだろう。天上にいる美しい魔少年を、地獄の門に送るため。死んだ父親は笑いながらそれを受け止めていた。
白鳥の歌が聴こえる コンタ @Quonta
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