第15話 合唱コンクール

 

 この学校には、天使がいる。その噂は、台典商業高校の一年生を中心に爆発的に広がり、レクリエーション合宿でその天使とやらの存在は確かなものとなった。崇めるべき偶像を見つけた生徒たちは、たちまち噂に尾ひれを付ける。その背景には、天使の噂を都合の良いように利用しようとする生徒の影響もあったが、少なくとも、天使自身はいつも通りに生活を続けていた。


 そんな高校において、天使の噂の一番の苦労人となってしまったのは、やはり、天使の所属する普通科一年二組のクラス副委員長である針瀬福良である。


 合宿を経て、一年二組は全体として、ぼんやりとではあるが天使への態度を決定した。それは彼女がただのクラスメイトである、ということだった。天使の持つ魅力も、有害性も、まっとうに評価し、対等に接する。周りからの評価が熱烈であった分、クラスメイトとしては冷たすぎるようにも見えたが、それが天使にとっては良い環境なのだと考えた。


 針瀬にとっては運の良いことに、合宿後は前ほど天使目当ての生徒は訪れなかった。それは、天使を餌に学内風紀を正そうとしているという噂や、実は天使は美人局で、着いていくと鬼のように体育教師に叱られる、といった噂の影響であったかもしれないが、熱心にそうした噂を覚えていない針瀬にとっては、とりあえずの平穏が珍しくもありがたかった。

 しかし、それで心労がなくなるわけではなく、むしろ、現在は新たな問題と向き合っている最中であった。


 それは合唱コンクールだ。


 台典商業高校では、六月末に行われる文化祭において、一年生は合唱コンクール、二年生は教室展示、三年生は舞台発表を行うのが恒例だった。一年二組も当然、合唱を行うことになるのだが、針瀬には憂いがあった。






「それじゃあ、うちのクラスはこの曲に決定で」


 針瀬は所定の用紙に楽曲名を記し、天使にクラス委員長の記名を促す。天使は、いつもよりかは落ち着いた様子で名前を書いた。お転婆なようで字もきれいなところに、どこか育ちの良さを感じて胸がざわつく。


 一年次の選択授業で、針瀬は音楽を選択していた。書道はいまさら授業でやるのは退屈だったし、美術というのは苦手だった。現在も週に二度受けているその選択授業は、天使も受けていた。彼女には、素直に認めるのは癪だが、様々な楽器に才能がある。プロ並みとは言わないが、人並みになるまでの習熟速度が速いのだ。つまり、授業では高評価を受けやすい。


 しかし、こと合唱という一点については、彼女の不得手な分野であった。なぜなら、彼女は目立ちすぎる。ソプラノもアルトも歌いこなせ、練習次第では高校の合唱でならテノールでも起用できるのではないかという、合唱をするには素晴らしい人材の天使だが、いかんせん、どのパートに入れても彼女の色に染まりすぎる。あまりにも芯が通り過ぎていて、他の声がかすんでしまうのだ。


「それじゃあ、パート決めは――」


 故に、愛ヶ崎天使を何としてでも、歌わせないようにしなければと、針瀬は強い意志を持って、この場に臨んでいた。のだが――



「——ボク、ピアノやりたいんだけど、いいかな?」


 クラスメイト達の顔色を窺うように、遠慮がちに天使は手を挙げた。予想外の提案に、クラスがしんと息をのむ。


「あ、その、他にもっと自信のある人がいるなら、全然いいんだけどさ」


「いや、大丈夫だと思うけど……大丈夫?」


 針瀬が一応クラスメイトに確認の目線を送ると、反対する者は誰もいなかった。




 そうして、じゃんけんで指揮者を決めて、合唱の練習が始まった。じゃんけんで決めたのは、天使と交流の多くなる役割を、自分から立候補したとは思われたくないという総意からだった。


 放課後、天使は音楽室へピアノの練習に向かい、教室は肩の力が抜けたようにだらりと練習を始める。基本的には、配布された楽譜をパートごとに歌いこむというだけのことなので、これといって問題もない。

 しばらく練習した後、部活動に所属している生徒が抜ける前に、全体で合わせて練習する。こうしていると、普通の高校生で、普通のクラスだなと、針瀬は思った。別に普段が何か変だというつもりもないのだが。




 一週間ほどそうして練習し、総合学習の時間を使って予行練習のつもりで体育館を使用する。他のクラスも同様に体育館の予約をしているため、二三度通しで歌うのが限度だ。


 指揮者が大きく手を回し、開いていた手を顔の前で握る。天使も鍵盤から手を離し、両の手を太ももの上に置き、指揮者と合わせてホールの方にお辞儀をする。針瀬は、悠々と頭を上げてこちらに向き直る指揮者を、唇をかみしめながら見ていた。


「よし、良いんじゃないかな。他のクラスに嫉妬されちゃう前に、教室戻ろ」


 天使は鍵盤に蓋をしながら、クラスメイト達にそう声をかけた。




 ――一体、どこが良いというのか。




 針瀬は、内心そう思いながら舞台に作られた段差を降りる。きっとそれは、自分と同じアルトパートだけでなく、クラスの全員がそう思っているに違いない。


 確かに、教室では良くできていると思っていた。それぞれのパートのユニゾンも、歌詞に合わせた抑揚も問題なかったはずだ。だが、いざ体育館という広い舞台に出てみると、まったく声量が足りていないことを絶望的に思い知らされる。鼻から抜けていく声が、しかしフロアの中空で落ちて消えていく。焦らないようにと音程を意識するたびに、自分の無力さで声が震えた。


 そして、それ以上に天使の伴奏が強く主張してきていた。教室での練習では当然無機質気味な音源らしいピアノ伴奏かアカペラの音源で練習している。これまでの音楽室を利用した練習でも、天使はリラックスした様子で、こちらに合わせるように優しい伴奏を合わせていたように感じた。


 しかし、この予行練習としての演奏は全く違っていた。どこで練習したのか、わずかにアレンジが加えられた伴奏は、力強く気を抜けば聴衆の意識は瞬く間にピアノに奪われ、合唱という形態は崩れ去ってしまうだろう。私たちは天使という偶像の添え物と化し、無様にも餌付けを待つひな鳥のように口を開けるのだ。





 教室に戻ると、待ちわびたように担任が出席簿を肩に当てて「席に着け~」とけだるげな声を出す。生徒全員が不快な感情を特に隠すこともなく、それぞれ無言で席に戻っていく。


 寄り道をしていたのかまた何か問題があったのか、遅れて戻ってきた天使が着席すると終礼が始まる。特に合唱コンクール関係の連絡はなく、練習もいいがほどほどにな、と無責任な言葉を残して、担任は去っていった。


 針瀬は生徒たちに指示を回して、それから二時間ほど練習したが、まだ上手く歌えるビジョンは見えなかった。文化祭当日はもう来週まで迫っていた。





 明くる月曜日、これまで通り練習を始めようとする一年二組の生徒だったが、一人の女子生徒がプラスチックの大きな袋から、のど飴やなにやら効能が外装にくどく書かれた飲料を取り出す。


「みんな、これ使って今週もがんばろっ。クソ担任を詰めてお金は出してもらったから遠慮しなくて大丈夫だし、それに、みんなももっと頑張りたいって、思ってると、私は、思ってるんだけど」


 次第に自信を無くして語尾に力がなくなっていくクラスメイトに、陽気な男子生徒がサンキューと飲料を取っていく。


「うわ、まっじーこれ!」


 颯爽とふたを開け一気飲みすると、そう男子は舌を出して見せる。くすくすと教室の後方で笑いが起きる。


「でもこれ、めっちゃ効きそうじゃん!」


 大げさにオペラ歌手の物まねをするように、胸に手を当てて発声練習をする。その道化じみた行動に感化されたように、馬鹿らしいと肩をすくめながら、一人、また一人とのど飴と飲料を手に取っていく。


「喉軽くなったわ、羽とか生えたらどうするよ」


「馬っ鹿、天使になっちまうっての」


「……羽が生えたくらいじゃあ、天使にはなれねぇよ」



 軽口をたたき合いながら、喉を潤していた生徒たちは、不意にしんと静まった。教室に差すまだ明るい日差しが、途端に陰ったように感じる。


「——天使になんて、ならなくていいんだよ」


 誰かがそう呟く。


「なぁにが天使だ、馬鹿らし」


 ふふ、と一人が笑いだしたのを皮切りに、教室中で吹っ切れたように笑い声が共鳴していく。


「そうだそうだ!」 「打倒天使!」 「二組はうちらのもんだ!」


 口々に好き勝手なことを言い合って、笑い合う。そんな何でもないようなことが、とても心地いい。針瀬はそんなクラスメイト達の様子を、一歩引いたような気持ちで俯瞰して、少しだけ安心していた。


「ほら、委員長も」


 クラスメイトが飲料を差し出してくる。ありがと、と言って受け取り、眉唾で誇大な宣伝の描かれたキャップを開けて、目をつむって一気に飲み干す。


「これ、まっずいなぁ」


 だけれどどこか、本当に羽が生えたような、心が軽くなる心地がした。飲料を持ってきた生徒も、共感するようにふっと笑った。



「なになに、ボクの話してる?」



 不意に教室に入ってきた天使に、騒いでいた生徒たちが軽く悲鳴を上げる。飲料を配り終えた女子生徒が、驚いたように天使を見た後、覚悟を決めて話しかける。


「ねぇ、天使ちゃん。私たちと勝負しようよ」


「……勝負?」


「ソプラノとアルトの練習に入ってさ、どっちの方がうまいか勝負。私たち、上手くなったから、聞かせてあげるよ」


 針瀬はその提案を聞いて、天使は歌唱の練習はしていないはずだし、そもそも一対多の歌勝負なんて勝ち目がないからする必要もないと思ったが、天使という少女の歌唱力を思えば、そう軽視もできないと考えた。とはいえ、彼女がそれを受けるかは別だ。


「え、いいよ!ボクも歌いたかったからねぇ。でも、ちょっと待って、ボクも練習したい!」


 というと、天使は持っていたファイルから楽譜を取り出した。自信があるのか、それとも単なる好奇心か。ともあれ、俺たちは~?とごねる男子を自分たちで練習しなさいと一蹴して、合唱練習は新たなスタートを切った。あれだけ目の敵にしていたが、やはり天使のいる練習風景は、だれもが笑顔だった。





 それから、いつのまにか勝負のことなど忘れて、一年二組の生徒たちは、天使と歌い合った。最初は天使の声量や声の通りに気圧されていたクラスメイト達であったが、次第に対抗するように声を張り上げ、徐々に整った一つの合唱へと歌声が収斂されていくように感じた。


「それじゃあ、また明日ね」


 しばらく歌い合って、天使は楽し気に帰っていった。明日は負けないからなと、勝気なクラスメイトが叫ぶ。クラスメイト達は、どこか誇らしげに、楽しそうにやる気に満ちていた。

 橙の光が差し込む教室で、彼女らは不思議と一つになれたように軽くうなずいた。


「もっと、練習しなきゃね」



 そうして、一年二組は台典商高での初めての文化祭を迎えるのだった。


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誰も救えない天使の話 錆井 @SaBsuzuA

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