ひねくれず、ひたむきに告げる

 月の見えない夜でした。

 傷心中のヴェルディ伯爵令嬢のもとを訪れ、彼女から話を聞き、お屋敷へと戻ってきた私たちはまともに会話することなしに夜を迎えました。帰りの馬車内でも私たちは一言も交わさずにいたのです。私から、あるいはお嬢様からも何か話そうとしている気配があったものの、結局は言葉にならなかったのです。


 嗚咽混じりに明かされた彼女たちの物語。一つの終着点。


 イゾルデさんがご令嬢の元を去ることを告げたのはあの演奏会当日だったそうです。様子が普段と異なる彼女をご令嬢が問い詰めた結果、最悪のタイミングで別れが宣告されたのでした。


 ご令嬢はイゾルデさんの行動について、最終的には「裏切り」や「ひどい仕打ち」と形容なさいました。ご令嬢が最も信頼し、最も愛していたからこそ、侍女がとった決断には納得がいっていない様子でした。

 ご令嬢にはイゾルデさんを想うがゆえに自らの婚約を破棄までした過去があるのに対し、イゾルデさんは格上貴族との婚約を受け入れる道を選んだのです。

 私たちがイゾルデさんの選択を「しかたがない」とどうしてご令嬢に向かって言えるでしょうか。ご令嬢が深く嘆いたように、イゾルデさんがご令嬢を本気で愛していなかったのかどうかだって、わからずじまいなのです。


 いつか振り切れる時が訪れるのでしょうか。再び彼女が竪琴を取って表舞台に上がる、そんな日が。ご令嬢はあと五十年経っても、今とそう変わることのない容姿です。美しいまま。それがモリビトという種族。だから、彼女にはまだチャンスがあるような気がします。彼女にその気があるのなら。


 翻って私はというと、若い容貌のままでいられる期間はそう長くありません。

 もしも、そう、もしもロザリンドお嬢様のそばにいることがこの先許されたとしても……お嬢様よりも遥かに早くに老い、そしてきっと彼女よりも先にこの世を去るのです。


 竪琴を弾くことはできるのはいつまででしょう? この指先が動かなくなるその瞬間まで、私は音楽を奏で続けているでしょうか。

 それとも、とっくに別の生き方を、別の土地で選択しているのでしょうか。お嬢様はその時、どこで何を……?


 月の見えない夜、過去に未来に、そして現在に思いを巡らしながら、私はいつものようにお嬢様の私室の扉をノックしました。「入って」と声が返ってきます。


「今夜はいつもと違う曲を聴きたい気分よ」


 入るなり、天蓋つきのベッドに腰掛けているお嬢様が私に言いました。隠されていないその素顔に浮かんでいる表情は、微笑んでいるようにも涙を堪えているようにも見えます。


「では、私が曲を選んでもよろしいですか」

「とっておきの曲を頼むわ。ねぇ、そばに来て。偶には隣で弾きなさいよ」


 誘われるがままに私はお嬢様の隣へと移り、その柔らかなベッドの上で竪琴を構えます。椅子と比べると姿勢の安定性に欠けますが、それをわざわざ言う必要はありません。

 私はいつもどおりに、そう、変わらない明日を祈って、竪琴を弾き始めます。変わるのは怖い。私とお嬢様、二人の想いを確かめるのも怖い。こうして、夜毎に彼女を独り占めできる日々が続くのを願うのが関の山。


 月の見えない夜に選んだのは、月の光を主題に持つ曲でした。


 亡き母が好んで弾いていた曲だそうです。エドワードさんと出会って間もない頃に、これを弾きたいと私がせがんだ曲。弾けるようになって、初めはどうしてこんなに物悲しい曲を母は好んで弾いたのだろうと不思議でした。

 それから月日が経ち、庶民学校を卒業した後で、母の遺した日記に目を通してその理由がわかりました。それまでは読むのを避けてきた遺品でした。たとえ肉親であっても、いえ、むしろ肉親であるからこそ、その心の内をありのまま綴ったであろう日記を読んでいくことを幼い私は恐れたのです。もはや記憶に面影らしい面影の残っていない母の姿、その胸中をそこに見出した時、私がそれを受け入れられなかったらどうしようと思っていたのでした。

 

覚悟を決めて日記を紐解くと――その月光を奏でた曲が、父との思い出だったとわかりました。


 いい思い出。愛のある日々の記憶。

 単純で、説得力のある、美しい理由です。惜しむらくは父は母の紡ぐ旋律よりも古の呼吸を追い求めて世界を歩き回る道を選んだということ……。


「それでは、弾かせてもらいます」


 室内のランプが作る薄明かりを頼りに、私は月明かりを指先で音にしていきます。暗闇を恐れなくて済むように。今夜を安らぎをもって越えられるようにと願いを込めて。


 曲が中盤に差し掛かったところで、お嬢様が私の肩へとその身を預けてきます。ますます演奏はしにくくなりますが、それでもこの指先を弦から離すことはしません。弾きたい、最後まで。なのに、曲の終盤になってお嬢様は私の首筋に口づけをしてきました。一度ならず、二度、三度……。その唇の感触が頰に移った時、曲があと少しで弾き終わるというところで、私はついに手元を狂わせ、音を外してしまいました。


「……お嬢様は意地悪な方です」

「そうね、自分でもそう思う」


 なぜか嬉しそうに言うお嬢様。仄かに赤らんだ面持ちの色気に、怒る気が失せました。


「綺麗なお嬢様。誰よりも魅力的で、でもその魅力を知る人は少なくて。そんなお嬢様は強かだけれど、少しだけ寂しがり屋なふうでもあって」

「そうかもしれない」

「それに……ひねくれてもいます」

「まっすぐじゃないのは確かね」

「私……イゾルデさんが羨ましいです」


 そんなふうに口にするつもりはありませんでした。伝えるにしても別の言い方をしようと考えていました。けれど、一度音になったものは、それがたとえ余韻の一切を失ってなお、人の記憶に刻まれるのが理なのです。


「なぜ? 貴女もどこかの貴族の令息に嫁ぎたいの?」

「そうではありません」

「どういうことか教えて」

「あんなにも……ヴェルディ伯爵令嬢からの深く重い愛を受けているのが、羨ましくも感じられたのです。それは今や、悲しいことで、つらいことでしょうが」

「メリアはクララに一目惚れしていたの?」

「……お嬢様は意地悪です」


 私の訴えにお嬢様は切なげな笑みを浮かべ、それから私の手から竪琴を慎重に取りました。思えば、お嬢様が私の竪琴に触れたのは初めてかもしれません。私が持っている物の中で一番大事な物だとお嬢様は知っています。お嬢様は「ケースを開けて」と言い、私はその通りにします。

 そっと、お嬢様がケースの内側に竪琴を横たえ、そしてゆっくりと閉めます。きらきらとした宝石よりも、何かとても大事な秘密を隠してしまったみたいです。


 ケースをベッド脇に置いた私の背中に、お嬢様が抱き着いてきました。


「貴女のこの可愛い耳にキスしてもいい?大丈夫、噛まないわ」


 甘ったるい囁き声に私は肯いて、されるがままになります。

 今ならあの日よりも強く、痛ましく噛んでもかまわない、そう思えました。それがこの人からの証になるのなら。特別の証明として残ってくれるなら、と。


「どうして泣いているの?」


 何度目かの口づけが私の耳にされたとき、私の顔を覗き込んだお嬢様は驚いた声を上げました。


「わかりません。たぶん……聞きたい言葉が、知りたい気持ちが聞けないからです。いいえ、もし今すぐにでもその言葉をお嬢様から言われたって、信じられはしないでしょう。私とお嬢様とでは……何もかもが違うのですから」


 お嬢様の動きが止まって、私から離れます。それから「出て行って」と言われるだろうと予感していたのに、そうはなりませんでした。お嬢様は私の腕を、身体を掴み、ベッドへと押し倒して、覆いかぶさるようにして私を見下ろします。シルバーアッシュの毛先が私の顔にかかりそうになるほどの距離。


「泣かないで――。曲ができたら、きちんと言おうとしていたの」


 薄暗い部屋の中、瞬きを繰り返し、ぼやけた視界をまともにすると、その瞳が見えました。その深海色に淡い光が差し込んだようです。映り込んでいるのは私。私だけであることが嬉しくて、少し悲しくもあって、身震いします。


「曲ができてからじゃないと、って勝手に思っていたの。貴女と私とを結びつける糸であり、誓い。そう心から感じられたなら、この気持ちを偽りなく告白しようって」


 かかる吐息。熱くて火傷してしまいそう。


「さっき口にした私への評価で、大事な要素が抜けている。なんだと思う?」

「……教えてくださいますか」

「臆病だってこと」

「そうなのですか」

「初めて貴女を屋敷に招いた日、要望通りに素顔を晒すのに何の抵抗もなかった。あの時、貴女はただの一人のソトビトで、年下の女の子でしかなかった。竪琴の音色に何か可能性を感じたのは事実でも、貴女自身が私に与えてくるものは少ないと思っていた。耳を噛んだあの時だって、私にとっての貴女はまだ遊び相手のような存在だった」


 ほとんど真上から降ってくる囁き声に私は一途に耳をすまします。


「セインヴァルトの名を背負うモリビトにしては、私はひどく臆病よ。自分の想いを、相手へと偽りなく伝えるのを怖がり、曝け出すのを躊躇っていた。――――でもね、今夜は違う」


 お嬢様がその唇を私の唇に重ねます。


 長く熱い口づけが終わると、お嬢様は私に愛を囁きました。素直な言葉。思わず茫然としてしまった私の頰をつねって「なんとか言いなさいよ」と口にするお嬢様の可愛らしいお顔。


「お慕いしています、心から。いつからか、わかりません。でも、好きなんです。特別な好き、なんです。私……あなたのそばにいたいです、こうやって温度を感じていたいんです。声を聞いていたい。瞳に映っていたい。愛してほしい。あなたの心を響かせたい」


 溢れる涙、でもお嬢様が指先で目元を拭ってくれます。


「その願い、もう叶っているわ。これからだって」


 出会ったあの日の囁きと反対の言葉。


 こうして――月の見えない夜、私たちは密やかに互いの想いを確かめ合ったのです。

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