少女の幸福、後戻りできない気持ち

 ノックの音に、ミルスタインさんが「今ちょっと手が離せないから、そこで待っていて!」とドアへと向かって声を張り上げます。来訪客が誰かはわかりませんが、とにかくノックの音はそれきりでした。


「渡したいものがある。まだそこにいて」


 そう言うと彼女は室内にある書棚の前へと大股で歩いて行き、その一番上の段に敷き詰められた本の背表紙を指差しで、ざっと確認します。ほどなくして「あった」と呟いて指を止め、すっとその一冊を引き抜きました。


「あんたに貸す。返すのはいつでもいい」


 今さっきの会話なんてなかったように、ミルスタインさんは私へとその本を半ば無理やりに渡してきました。

 作曲に関する指南本であると誰もがわかる書名、でも作者名にはまったく心当たりがありません。装丁からして真新しい本です。


「怪訝そうな顔をしないでよ。べつにあたしが書いた本ってわけじゃないさ。一時期、この王都にいたソトビトの音楽家と今もいるモリビトの音楽家との共著なんだ。広く読まれてはいないけど、あの王子はわりかし感銘を受けたみたい」

「フェルディナンド王子が?」

「そんな名前だったっけか。ま、いいや。読んでみな。お詫びってわけじゃないけどさ……。ここでのやりとりは忘れて。あんたが楽団に入るつもりってなら、また会うことがあるかもしれない」


 ぎこちない笑みをみせるミルスタインさんに私は「ありがとうございます」と口にして、軽く頭を下げ、出入り口のドアへと向かいました。すぐ後ろを彼女がついてきて、ぬっと腕を伸ばして彼女がドアを開くのでした。


「あっ。フランカさん……」


 ドアのすぐ外にいたのはフランカさんでした。


「迎えにきました。お嬢様は馬車でお待ちです」


 きょろきょろとする私にフランカさんは知りたいことを教えてくれました。


 それからフランカさんとミルスタインさんとの間に簡単な、というより素っ気なく短い会話があって、私たちは別れました。


「成果はありましたか」


 アパートメントの敷地を出たところで、フランカさんが私を見やってそう言います。

 私は胸元に抱えた本を示しながら「はい、きっと」と努めて笑ってみせました。けれどその表情は、別れ際にミルスタインさんがしたもの同様に不恰好だったことでしょう。


 ――報われないよ。


 あの言葉の真意、そして私の気持ち……今ここに竪琴があったなら、と切望してしまいます。あの楽器に指で触れ、心を通わし、旋律を奏でている時ほど自分が自分を感じられる時間はないのです。今、内側で騒がしく響いている不協和音を落ち着かせるには、一刻も早く、手に馴染んだあの竪琴と「二人きり」にならないと……。


 そんな考えは馬車のキャビンで待ってくださっていたロザリンドお嬢様の姿を目にして打ち消されました。


「長居しないようにと言わなかった?」

「も、申し訳ございません」

「それは?」


 謝罪を気に留めず、お嬢様は本を指差しました。


「ミルスタインさん……例のヴァイオリニストから借りました。作曲の参考になるから、と」


 直にそう言われてはいませんが、意図はあっているはずです。それより、お嬢様の声から怒りを感じられないことにひとまず安堵しました。おそらくベールの下もいつもどおりでしょう。


「ふうん。よく見せて。隣に座りなさい」


 お嬢様が悠々と座れるよう、これまでの移動では専ら対面に腰掛けていましたが、頼まれては断れません。私は言われたとおりにしました。ちょうど私が座った時にフランカさんから出発の合図がなされ、馬車が走り出します。


「……どうぞ」

「本じゃないわ」

「えっ?」


 お嬢様が触れてきたのは私の頰でした。

 もしや待たされたのを内心ではひどく憤っていて、思い切りつねられでもするのかと身構えた私ですが、杞憂でした。お嬢様の手つきには優しさがあり、そして声には心配があったのです。


「暗い顔。どうやら、あまり気の合う人でなかったようね」

「それはその……」

「話したかったら話せばいいし、話したくなかったらそれでいいわ」

「それなら……今回は心に留めておきます」

「ふふっ。そこですんなりそう答えるのが貴女らしい。ああ、これは褒め言葉として受け取りなさいよ」


 私が「わかりました」と言うと、お嬢様は私の頰をくいっとつねります。痛くはありません。むしろ妙な心地よさすらあります。


「お嬢様……?」

「許しなさい」

「な、何のことですか」

「貴女が暗い顔をして戻ってきたとき、ほんの少しだけ安心したのよ。悪かったわ」


 お嬢様の指がぱっと頰を離れ、その眼差しは私ではなく小窓の外へと、移りつく街並みへと向かいました。


「……どうしてですか」

「どうしてでしょうね」


 しばらく沈黙が続きました。

 お嬢様はその間ずっと外を、私はお嬢様を見つめていました。どれほど見たってベールの下が透けるわけでないのですが、それでも視線を外せませんでした。


 やがてお嬢様がぽつりぽつりと話します。


「もしも……貴女がソトビトの音楽家と意気投合したとするでしょう? それで、ほら、屋敷にいるよりも、もっと多くのソトビトたちと街中で交流したがったとしたら。貴女がそれを望んだなら、なるべく叶えてあげたい。束縛はしたくはないの。けれど……同時に、真逆のことを願いもする自分がいる」

「真逆のこと?」


 訊き返した私にお嬢様が答えてくれるまで、さらに深い沈黙を経ました。

 馬車の外から途切れ途切れに聞こえてくる音楽たちは無力です。このキャビンの中で私の目に映っている彼女だけが存在感を持っているみたいに。


「ふとした時に感じるのよ、貴女をそばに繋ぎ止めておきたいって。出来損ないの王族のくせして、立場を利用してばかり。嫌になっちゃうわね。ねぇ、メリア――聞かせて」

「生憎、竪琴は持ってきていません」

「違うわ。そうじゃなくて……貴女は王子の楽団に入る気でいるの? 彼が望めば、屋敷を離れて、どこかの部屋で一人ないし他のソトビトたちと暮らすの?」


 王子の訪問から今日まで、明確な答えを避けてきた質問。


 避けてきたのはお嬢様であり、私でもあります。作曲への没頭は私にとって一つの道しるべでありましたが、一つの逃げ道でもあったのです。


「それが夢へと近づく道ならば、私は迷わず進むまでです」


 私の意志表明にお嬢様はまだ外を見ています。あるいは目を閉じ、耳を澄ましているのかもしれません。


「あの仮面演奏会の夜に申し上げた夢を諦めたつもりはありません。お嬢様を満足させる演奏ができる竪琴弾きになってみせます。願わくばそれが私の作った曲、そして私たちの二人共が響き合う形で実現できたなら、それ以上の幸せはないと思うんです」


 音階をたどるように、精確に一語一語を私は発音しました。


「幸せ、ね。私には見ることも聞くことも叶わない言葉……なんてふうに、独りでやさぐれていた時期もあったわ。幸せって逃避と見栄でできているようなものだって。なのに、不思議ね。貴女が言うと信じてみたくなる」


 そこまで言ってからお嬢様は目線をキャビン内へと戻しました。ですが、真横にいる私ではなく正面へと顔を向けています。


「ところで。その幸せには、私も加えてくれるの? つまり……何て言えばいいかわからないけれど、貴女は自分だけでなく私を幸せにする気はあるわけ? いえ、違うわね、この聞き方は。ええと……」


 珍しく言い澱みつつ、適切な言葉をああだこうだと探し続けるお嬢様は可憐な少女のようです。


「私にできるでしょうか。お嬢様を幸せにすることが、私なんかに」

「……さっきのは忘れなさい」


 ミルスタインさんにも似たことを頼まれました。


 でも、忘却を強く望めば望むほどに、その記憶が刻み込まれるのは誰もが知っていることでしょう。


 今や私の王都での滞在生活、その始まりは審査会であっても、思い出を占めているのは今ここにいるお嬢様との交流です。


 ロザリンド・セインヴァルトという一人の高貴なモリビト女性は、一介のソトビトである私にとって間違いなく、特別な存在……。


「ん、ん。メリア、屋敷に帰ったら一曲お願いするわ」

「はい。ぜひ、私に演奏させてください」


 竪琴との「二人きり」よりも私はこの方との二人きりを欲しているのだと気づかされました。気づいてしまえば引き返し難い気持ち。後戻りできない想い。


 たとえ報われないとしても――。




 その日の晩、私はフェルディナンド王子に手紙をしたためました。お嬢様から頂戴した便箋や諸々の用品で体裁を整えた手紙であり、文面についてもお嬢様に目を通していただいたものです。


 二週間後、王子の手配した人が屋敷に訪れ、楽団の仮拠点へと私は馬車で向かいました。車内にいるのは私一人だけです。

 かくして、ロザリンドお嬢様のメイドとして働きながら、週末には新興楽団の一員として練習に励む生活が始まったのです。


 新興楽団は名称がまだ正式に決まっておらず、フェルディナンド楽団という仮称が付きました。このフェルディナンド楽団が水面下で動いているのみではなく、王都内で知名度を高めつつあるのを私が知ったのは、例の仮面演奏会ででした。

 私にとって二度目の仮面演奏会です。それは大音楽祭がいよいよ1ヶ月前に迫った夜に例の邸宅にて開催されました。


 実のところ2ヶ月に一度催されるのが通例だったのが、前回は主催であるレオンハルト殿下と、彼が懇意にしている方に事情があったようで中止されていました。

 そういうわけで、お嬢様が人前で歌を披露するのはあの夜ぶりのことです。


 参加者が口々に話題にすることの一つに、フェルディナンド楽団があったのですが、王子が団長を務めているだけに、仮面をつけていてなお、不平や不満を直接的に言い合う人たちはいませんでした。ただ、新しい試みを強く肯定している口振りでもありません。


 そして楽団の評判とは別に、私たちを動揺させる話題がありました。


 それはつい先日に行われた、クララ・ヴェルディ伯爵令嬢の演奏会での失敗についてでした……。

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