嫉妬の跡、夜にドアを隔てて

 「どこにも行かせない」

 あるいは「どこにも行かないで」

 もしかすると「どこへでも行きなさい」


 壁に背をぴったりとつけていた私へとお嬢様が囁いた言葉が何であったかは曖昧としています。その直後にお嬢様に首筋を強く噛まれたこと、その痛みばかりが記憶に強く残っているのです。


 熱い痛み。

 まるで血でも吸われているような。


 それでも胸の前で両手で抱えていた竪琴を床に落としはしませんでした。むしろ、それを抱きしめて何とか悲鳴を堪えたのです。


 噛まれていたのがどれぐらいの時間だったのかは不明瞭ですが、私から離れたロザリンドお嬢様の口許が血に濡れていたのを目にした私は、くらりと意識を混濁させ、床へとずるりずるりと座り込んでしまったのでした。


 


 次に意識が明瞭になった際には、私はソファに身をあずけていて、そばにいたのはフランカさんでした。室内を見回し、そこがまだお嬢様の私室であるのを確かめます。なのに、お嬢様本人がいないのです。


「お嬢様は……?」


 首筋に手を伸ばしながら私はそう訊ねます。傷口には包帯が巻かれていました。触り心地からして、その下にはガーゼが貼られ、おそらくは軟膏か何かも塗り終わっているみたいです。


「今は一人にしたほうがいいでしょう。私はお嬢様に呼ばれ、手当てをしました。安心なさい、傷は浅いです。いったい何があったのですか? お嬢様は『事情は何も聞かないで』と叫ぶように命じてから退室なさいましたが、私は立場上知る義務があります」


 毅然とした様子でフランカさんは私を見下ろしています。私は座ったまま姿勢を正しました。


「お嬢様に噛まれました。それだけです」

「普通、人が人を噛むことはありません。それに何の理由もなく血が流れていい場所などあってはならないのです。このセインヴァルトの由緒ある屋敷では言うまでもなく」


 フランカさんがぐっと屈んで、私と視線の高さを合わせます。


「何があったか正直に教えてくれますね? そのほうがお嬢様のためなのですよ」

「……わかりました。でもその前に一つ、私に教えてください」

「竪琴ならあちらです。傷一つありません」


 指し示されたのは部屋の隅。竪琴が入っていると思しきケース。


「そうではなくて。あの、モリビトが誰かを噛む時。それはどんな時なのでしょう?」


 目を伏せ、静かに首を横に振るフランカさんでした。


 首筋を強く噛んで血を出すことはモリビトたちの慣習に沿っても異常なことで、何かそこに特別な意味が、モリビトたちにとって共有されているサインというのがあるわけではなかったのでした。


 あの日の耳を甘噛みされたのとは違うのはわかります。あのどこか甘い心地のする秘密と、今こうしてフランカさんにばれてしまった噛み跡が持つ不穏さ。


 私は訥々と、起きたことを話してみるのでした。




 その日の夜、私は竪琴を手に、お嬢様の部屋の前へと再びやってきていました。

 あの後、それから夕食の席でも会うことのかなわなかったお嬢様です。


 ですが、フランカさんはお嬢様が部屋に戻っているのを私に教えてくれたのです。くれぐれも軽率な訪問は避けるようにと言い聞かせて。


 部屋の前にフランカさんの姿がないところを見るに、私への忠告が無駄だと知っていたのでしょうか。それとも室内にてお嬢様と一緒にいる? 

 

 ひょっとして、この部屋には誰もいなくて二人は別の部屋へといるのかもしれない……そんなことを思い巡らしながら、私はドアをノックするのを躊躇います。


 夏季が過ぎて、夜の廊下は冷たく、暗さも増している気がしました。事前にランタンを用意してきたのもあって私の手元、足元は明るいのですが、竪琴ケースを片手で持つのは少々重くありました。でも、持ってこないわけにはいきません。


 この1ヶ月余り、私は毎晩のようにお嬢様の部屋へと竪琴を奏でに通っているのです。私がこの屋敷にて一番多く演奏している曲は間違いなく、この夜の曲です。子守唄、というと語弊がありますが、お嬢様が睡眠導入として要望された曲なのです。


 今夜もそれを弾くために訪ねてきた、そういう体裁でここにいるのです。私はお嬢様にとってメイドであり、友人であり、そして竪琴弾きですから。


「そこにいるのは誰」


 ランタンの明かりのせいでしょう。

 ドアの隙間から光が漏れて外にいるのが見つかったのです。でも、問われてすぐにはそう思いあたりませんでした。ドア越しにかけられた声。そこにある刃のような鋭さに私は背筋をぴんとさせ、それから恐る恐る「メリアです」と返したのでした。しかし返答がなく30秒、1分……と過ぎていきます。


 聞き間違えようがありません、お嬢様の声でした。私はランタンと竪琴ケースとをドアから離れた床へと置くと、ドアへと身を寄せ、その向こう側にいるはずのお嬢様、その気配が感じ取れるか試します。きっとまだドア近くにいてくださる、と根拠のない自信がありました。


「お嬢様……」


 深く暗い無音に我慢ならなくなった私はそう口にしていました。


「まだいたのね」


 すぐに返ってきた声に張りつめている調子はなく、なんだか呆れているふうでもありました。


「います。ドアにぴったりとくっついて」

「奇遇ね、私も今、ドアを背もたれに座っているの」

「私は違います。内側へと顔を向けていますから」

「いいのよ、細かいことは。……賭けに勝ってしまったわ」

「賭け?」

「フランカは今夜、貴女がここへと訪ねて来ないと言った。そう命令したって。賢明な判断よ。普通は行かせない、会わせなんてしない。でも私は……こうやって来るだろうって信じて起きていたの」


 あり得ない話ですが、もしも今回の件で私たちの立場が逆で、血を流したのがお嬢様だったとしたら、私はきっと二度と彼女に会えなくなっていたのでしょう。


「ねぇ、痛む?」

「いいえ、それほどは。お嬢様が吸血鬼でなくてよかったです」

「笑えない冗談ね。私の噂に血を吸うという特性が加わらないといいのだけれど」

「私とフランカさんしか知らないのですから、広まりっこないですよ」

「……そう。あのね、メリア。誓いを破った私はどう償えばいいの」


 誓い。それはあの日、耳を甘噛みされた時にお嬢様自身がセインヴァルトの名を出して口にしたこと。でも、あれは耳へと触れる際に舌や歯を使わないというものだったはずです。今回の件とは無関係……と言えずとも、ぴったり重なりはしないでしょう。


「ごめんなさい。貴女を傷つけてしまって。私は守る側であるのに」


 声に湿り気が加わりました。


「な、泣くようなことでは。すぐに治る傷らしいですよ」

「泣いていないわ。自分の弱さを悔やんでいるのよ。どうして貴女にはああも簡単に心を動かされ、そのまま行動を左右されてしまうのか。こんなの……変よ」


 ぐすっと。涙声が続きます。


「フランカからは日頃の交友関係の狭さを既に指摘されたの。人と人とが関わっていく中でいざこざや衝突は避けられないし、名前のつけようがない感情に振り回されることだってある。だから今回の件を教訓にして他者との関係性の築き方を捉え直しましょうってね。――笑わせないで。私が今後、どんなふうに、誰と深く関わっていくというの? 自分を囚われのお姫様だとは思っていないわ、でもね、未来は見えない。ムーサの福音なんて聞こえないのよ!」


 内側から叩かれるドア。

 すすり泣く声。


 この数ヶ月、私はまだロザリンドお嬢様の表面的な部分しか理解していなかったのだと思い知りました。「耳なし令嬢」であるのを彼女自身が何とも思っていないわけがなかったのです。それをわかった気になっていました。でも、深い部分には及んでいなかったのです。


 私は今から自分が伝えようとしている言葉が失言がどうか考えてみました。

 ええ、おそらくそうなのでしょう。気軽に言っていいものではないです。他人が口にしていいことではないです。


 ……でも、どうして黙っていられましょうか。私はもっと、お嬢様に近づきたい、彼女を知りたいのです。


「仮面を外すことは考えないのですか」

「今、何て?」

「仮面を外して、一人の歌手として表舞台に上がろうとは思わないのですか。お嬢様の歌は特別です。お嬢様だったら――」


 あの『女王』たち以上の音楽家として認められるはず。


 殿下が主催する仮面音楽会を否定するつもりはないです。でも、あの場所が影であるのは誰にとっても明らかです。お嬢様をこのまま影にいさせていいのでしょうか。この方は、本当は明るい場所で光を浴びて生きるべき人なのでは……?


「無理よ」


 涙一雫、隙間に入ることのない諦念。


「お姉様の、つまりはセインヴァルト女王の決定だもの。この耳と顔とを外では晒してはいけないの。もし取り決めに背くのなら……叛逆者扱いだわ」


 それほどまでに忌むべき個性だというのでしょうか。大きく、尖った耳でなければいけないというのでしょうか。ソトビトであり、平民である私には理解し難い価値観です。


 いいえ、事情を知って理解できても決して納得はできない理屈です。


「女王様は、お嬢様の歌をお聴きになったことはあるのですか」

「ないわ。……一度、王族の集まりでレオンハルトお兄様がそれとなく伝えたことがあるの。私の歌は充分に聞く価値があるものだって。お姉様が何て言ったと思う? 『悪い冗談はおよしなさい』って、そう戒めたのよ」


 お嬢様はその時、どんな思いを、そしてどんな表情をしたのでしょう。その顔をその場にいた誰も見ることがなかったに違いありません。ベールの下でこれまでお嬢様が耐えてきたものを想像すると胸が痛みます。それだって私の自分勝手な同情で、彼女の役に立ちはしないのです。


「メリア? まだいる?」

「はい、います」

「……貴女を傷つけた件を償う気はあるわ。でも、今話したとおり、ベールや仮面を脱ぎ去れはしない。他にしてほしいことは?」

「それでしたら……」


 昼間の出来事、王子とのやりとりを私は思い起こし、ひらめきを口にしていました。

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