二人の竪琴弾き

 ヴェルディ伯爵令嬢のソロ演奏会が始まりを告げました。


 二階席から見えるご令嬢の装いは聞いていたとおり、優雅で洗練されていて、その顔立ちにはある種の天使像や女神像を彷彿とさせる端正さが備わっています。

 挨拶を抜きにして、彼女は舞台上、中央に据えられた椅子に腰掛けると、まるで恋人と抱擁を交わすかのような仕草でその竪琴へと手を伸ばしました。


 私が持っている竪琴の数倍は大きく、自立型の代物です。規格の大小、音響の仕組みや演奏できる音域を考慮すると、別の楽器と捉えてもいいでしょう。


 事前に曲目の発表はありませんでした。『女王』がそう望んだからだとうかがっています。リベリオさん曰く「驚きが感動を作る」というのが彼女の演奏会における理念の一つみたいです。


 彼女がどの曲から弾き始めるのかを私たち四人で予想していたのですが、それら全てがはずれとなりました。


 ご令嬢が最初に奏でたのは、とあるピアノ曲を竪琴用に編曲したものだったのです。私の故郷、こじんまりとした音楽室でも弾かれる機会があったぐらいに著名な曲です。ですが、その調べを竪琴が奏でるものとして耳にしたのは初めてでした。


 精密な演奏。

 垣間見えるのはいたずら心。

 あたかも一曲目は挨拶代わり、ウォーミングアップといった雰囲気。それを上位貴族たちが集まった演奏会で平然とやってのけています。その完成度をして、誰が非難できましょうか。いいえ、できません。曲が終わる頃には、この選曲こそがこの場に最も相応しく、最適解であるよう思われました。


 ホール内に溢れかえりそうになる拍手を、ポロロンと軽々しく払いのけ、移った2曲目は竪琴曲の中でも古典中の古典。

 数カ所の超絶技巧部分を難なく弾きこなした上に、一曲目にはなかった大胆さと躍動感をもって演奏して、古めかしいともありきたりとも決して思わせない音色です。


「名奏者であり、大した演出家だわ」


 全部で6曲、比較的短い曲ばかりで構成された1時間半余りの演奏会が終わって、ロザリンドお嬢様が呟きました。歓声の冷めやらぬ空気のホール内でも、その呟きはしっかり私の耳へと届きました。


「どれも舞台音楽でなかったのに、たしかに舞台を見せられた心地よ。『女王』という異名は彼女の気品からだけでなく、場の支配力あってのものでしょうね」


 同感です。クララ・ヴェルディ嬢は奏者一人で舞台を築き上げたのです。いえ、リベリオさんが語ったあの噂が本当なら一人ではないのですが……。


 客席がしだいに空いていく中で、私たちのもとへ一つの影がさっと寄ってきました。仮面をつけていないのにまるで仮面のような笑顔を貼り付けた小柄なモリビト男性。

 彼はロザリンドお嬢様に礼節に沿った挨拶をしてから、レオンハルト殿下が私たち一行をお呼びしている旨を伝えるのでした。


 仮面のような笑顔に加え、ひどくおしゃべりなモリビト男性に案内されて廊下を進んで行くと、周囲の目がお嬢様へ注がれるのが嫌でもわかります。

 さらには私にも無遠慮な視線が絡みついてくるのでした。お屋敷を出発前に散々、忠告されたことです。ソトビトの使用人を、下級貴族ならともかく上級貴族が雇うのは前例がないそうですから。


「ああ、ローザ、よく来てくれた。呼びつけて悪かったね。部外者のいない部屋で落ち着いて話がしたかったんだ」


 部屋で待っていた殿下は、お嬢様へと朗らかに話しかけます。

 私とフランカさんとリベリオさんの三人は壁際に寄り、行儀よくするのでした。私はお嬢様の背中、そして事の成り行きを見守ります。


「お兄様、ご招待いただきありがとうございます。本来なら、開演前に挨拶を済ませたかったのですが……」

「気にしなくていい。こちらが取り込み中だったから。この美しい竪琴奏者とね。紹介しよう、素晴らしいひとときを提供してくれた、クララ・ヴェルディ伯爵令嬢だ」


 そう、部屋にいたのは殿下とその護衛だけでなく、主役を終えたばかりの伯爵令嬢もだったのです。彼女の傍には眼鏡をかけた侍女らしき人物もいました。


 ロザリンドお嬢様と伯爵令嬢との顔合わせ、そして挨拶は静かに交わされました。

 ご令嬢の笑みは不思議な感じがします。舞台上の彼女から否応無く伝わってきた迫力はそこにありません。潜めているのです。彼女はお嬢様のベールの下に関心がない、もしくはない振りをしているかのように。


 お嬢様が当たり障りのない、けれど紛れも無い賛辞をご令嬢へと口にします。すると、ご令嬢もまた無難な返答をしました。


「――ところで」


 二人のやりとりを微笑ましそうに眺めていた殿下がそう切り出しました。


「この場には実はもう一人、竪琴弾きがいるらしくてね、せっかくだから感想を聞きたいと思うんだ。いいかな、クララ」


 殿下は気安くご令嬢の名を呼びます。

 いえ、そんなことを気にしている場合ではないでしょう。伯爵令嬢が肯きつつも、「竪琴弾き」が誰のことか承知していない様子であるのに対し、殿下はまっすぐに私を見ているのです。お嬢様はというと、私に背を向けたままでした。


「メリア・リズトゥール、我が妹お気に入りのソトビトの竪琴弾きよ。さぁ、感じたことをありのまま伝えてくれるかい。もちろん、凡庸な褒め言葉は不要だよ。彼女は聞き飽きている。君ならではの解釈や指摘をぜひともお願いしたい」


 殿下の紹介に、伯爵令嬢はマロンベージュの髪をかきあげ、その表情には一瞬、翳りができました。

 それはそうでしょう、ソトビトの使用人に感想を求めるなど、殿下でもなければご令嬢に対する無礼ととられてもおかしくないのですから。


 リベリオさんが私の肩にぽんと手を置きます。意味深長な頷き。私はそれを合図と受け取って、壁から一歩、それからもう一歩、前へと進み出ました。お嬢様がようやく半身を翻します。ですが、その瞳は見えません。かろうじて口許が見えるだけ。


 空気が薄い、そう思いました。

 息苦しい、と。


 何を言えば、竪琴弾きの矜持を保ち、ロザリンドお嬢様に恥をかかせずに済むのでしょう?


 迷い。そこから私を導いてくれたのはお嬢様でした。


『ありのまま』


 殿下やご令嬢の死角で、お嬢様が唇をゆっくりと動かしたのです。殿下が音にして伝えてきた言葉よりも、そこには私を奮い立たせる響きがありました。


「実は……この部屋へと案内してくれた方から、殿下に急用ができたと聞いています。今朝になって少々、厄介ごとがあって、この後はそちらに向かわねばならないと」

「ああ、そのとおりだ」


 殿下は目を細め、じいっと私を見つめてきます。暖かな眼差し、とは言えません。


「しかし、君が今、そのことを気遣う必要はない。君の感想を聞くぐらいの時間はある」

「ありがとうございます。では、ヴェルディ伯爵令嬢、一つ確認させていただいてもよろしいでしょうか?」


 私からそう言われた伯爵令嬢は反射的に「ええ」と短く返してから「確認って? 何かしら」と愛想のいい笑みを作りました。


「殿下に急用があると知ってから、曲目を変更したのではありませんか」


 お嬢様が開演前に殿下に挨拶しに行けなかった件について、殿下は先ほど伯爵令嬢と取り込み中だったと話されていました。そのことから察するに、彼女は殿下に急用が入ったのを演奏前に知ったと考えるのが妥当です。


「……そのとおりよ。レオンハルト殿下は今回の演奏会を開くにあたって、いろいろと融通してくださった方だったから、殿下のために構成を変えましたの」


 伯爵令嬢、それからその侍女が首肯します。ロザリンドお嬢様のご指摘どおり、伯爵令嬢の演奏会は曲を組み合わせた一つの「舞台作品」であると私も思います。ゆえに、曲と曲の合間であったとしても、途中退場をなるべく観客に許したくないはず。

 相手が王族であればなおさら「最初から最後まで」を聞き届けてもらい、評価を受けたいと望むのが自然でしょう。


「ふむ。君がそこに気づいたのは理解した。だが、わからないな。肝心の演奏について評することをせずに、どうしてそんな確認をするんだい?」


 至極真っ当なご意見を私に言う殿下です。私は、今のは前置きだったのですとは口にせず、代わりに曲名を二つ挙げました。ここにいる人なら誰もが知っているはずの曲名です。


「ついさっき聴いたばかりの、演奏会の4曲目と5曲目ね。それがどうしたの、メリア」


 そう言うお嬢様の声には「期待」があります。それが私の背中を押しました。


「私が思うに――元々はそれらの間に、アルフォンス・グランジャニーの『庭で踊る姫君』を挿入する構成だったのではないですか」


 空気が変わります。

 息苦しさとは別の、でも決して安穏ではない様相。殿下が視線を走らせた先は、伯爵令嬢。


 そのご令嬢は小首を傾げました。


「……いいえ。予定していたのはトゥルニエの曲よ」


 失態です。見当違い。

 私の推理ははずれてしまったのでした。


 言い訳でしかありませんが、トゥルニエの曲を候補として考えもしました。曲名にも見当はついています。

 ですが、私は『庭で踊る姫君』こそが最も理想的なピースと信じたのです。嵌め込まれることのなかった幻想のピース、それを私は取り違え、あまつさえこのような場で発表してしまったのです。


「残念だよ、ローザ」


 殿下は私ではなくお嬢様へと落胆を示します。私の胸に鉄槌が振り下ろされた感触がしました。

 すぐに弁明しなくては、さもないと……そう頭ではわかっているのに唇は震えるばかりです。


「お待ちになって」


 予期せぬ一言。

 それは伯爵令嬢からもたらされました。彼女を見ると、侍女に何か耳打ちされ、ちょうど侍女が離れたところでした。眼鏡の奥の瞳、それが私を見据えています。


「あなたが選んだ曲は……が選んだものよりも優れた、最良の選択だと思いますわ」


 私は思い出します。

 リベリオさんが話してくれた噂。

 ヴェルディ伯爵令嬢の婚約破棄の裏側。


 ――『真の「女王」は侍女であり、彼女は伯爵令嬢と恋仲にあるそうだよ』

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