第2章 森の国
人はいろんなことで悩むことができるけど、今の私は蚊を叩き潰したことにまったく後悔していない。
せせらぎの急な音と、絶え間ない蝉の声が、もともと山道で長距離を歩いている私の気分をさらに悪くさせるが、おそらく私以上に不満を抱いている人がいるかもしれない。
「はあ……まだ着かないの?」
小夜子が後ろで不満を漏らした。夏が始まったときに束ねられたきれいな黒髪が少し懐かしい。
この姿も、もうしばらく見慣れている。
「もうちょっと我慢して。少なくとも前にしばらくは休める場所がないから」
「夜が怖くて出かけられない鈴のせいで、唯一の次の町まで連れて行ってくれる車を逃したんじゃないの」
枝で葉っぱが揺れる音が聞こえる。
「それは関係ないでしょ。ここの夜って驚くほど暗いと思わない?」
そう、私たちのいる場所があまりに辺鄙なところだから、修繕されていない道路の端にはもちろん動いている街灯なんてない。安全のために、そして大通りで日差しを浴びないためにも、こうして山道を登って近道するほうがいい。
日が暮れる前に次の目的地に着ければ、絶対に大丈夫だ。
「森の中で歩くときに一番大事なのは、感覚に頼らないこと。ちゃんと目印を決めなきゃ」
「ええ~なんで?」
「感覚で進むと軌跡が円を描いちゃって、永遠に抜け出せなくなるらしいよ」
これもサバイバルの本で学んだ知識だが、いつ学んだかはもう覚えていない。
「じゃあ、この紫色の花にしよう。すっごくかわいいじゃん!」
「それだとあんまり目立たないから、周りで見つかる一番高い木とか山頂とかを目印にするほうがいいよ」
「残念~」
「別に残念じゃないでしょ。この木だってかわいいじゃん」
笑顔の形をした穴が空いた木を指差してみたが、返ってきたのは小夜子の奇妙な表情だった。
ときどきレストランやコンビニがあちこちにあるあの頃が懐かしい。
「ねえ、ゲームでもしようよ」っと小夜子がていあんした。
「じゃんけんして、負けた人が相手の質問に答えるか、言われたことをするっていうのはどう?」
「どんな要求でも聞かないといけないの?」
「うーん……あんまりひどいのはナシかな?」
これで時間がつぶせるなら悪くない。
小夜子が初めてのゲームだから、まずは私が適当に何かさせてみてと言った。
「そうだな……じゃあ、この石の周りを一周してきて」
まさか本当にやるとは思わなかった。
「わかったでしょ?だいたいこんな感じで、ちょっと意地悪なお願いでもいいよ」
嫌な予感がしたけど、私はじゃんけん運には自信がある。
「今回は鈴の負けだね」
「あなた、チョキ出すのがちょっと遅くなかった?」
「はいはい、で、どっち選ぶ?」
「じゃあ、何かやる方で」
小夜子はそばの果樹の赤い果実を指さした。
「それ、食べて」
私はその果実を摘んで匂いを嗅いでみた。変な匂いはしないし、新鮮そうだったから、とりあえず食べてみた。
大都会の女の子たちはこういうゲームが好きなのだろうか、なんだか悪趣味な感じがする。
「これでいいから、次のラウンド行こう」
予想通り、その後も私は連続で負け続けたが、小夜子が言うことは単に果物を食べることから、だんだん彼女のバッグを持つなど少しずつエスカレートしていった。
「今度は質問に答えてみてよ」
もし「この道のりを私をおんぶして歩いて」なんて言われたら厄介だから、罰を変えたほうがよさそうだ。
「鈴」
「ん?」
小夜子は意識的に間を置いた。
「もしかして、鈴って意外とビビリ?」
また来た。こういうのはよくあることで、人って自分の状況を他人に投影して誤解を生むものだ。
「かもね」
「ねえ、ちゃんと答えてよ、いいでしょ?」
ちょっと、この方法で時間をつぶすのはやめたくなってきた。
「なんか、ずっと歩いてるのに終わりが見えない気がする」
「鈴ってずるいなぁ」
小夜子が不満そうな声を出した。
「もう黄昏時だっていうのに、町の影も見えないし」
「ほんとだね。ってか……」
「この地図、大丈夫かな?確かこっちの方向だったはずだけど」
「ねえ」
「なに?」
私は小夜子が指さした方向を見た。
「この紫色の花、今日のお昼に見たやつじゃない?」
そんなはずはない。だって、もう何時間も山道を歩いてきたんだから、まさか……
その花の横に、こちらに微笑んでいるあの木の幹が見えた。
私たちはしばらく黙って歩き続け、空が徐々に暗くなっていった。今の唯一の選択肢は、引き返して出発地点の宿まで戻ることかもしれない。
しかし、今いる場所から戻るにしても、それは決して近い距離ではなかった。
そうして夜が完全に訪れるまで歩き続けると、蝉の鳴き声がコオロギの鳴き声に変わり、時折鳥のような生き物が羽ばたく音も聞こえてきた。周りはほとんど真っ暗で、手を伸ばしても何も見えないような状態だ。ランタンをかざしても足元がぼんやり見えるだけで、進むたびに慎重に歩を進めなければならなかった。
「もう本当に無理……」
今日一日、無駄足を繰り返してきた上に長時間の歩行で、体も心も限界に達していた。
「帰り道ももうわからなくなっちゃったし、それにここ、なんか不気味な感じがする……鈴、痛いよ」
どうやら、夕方に暗くなり始めた頃から私は小夜子の手を離さずに握っていたらしい。そうしていることで、震える足を少しでも抑えられるような気がした。
「本当に帰り道が見つからないんじゃない?」
「冗談でしょ、冷静になってよ」
「いっそ『未央』の光魔法で森全体を照らしちゃおうか」
「だから、冷静に!そんなことしたら周りの生き物を全部引き寄せちゃうよ」
「わかった……」
小夜子は私に少し近づいて、できるだけ軽い口調で言った。
「もし光が見えたら、そこに向かって行こう、いい?」
私は彼女の手を少し強く握って同意を示した。私の中で小夜子は運動神経が良い普通の女子高生というイメージだったが、こういう時には頼りがいのある一面を見せてくれる。
鬱蒼と茂る木々と夜に立ち込める不思議な霧が視界をほとんど遮っている中、「確かに下り坂になっている」という感覚だけで方角が間違っていないことを確認しながら進んでいた。その時、私は少し先に異変を感じ取った。
「小夜子、あれってランプじゃない?」
「自然界のものとは思えないね」
何もないはずの山奥に、ちらちらと光が見えていた。まるでホラー小説に出てくるような場面のような気がしてならない。
「ちょっと行ってみない?」
迷子になるよりも、ここで運にかけてみる方がいいと思い、提案してみた。小夜子も同意してくれて、ランタンの明かりを少し落とし、光の方向にゆっくりと進んでいった。
私は「未央」をすぐに使えるように準備しようとしたが、「鈴が緊張すると何をしでかすかわからないから」と小夜子に強引に止められた。
近づくにつれて、光の点は光の玉になり、やがて一帯が明るくなった。二枚の大きな葉をかき分けたその先には、驚くべき光景が広がっていた。
「そこのレンチを取って」
「今日の会議に間に合わなかったら大変だ」
「お母さん、足が痛いよ」
そこには、まるで繁華街のような景色が広がっていた。目の前には複雑に入り組んだ建物が並び、石畳の道沿いに無数の看板が山の頂上からジグザグに続いている。
誰も私たちに気づいていない様子だった。
「地図にこの都市って載ってるのかな?」
私は大体の位置を指でなぞりながら探してみたが、ここにこれほどの規模の建物が存在するという記載はまったく見つからなかった。
昔は都市や村が散在していて、もし裕福な貴族や国王がいた場合、お金や武力によってそれらを領土の一部にすることが多かった。しかし時代が進むにつれて、経済や貿易の中心に位置する都市は、豊富な資源と重要な地理的な位置のおかげで、やがて王室に匹敵する独立自治体に成長していった。時には商業や武装同盟を通じて、周囲の小都市を蜘蛛の巣のように包み込むこともある。
しかし、どのような形態の国家であれ、存在するからには教会の認証が必要で、それがなければ敵対視され、制裁を受ける可能性がある。特に私たちの目の前に広がっているような規模の都市なら、地図に載っていないのはほとんどあり得ない。
とはいえ、小夜子も私も既に空腹で限界に近い状態だった。
「とりあえず、レストランに行って何か食べようか」
「賛成。食べた後で、ここらの案内所に行ってみよう」
私たちは良さそうなサンドイッチ屋に入った。メニューの種類はやや少なかったが、実際に食べてみると意外と美味しかった。
「何?お金がないって?」
目の前に立つ店員が、軽蔑するような目でこちらを見ていた。
ことの発端はこうだ。私たちが食事を終え、支払いをしようとしたところ、銅貨はこの場所では通用しないと言われたのだ。代わりに通貨として使われているのは、何かの模様が水彩で描かれた木製の長方形の物体で、サイズはキーホルダーのように小さかった。
決して無銭飲食をするつもりはなかったのだ。
「すみません、ここでは銅貨が使えないなんて知りませんでした」
謝るしかなく、次にどうするか考えていたその時。
「おやおや、君たち、外から来た旅行者かい?」
酒の匂いが漂う中年のひげ面のおじさんが、突然こちらに声をかけてきた。どこかで見たような気もするが。
「大丈夫、大丈夫。今回の食事代は俺が持つよ。代わりに、あとでちょっと一緒に散歩でもしないか?」
そう言って、おじさんは広いズボンのポケットからしばらく探っていた。最初に出てきたのは鍵、その次は貝殻、さらに省いた赤ワインの半瓶も出てきた。そしてようやく見つけた2枚の木製プレートを店員に渡した。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
と、店員が答えた。
こうしておじさんと一緒に店を出て、食事を済ませたおかげで身体もかなり楽になった。とはいえ、足はまだ少し疲れていた。
「おっさん、さっきは本当にありがとうございました。」
「あなたがいなかったら、どうしていいかわからなかったです。」
「いやいや、気にしなくていいよ。お嬢ちゃんたちは初めて来たんだろうから、わからないことも多いだろうし、嫌な思い出を残したくないからな。」
おっさんは笑いながら手を振り、私たちが平地に立ち上がると、彼が本当に背が高いことに気づいた。
この街や通貨に関して、まだたくさん疑問があったが、おっさんは上機嫌のようで、自分のことを延々と話し始めた。
「俺がここに来たのは、もう何十年も前のことだよ。」
「へえ~」
「その時おっさんは何歳だったの?」
私たちは相槌を打ちながら聞いた。
「はっはっは、その頃はお前たちより若かったさ。若い子を見ると、あの頃の俺を思い出すよ。はっはっは!」
ちょっと調子に乗りすぎではないかと思った。
「メーガン・ヨンゲ」
おっさんは咳払いをしてまた話し始めた。
「あの頃、あそこの仕立て屋のお姉さんに一目惚れしちまったんだ。」
彼は路地の角にある、誰もいない店を指さした。その店には「ヨンゲ仕立て屋」と看板が掲げられていた。
「毎日さ、一束の花を持って彼女の店の前に立って、彼女が俺を受け入れてくれるのを待っていたよ。」
「それで、どうなったんですか?」
「最後には一緒になったんですか?」
「えーっと……ゴホゴホ」
おっさんは突然、喉に何か詰まったように咳き込んだ。
「残念ながらそうはならなかったんだ。俺の親父が、当時気に入っていなかった女の子と結婚するように言ってきてさ。お姉さんもどこかに引っ越して、今ではもうおばあちゃんだろうな、はっはっは。」
どうやら楽しい結末ではなかったようだ。歩いている間に気づいたが、この街の電力システムはあまり発達していないようで、通りが火の灯りだけで照らされているところもあった。
「ここって、普通の露天電線を設置していないのはどうしてですか?もしかして全部地下に埋めているとか?」
ようやく質問するタイミングが見つかったので聞いてみた。
「いやな、ここにはそういうことが得意な奴がいなくてな。技術を持ってる奴はみんな奇妙な魔導具の開発にばかり力を入れてるから、誰もこんなことに頭を使いたがらないんだ。」
なるほど、技術の方向が少しずれているらしい。
そうして、私たちは坂道をさらに進んでいった。時々馬車がすれ違ったり、治安官のような服装をした一団が慌てて小道から小道へと走り去る様子も見えた。
「もうすぐだよ。」
おっさんが強調して言った。
石壁の角に螺旋階段があり、私たちはその階段を登っていった。そこは展望台だった。
「わあ、すごくきれい!」
小夜子が最初に感嘆の声を上げた。確かに、この街は夜でも灯りが溢れ、非常に賑わっている。
街の明かりが星のように点在していて、どこもかしこも不思議な活気に満ちていた。
「ふふ、きれいだろう?」
おっさんは得意げに笑った。
「俺さ、この場所が大好きなんだ。人って年を取るとさ、思い出が増えて、過去にこだわるようになるもんだ。」
私と小夜子は真剣に聞き入っていた。
「俺は昔から、この展望台に登ってここからの景色を眺めるのが好きだったんだよ。」
おっさんは手元の石をそっと撫でた。その仕草は、物体に触れているというよりも、まるで壊れやすい品物を慎重に扱うようだった。
「最近、外の世界はとても危険でね。でもここが戦火に襲われずに無事でいられるのは、職人たちが開発した大型の魔導具のおかげなんだ。」
「町を見えなくする魔導具ですか?」
少し理解が追いついてきた。
「そうだよ、お嬢ちゃんたちも、迷ってここまで来ちゃったんだろう?ご苦労様だったな。」
おっさんはひげを掻きながら言った。
「俺としては、ここは素直に馬車か船で迂回した方がいいと思うけどな。」
「わかりました。」
もし半日前ならこの忠告を聞き流していただろうが、今では心から納得していた。
なんだか、さっきから小夜子が静かだったのが気になった。
「小夜子?」
私は彼女に声をかけた。
「な、何?」
「さっきから黙ってるけど、体調悪いの?」
「あ、ううん、ただおっさん、どこかで見たことがある気がして…。」
私も同じような気がしていた。
「はっはっは、そんなわけないさ。俺はここにずっと住んでて、どこにも出かけたことはないんだから。他の町のおっさんと勘違いしてるんじゃないか?はっはっは。」
「そうかもね。」
展望台でしばらく過ごした後、ようやく私たちは下に降りた。
「本当にここに泊まらなくていいのか?」
おっさんはまたひげを掻きながら笑って尋ねた。
「いえ、今ホテルに戻れば、夜明けのバスに間に合うかもしれません。」
「そうか。」
おっさんは時計を見下ろした。彼の話によれば、ここを出るためには通行用の令牌が必要らしく、結界を破壊することでしか出られないらしい。そんなことを防ぐため、彼は親切に私たちに二枚の令牌と記念に一枚の木製の通貨をくれた。
「それじゃ、今すぐ出発した方がいいぞ。気をつけてな。」
「わかりました。ありがとうございました!」
「今日のご飯もおいしかったです。」
私たちは門へ向かって歩き出した。おっさんの長い体も、距離が離れるにつれて街の風景に溶け込んでいった。そのとき、彼が突然こちらに手を振った。
「ああ、そうだ…そうそう、君たちは旅人だよな?もしメーガンに会ったら伝えてくれ。俺は元気にしているから、心配しないでくれって!」
「はい!わかりました!」
「了解~!」
小夜子も手を振り返した。
門を出た瞬間、周りの景色が一変した。もやに包まれていた山林の中にいたはずなのに、目の前にはあのホテルがあった。振り返ってみると、後ろにあったはずの街もなくなり、代わりに忙しい車道が続いていた。
そのまま私たちはバス停に向かうことにした。
「そういえばさ、あのおっさん、誰かに似てる気がしてきたんだけど。」
「え?」
小夜子は手にした木製の通貨を見つめながら話した。
私たちがホテルのロビーに入ると、そこには歴史的人物の肖像画がずらりと並んでいた。
「見て。」小夜子が一番奥の絵を指差した。それは、正装を着て剣を持つひげのおっさんの肖像だった。
『ラインハルト、
この荒野に人々を導き、定住させた偉大なる指導者。
厳粛で勤勉であった彼は、町が危機に陥った際に強力な魔導具の開発を呼びかけ、自身の命を動力源として町を守り抜いた。
町から生き残った人々は最終的に水の都へと移住し、その魔導具も二度と見つかることはなかった。』
千年前の英雄…か。
小夜子はあまり気にする様子もなく言った。
「いくらなんでも、本人なわけないでしょ。」
「どうして?」
「だってさ、彼は厳粛でもないし、勤勉でもない。ただの普通のいいおっさんじゃん。」
私は笑った。
「そうだね。」
ホテルのフロントで私たちが立ち止まっていると、受付の女性が微笑みかけてきた。彼女の名札には「ヨンゲ」と書かれているようだった。
こうして私たちはバスに乗り込み、次の目的地へ向かった。さっきまで巨大に見えていた山々も、今ではサンドイッチみたいに小さく見える。サンドイッチといえば…。
「お腹空いたから、それちょうだい。」
私は小夜子に頼んだ。
「奇遇だね、私もお腹空いてるんだ。」
小夜子はサンドイッチを手に取り、口に運ぼうとしたが、私は慌てて彼女の手を掴んだ。
「じゃあ、じゃんけんで決めようか。」
旅はまだ続く。ただ、誰かがいつも空腹を抱えることになりそうだ。
夢見と夜の華 グリペン猫 @houkicha
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