第5話

1938年 10月30日、ニューヨーク



ニューヨークの朝は秋の冷気が漂っていた。男はアパートの窓から灰色の空を眺め、深く息をついた。

 男はお気に入りのトレンチコートを羽織り、帽子を深くかぶって外に出た。道行く人々は皆、ハロウィンを前日に控え、少し忙しそうに見えた。男の胸の奥には何か予感じみた不安が静かに渦巻いていた。

 男の計画したがどのように受け取られるのかは、まだ誰にも分からなかったからだ。




1938年 10月30日、ロサンゼルス郊外



 夕方、俺とローザは、ウィズの車で天文台へ向かうことになった。エヴァンスは都合がつかず、急遽友人のウィズに運転を頼むことになった。

 ウィズ・マクレガー。こいつの父親は街では有名なちょっとした金持ちだ。ウィズ自身はその金をほとんど自分の遊びに使ってるが。俺たちが乗り込んだシボレー・エアフローは、数年前に発売されたばかりの新車だ。カーラジオからはボレロが流れていた。

「ウィズ、新車みたいだけど、運転はどうかしら?」

ローザが冗談混じりに言うと、ウィズはむっとして答えた。

「おいおい、任せろって。こんな車で事故を起こすような真似はしねえよ」

ウィズはそう言ういと、フロントガラス越しに広がる景色を見ながら、ふっと笑った。その笑みには、何か企んでいるような、ちょっとしたイタズラ心が込められていた。

「それより、お二人さん」

ウィズが突然、マービンとローザに向かって話しかけた。

「最近は、うまくやってるのか?」

俺は運転席に座ったまま、無視を決め込もうとしたが、ローザは一瞬だけウィズに目を向けた。ウィズはその視線に気づくと、さらにニヤリとした笑みを浮かべて続けた。ローザが顔を赤くして口を開きかけたが、ウィズはそれを遮って続けた。

「まあ、いいけどな。こういうの、俺は結構好きだよ」

ウィズは意味ありげに後ろを振り返り、笑いながら車を走らせた。

俺は黙って窓の外を見ながら、タバコを吸う手を止めて軽くため息をついた。こいつ、相変わらずだ。だが、内心では少しだけ苛立ちが湧いていた。

ローザは、ちょっと顔をしかめたが、すぐに何事もなかったかのように微笑み返す。

「ウィズ、あんたが言うことなんて、いつも気にしないわよ」

車内に漂う煙草の煙と、ウィズの軽口、それが微妙に絡み合いながら、天文台へ向かう道を進んでいった。


 シボレーが天文台の駐車スペースに滑り込んだ。ウィズは、運転席から降りる気配もなく、背もたれに体を預けながら、顔をあげた。

「じゃあ、二人とも。俺はここで待ってるから、調査の方はよろしくな」

ウィズは窓を少し下げ、クールな調子で言った。どうやらその場で何か音楽でも流しながら時間を潰すつもりらしい。心なしか、ボレロの音色が大きくなっていた。

ローザがドアを開けて、車から降りるとき、ウィズは軽く笑いながら言った。

「マービンに、もう一仕事頼まれてるしな」

「もうひとしごと?」

ローザが首を傾げながら、こっちを見た。

「後でわかるさ。さあ行くぞ」

俺は、煙草に火をつけ言った。ローザは一瞬、俺の顔を見たが、すぐに頷いて天文台に向かって歩き出した。俺たちはエヴァンスから借りた鍵を使い、再び天文台の扉を開けると、中は相変わらず静まり返っていた。

「声のこと、説明してくれる?」

ローザが小声で言った。俺は鍵をポケットにしまいながら、ふと顔を上げ、天文台の広がりを一度見渡す。

「……ああ」

俺は一息ついてから、低い声で返事をする。

「ローザ、覚えてるか? 噂になった声のこと」

俺はゆっくりと歩きながら、続けた。

「ええ、覚えてる。若い男の声とか老人の声とか、エヴァンスさんは女の声を聞いたって言ってたわね」

ローザはじっと俺の顔を見つめながら答える。

「そうだ。注目すべきは、声の主が一人じゃないって事だ」


俺は煙草をくわえたまま、煙をゆっくりと吐き出した。ローザの視線を感じながら、続けた。


「確かに。私も妙だと思ったわ。でも噂なんて尾鰭がついて、細部が変化するなんてよくある事じゃない」


ローザが軽く頷き、腕を組みながら言った。

「その通りだ。だが本当に色んな声がしていた可能性もある」


「どういうこと?」


「……ラジオ放送だよ」


「……ラジオ?」


ローザの声に驚きが含まれていた。俺は、ゆっくりと天文台の中を見渡す。


「ああ。ここ10年でアメリカのラジオ局は500以上にもなった。今やあのフランクリン・ルーズべルトでさえラジオ演説する時代だ。恐らく、エヴァンスの聞いた声は、クルーナーの歌手だったんだろう。最近はやりの『囁くような歌声』ってやつだ」
「でも、ここには電気がないじゃない。どうやってラジオ放送が聞こえるの?」
ローザは疑問を口にした。俺は一瞬黙り込むが、やがて低い声で答えた。


「この建物全体がラジオになってるんだ」


言葉の意味がローザの脳内で反芻されるのを感じ取った。彼女の表情がほんの少し歪んだ。もちろん、俺の言っていることが常識外れだと感じるだろうが、無理もない。

「ラジオの音声を増幅させるために、真空管が使われる以前はゲルマニウムという金属が使われていた。電気を必要としないラジオだ。この天文台の中を囲む錆びついた鉄骨、パイプ。それらがゲルマニウムの役割を果たしているんだ。実は、酸化した鉄も電波を受信することがある。そして、望遠鏡を囲っている、あの巨大なドームが集音装置の役割を果たしているんだ。ちょうど音が一番大きくなる場所が、あのスチール本棚の場所なんだろう」

 ローザは少し黙り込んだが、やがて眉をひそめながら、低い声で言った。

「でも、それならどうして昨日は何も聞こえなかったの? 今だって、何も聞こえないじゃない」


ローザのその問いに、俺はちょっとだけ間を取ってから答える。

「条件があるんだ」

「条件?」

「そうだ。この足跡を見てみろ」

そう言って俺は、足元に目をやる。

「やけに泥に塗れた足跡だろ? それと、エヴァンスがここに来たか理由を覚えてるか?」

「えーと、確か……嵐が来たから、様子を……あ!」

「気づいたか。そうだ。エヴァンスが声を聞いた日は、雨が降った日の次の日だった。そして、おそらく若者達が侵入したのも雨の日の次の日だったんだろう。前日の雨でぬかるんだ地面を歩いたから、こんなに泥がついてるんだ」

「でも、なんで雨が降らないとラジオが聞こえないの?」

「それはアカマツさ」

「あかまつ?」

ローザの問いに、俺は軽く肩をすくめてから言った。 
「晴れてる日はアカマツが、鉄塔からの電波を遮っているんだ。しかし、雨が降ると、アカマツの葉が水分を吸収して僅かに頭をもたげる。それによって、普段は届かない場所に電波が届くようになるんだ。つまり、雨の日の翌日のみ、この天文台でラジオ放送が聞こえる条件が整うってわけだ」

ローザは一瞬、俺の言葉に驚いたように目を見開いたが、すぐにその驚きが薄れて、理解したような顔をした。


「なるほど。でも、実際に声を聞かないと、私納得できないわ?」

ローザの目は、挑戦的に俺を見つめてきた。直感と理屈、どちらも手に入れなきゃ納得しない。いつものことだ。だから俺も冷静に、そして少しだけ得意げに言った。
「そう言うと思って、ウィズに頼んである。斧でアカマツをぶった切ってくれってな」

「いつの間に斧なんて!」

「もちろん、エヴァンスの許可も得ている。おそらくもう作業は済んでいるだろう」

そう言って俺はスチール本棚へと歩を進めた。後ろをついてくるローザは、少し興奮気味だ。俺も、自身の仮説を証明できる悦びで、自然と足の運びが速くなった。

 

 

しかし、この時、俺たちはまだ知らなかった。

アメリカ、いや、世界の終わりがゆっくりと近づいているという事実を。



『…………かな大気の乱れがノバスコシア州上空で報告されており、低気圧が北東部の州上空でかなり急速に降下し………』

「ここだわ! 聞こえるわ!マービン!」

ローザが小さな拍手をしながら叫んだ。俺も、ローザの顔の近くに顔を近づけた。

『…………から、ラモン・ラケロと彼のオーケストラの音楽をお届けします。スペインの音楽。ラ・クンパルシータです……………………』

「決まりだな。あとはエヴァンスに報告すれば、仕事は上がりだ」

その時、ラジオ電波が不穏な内容を告げた。

『……中部時間の8時20分頃、イリノイ州シカゴにあるジェニングス山天文台のファレル教授は、火星で一定の間隔で発生する白熱ガスの爆発を数回観測したと報告しました……』

 ローザは無意識に息を呑んだ。その視線は俺に向けられたが、そこにはいつもの冷静さは微塵もなかった。

「マービン……」


彼女の声は、ささやくように震えていた。それは、ただの驚きではない、もっと深い恐怖の兆しだ。

「火星……?」 


ローザは言葉を絞り出すように呟いた。だが、その目の奥に浮かぶのは、不安そのものだった。俺も無意識に手を握りしめ、唇をかんだ。何が起きているんだ?

ラジオが切り替わり、ニュースがまた進んでいくのを感じながらも、俺の脳内は今や完全に停止していた。

『……観測された爆発は、今後の火星探査に重大な影響を及ぼす可能性があり、関係機関は警戒を強めています。この情報を受け、軍および防衛関係者は……』

ローザが口を開けたまま、さらに言葉を続けようとしたが、言葉が詰まっていた。

『……報告された爆発の原因については、現在、地球外生命体の関与の可能性も含めて調査中です』

「……火星人が……来るのか?」

ローザが顔を上げ、俺の目を見つめてきた。その目には、信じたくない現実を見つめる恐怖が浮かんでいた。

「ウィズのところに戻ろう、マービン!」


彼女が、急かすように言った。だが、俺は動けなかった。恐怖が、いや、恐怖を通り越して、何かもっと重くて冷たいものが、胸の中にあふれ出していた。ローザの視線を受け、思わず言葉が漏れた。

「ローザ……待て、その前に伝えたい事がある!」 


声が震えていた。自分でも驚くほどに声がかすれていた。でも、それを止めることができなかった。俺は手を少し震わせながら、目の前のローザを見つめた。彼女の顔が、白くなり、青くなっていくのを、俺はただ見つめるしかなかった。

「…………何?」 


彼女の瞳が揺れた。。しかし、その言葉の裏に隠れた恐怖が、俺の胸をぎゅっと締め付けた。彼女はまだ、逃げることができると信じている。車に戻り、目をつむり、何もかも忘れて、この世界が崩壊するのを待つだけだと。

 でも、俺には分かっていた。逃げても、もう何も意味がないことを。

「この世界が終わるんだ、ローザ」


「マービン……」 
 

彼女は言葉を続けようとしたが、何も言えない。彼女の唇が震えているのを見て、俺はその時、初めて自分の心がどれほどまでに揺れているのかを痛感した。もっと早く、もっと強く何かを言うべきだったのかもしれない。でも今、すべては遅すぎる。

 俺は静かに、そして確信を込めて告げた。 


「ローザ、俺はずっとお前を守りたかった。ただ……もう、無理なんだ。世界が終わってしまうなら、俺もお前と一緒に終わりたい」

その言葉が、まるで崩れるように喉からこぼれた。全てを告げた瞬間、もう後戻りはできないことを、俺は理解していた。ローザが静かに、しかししっかりと俺を見つめ返してきた。その目に浮かぶものは、恐怖ではなく、静かな、強い意志だった。

「私も。マービン……」


彼女が呟いたその声は、震えていたが、確かに届いた。俺は強く誓った。無論、逃げられないのだとしても、もしこの世界が終わるならば、俺は絶対にお前と一緒にいるんだと。俺たちは手を握り合い、出口へと歩を進めた。ウィズの車が見えてきた。愛する女と親友、この三人で世界の終わりを迎えるのも悪くないか。俺はそう思った。

「どうだい、マービン、仮説は証明できたか? おや、なんだ?いい感じだな、お二人さん?」

ウィズの陽気な声が暗闇に響いた。俺たちは足を止め、視線を彼に向ける。ウィズは車の運転席に座って、どこか冷静な様子でラジオの音量を絞り、俺たちを待っていた。

「ウィズ、聞いてくれ。大変な事が起きているんだ」

「そうよ、ウィズ。ラジオで……火星の爆発で、火星人が地球に…」

俺たちの言葉を聞き、ウィズはしばらく黙っていたが、しばらくしすると笑いながら口を開いた。

「はははははは。もしかして、ラジオドラマの話か? 『宇宙戦争』の演出だよ、マービン。あの話、昔からあるだろ。火星人が地球に侵略してくるってやつ」

ローザは驚いた表情でウィズを見つめていたが、すぐに目を伏せる。

「じゃあ、あのニュースは……」

ウィズがうなずく。

「ああ、演出だよ。冒頭で、ウェルズってやつが言っていたぜ。『これから放送するのは、ラジオドラマです』って。あれは、全部嘘のニュースだ。オーソン・ウェルズってのは、まったく、手の込んだ野郎だ」

俺は言葉がなかった。ローザも言葉が出ないようだった。呆気に取られた俺たちを見ながらウィズはニヤついていた。

「まぁいいんじゃないか?」

俺とローザの握られた手を見ながらウィズが続けた。


「終わりよければ全て良し、だ」


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世界の終わりとハードボイルド探偵 魚市場 @uo1chiba

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