パラノイド狂騒曲 ― 瑠璃蝶々とひめ金魚 ―

taikist

1.あにまる保育園

1-1.

1-1-1.四月十一日①

 わたしの身体に沿って沈み込んだ柔らかいベッド。その枕元を震わせる低い振動音で、重たかった寝ぼけまなこがはっと開いた。どうやらスマホにメッセージが届いたらしい。もうほとんど微睡まどろみかけていたせいか、目は覚めても身体を起こすのが怠い。

 枕元を手で探り、転がっているスマホを取ってホーム画面を点灯させると、真っ先に目に飛び込んできた現在時刻に目を疑った。講義が始まる十分前だ。今から家を出てもまず間に合わない。

 今日はお昼の後 一コマ空いての講義だったので、手早くお昼を済ませて軽く昼寝でもしてから行こうと思っていた。もしメッセ―ジが来ずにこのまま眠ってしまっていたなら、間違いなく寝過ごしていただろう。いや、そうでなくとも遅刻は確定なのだが。


 しかしその下に表示されたメッセージの通知を見て、わたしは思わずほっと息を吐いた。


〈今日の環境科学、休講だって〉


 あと十分後に始まる講義こそ、環境科学。運良く遅刻も欠席も免れた。それに今日は午後の講義は環境科学しか入っていない。となれば、この後はフリーだ。一度起きてはしまったが、もう一度寝てしまおう。


 ありがたい連絡をくれた友人の百花ももかに返事を打ち込みながら、ベッドの上でゴロゴロと寝転がる。


〈連絡ありがとー! 休講じゃなかったらサボってところだったわ笑〉


 返事を送るとすぐに既読がついて、彼女からメッセージが返ってくる。


〈はぁ? 何やってんの……?〉


〈寝てた〉


〈あんた今日バイトでしょ? そっちは遅れないようにね〉


〈あ〉


 普段はシフトを入れていない曜日だが、今日に限って臨時に入れていた。それをすっかり忘れていたのだ。そちらはサボるとさすがにマズいので、気付けて本当に良かったが。


〈……まさか、忘れてた?〉


〈完っ全に忘れてた〉


〈あんたねぇ……。せっかく割のいいバイトなんだから、ちゃんと続けなさいよ〉


 わたしが悪いのはもちろんなのだが、百花には小言を言われっぱなしだ。

 しかしお母さんみたいにいちいち叱ってくれる友達を持ったわたしは、結構幸せなのかもしれないと、こういう時は本当に思う。物事をはっきり言ってくれるから、彼女との関係はとても居心地が良いし、良くも悪くもはっきり物申すのは彼女の美徳でもあると思っている。


 とはいえ、“割のいいバイト”、ねぇ……。正直、今のバイトには疑問が多い。何故わたしが採用されたのか、あんな仕事で本当にお金をもらってよいものか、そもそも彼は、本当は何が目的なんだろうか。


〈あの仕事でお金貰うの、なんか心苦しいんだよね……。真面目に働いてる人に申し訳ないというか〉


〈本当、羨ましいよ。お坊ちゃんの相手してるだけで日給三万、交通費別途支給って……それ水商売じゃないよね?〉


〈そんなんじゃないって。一応、家庭教師ってことで募集出てたよ? それに相手はまだ中学生だってば〉


〈金持ちの道楽に大人も子供もないよ。何考えてるかなんて、庶民にはわからないもの〉


 彼女の言う通り、彼の考えていることはわたしにはわからない。所詮は金持ちの道楽なのかもしれない。思えば確かに、あの仕事に関しては求められているのだから成り立っている、としか言いようがない。だからわたしは、わたしのやれることをやるだけ。そう割り切った方がいいのかもしれない。


 すると、返信を打っている間に着信が入り、不意のことで相手も見ずに“通話”を押してしまった。


『先生、休講になったらしいな』


 まだあどけなさの残る、声変わりしたての低い声。その見透かしたような余裕な口ぶり。間違いない、彼だ。噂をすれば影が差すとはよく言ったものだ。


「……よく知ってるね。わたしもさっき知ったばかりなのに」


『家庭教師たるもの、常に新しい情報には気を配ったらどうなんだ? 大学のホームページにもお知らせが出ていたぞ? まあ、僕はその前から知っていたけれどな』


 彼はそう鼻高々に言っているが、相変わらずのその情報力はどこからくるのだろう。本当に合法的な手段で手に入れたものなんだろうね……? 事前に今期の履修状況を提出しているとはいえ、その情報力はどう考えても、うちの大学にスパイでも送り込んでいるのではないかと思えるほどだ。


しゅうくん、わたしの大学のホームページ、わざわざチェックしてるんだ……。それで、わたしに何か用かな?」


 用もなく電話してくるような子ではないとわかってはいるが、あえてそう尋ねた。彼は中学生とはいえ、かなり頭が回る。彼のペースで話を進ませるのは危険だと、もう半年以上彼の家庭教師をやっているわたしには、経験則でわかっていた。


『もし暇だったら僕のために時間を割いてくれないか? ちょうど先生としたい話があったんだ』


「言われなくても、今日はシフト入ってたでしょ? 時間になったら行くよ」


 さっきまでシフトが入っていたこと自体忘れていたとは、さすがに言えない。


『先生、休講になってこれから暇なんだろう? その時間を、僕に割いてほしいと言っているんだ』


 ……やっぱりそうか。そんなことだろうと思ったよ。暇とは言っても、さっき目が覚めたばかりで何の準備もしていない。本来はバイトの時間までまだまだ時間はあるし、できればもうちょっとゴロゴロしていたい。

 でも、断るのがそんな理由じゃあ、彼は許してくれないんだろうな。


 彼は何故だかえらくわたしを気に入っているらしく、わたしとの会話そのものを楽しんでいる節がある。だが今回は、どうやらちゃんと内容のある話のようだった。だから今回に限っては、安易に突っぱねずに聞いてあげてもいいのかもしれない。そうも思ったから、少しだけ妥協することにした。


「電話ではできない話ってこと?」


『色々と、実際に見てもらった方が早いからな。それに、顔を見ずに話すというのはあまり性に合わない。特に親しい人と話す時は、な。……先生は、それでは嫌か?』


 わたしにも悪気があったわけではないが、そう素直に言われては、さっきのわたしの態度は少し素っ気なさ過ぎるように思われて申し訳なくなる。

 いつの間にかわたしは、彼にとって親しい人になっていたらしい。家庭教師を始めてまだ半年程度。週に三回、三時間会うだけだ。学校のクラスメートの方が、もっと関わる時間は長いはずだ。それでも、彼がそう言うのだからそうなんだろう。だから、彼の頼みを突っぱねようかとも思ったわたしに少しばかりの罪悪感がし掛かったのだった。


「ごめんって。わかったよ。そうだなぁ……」


 ちらと壁に掛けられた時計を見ると、現在時刻は十三時五十分くらい。


「じゃあ、十五時過ぎくらいには着くと思うから」


『ありがとう、先生。迎えを寄越そうか?』


「いいよ、悪いし」


『そうか。気を付けてな』


 彼の要求を呑んであげたというのに、特別嬉しそうでもなく淡々と返してくる。確かに彼の言う通り、顔を見て話せた方が良いのは間違いない。彼は割と素直に表情に出るから、顔を見れれば簡単に心の内の感情の部分は透けて見えるのに。


「はいはい、ご心配どーも。じゃあ、またね」


 通話を切って、勢いをつけて起き上がる。そうでもしてスイッチを入れないと、まだもうちょっとなら大丈夫だし……なんて理由を付けて、たぶんそのままうっかり二度寝してしまう気がした。


 萩くんとの通話で話が途切れてしまった百花には、バイトの時間早まったから行ってくるね、と送ると、いってらっしゃい、と独特な造形のスタンプが返ってきた。“キモかわいい”らしいが、わたしにはよくわからない。


 元々また出かける予定だったから、メイクも髪も崩してないし、少し整えるだけでいいか。萩くんは化粧濃いの嫌がるから、あんまり濃くしないようにリップを塗りなおす程度で。肩下まで伸びてきた髪は、まだ巻きも取れていないしそのままでいいか。前髪だけ軽くセットし直して、これでよし。

 帰りは少し遅くなるだろうし、カーディガンを羽織っていこうかな。もう桜は散ってしまったけれど、初夏と言うにはさすがにまだ早い。夜になればめっきり冷え込んでしまうから、油断は禁物だ。


 余裕をもって支度を済ませても、思った通り時刻は十四時二十分くらい。我ながら的確な見積もりだ。いつもの荷物だけ持って、きちんと部屋の戸締りを確認して、家を出た。



 うちから萩くんの家までは、電車で六駅。急行に乗れれば二駅で着く。ホームに出ると、ちょうど運良く急行が来たところで、人のほとんどいない座席の端っこに座った。手鏡で前髪をちょっと整え直して――うん、まあこれでいいでしょ。

 たかだか中学生に会いに行くのに気合入り過ぎな気もするけれど、ある程度 身なりをちゃんとして行かないと文句を言われてしまうのだ。百花の言っていた通り、羽振りのいいバイトではあるし、できれば辞めたくはない。身なりを整えるのは社会人としても当たり前のことだと思うし、別に抵抗はなかった。


 彼の家は駅から歩いて十分くらいのところにあり、一見すると普通の二階建ての一軒家のように見える。けれどここはメイドさんと執事さんと彼との三人暮らしで、いわゆる別荘だというのだから驚きだ。何でも、築島つきしまグループの跡取り息子として社会勉強をするために、こうして一般社会という野に出されているらしい。


 インターホンを押すと、執事の左路さじさんが出迎えてくれた。執事といっても、執事服やスーツ姿ではない。落ち着いた色のシャツやパンツでカジュアルさは押さえつつも、一応 私服姿。メイドさんも同じで、メイド服など着ていない。ご近所からは普通の家のように見られたいという萩くんの要望なのだそうだ。


志絵莉しえり様、お待ちしておりました」


「お疲れ様です。お邪魔します」


 わたしが靴を脱いで家に上がったのを確認してから、左路さんが玄関に入ってドアを閉める。私服であってもやはりプロの執事。お客様より上に立つことのないよう、徹底している。特に佐路さんは結構なお年のようだし、その振る舞いが身体に染み付いているのだろう。


 そして家に上がったわたしを出迎えてくれたのは、メイドのセレナさん。彼女はハーフということもあり、髪色は明るいが地毛なのだそうだ。スタイルも良くて、女のわたしから見てもモデルかアイドルみたいに美人で憧れる。こんな人をメイドとして雇っているなんて、ちょっと羨ましいと思ったことは一度や二度ではない。


「ご主人様がお待ちです。どうぞこちらへ」


 そんな仰々しいいつもの流れで迎え入れられたリビングには、足を組んでリクライニングチェアに深く腰掛けるご主人様の姿があった。中学の制服姿のままふんぞり返っている彼は、わたしの姿を視界に捉えるなり、手元の書類を脇にどけてニヤリと微笑んだ。


「よく来てくれたね、先生」

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