なんてこった

宮元家まで歩いて10分もかかりませんでした。


玄関へ脚を踏み入れると、若々しい綺麗な奥さまが出迎えてくれました。

しかし、笑顔は少し気持ちが悪かったです。


宮元さん曰く、奥さまは今年で40歳と、僕と同い年のようですが、見た目はそれこそ20代でも通用しそうです。比べて僕は宮元さんよりも老けて見えると思いますが、そんな事はもはや全く気になりません。


客室に通されると、宮元さんは長年の夢であった健康食店を開くというビジョンについて語り始めました。


その間、奥さまの方はせっせと夕食の準備をしているようで、トントン、という包丁の音が聞こえてきます。


「ただいまー」


子供が帰ってきたようです。「手を洗いなさい」「はーい」「塾はどうだった」といったやり取りが聞こえてきます。本当に、耳がいいと余計な事が聞こえてきます。


すぐに、子供がリビングに挨拶に来ました。礼儀正しい。

歳は12歳だそうです。自分が女の子に殴られ続けた歳です。


「幸いにも、よく出来た息子だ。」

子供が出ていった後で宮元さんが言いました。


間も無くして、食事の準備が整い、食卓に、次々とご飯が運ばれていきます。


僕はつい余計な事を口走ってしまいました。


「すべて…持ってるんですね。」


「えっ?なに?」


「あ、い、いや…」


この家庭には、僕が近づくことさえ叶わなかったような平凡が全て詰まっていました。


宮元さんが私の気持ちを見透かすように哀しげな目を向けました。


「…ローンも、まだ10年以上残っているし、子供の私立校受験も、かなり無理することになるが、この辺の公立校はいじめや学級崩壊が横行していて、とても安心して行かせられない。今や退職金が出たとは言え、収入はゼロになったし、新規事業には金がかかるのだからね。田中くんが思っている以上に、良い暮らしってわけじゃないよ。」


宮元さんは軽いため息をつきましたが、それでも、僕の状況よりはよほど…と言いかけて、止めました。

残り1日しかない人生を不幸自慢で費やすなんて、虚しいだけです。


食事の支度が済むと、僕も当然のように招かれ、子供も一緒になって食事が始まりました。宮元さんは元の会社の従業員の様子などを話し始め、僕の他にも、もう連絡が取れない元従業員の事を気にかけているという事です。

奥さまも、主人はよくこう話しているもんだから、僕がこうして来たことは主人にとって嬉しい事なんだと伝えてくれました。


ですが、宮元さんはこんな話を続けて場が暗くなった事を悟って話をすげ替え、新規事業のお話に入りました。


「そうだな、新規事業では、元いた会社の元の部下たちを集めて働いてもらうってのも、良いかもな。」


これには奥さまは怪訝な顔を浮かべていたように思います。その後、子供の話に移り、夕食は終了しました。


後片付けをしている奥さまから宮元さんが呼ばれたので、私は食卓に一人で座っていました。


奥さまがヒソヒソと話しているのが聞こえてきます。


『あなた、あんな安請け合いみたいなことを…』というような話で、宮元さんが奥さまに責められているようにも聞こえました。

まったく、耳が良いのは本当によろしくない。


宮元さんの事はとても尊敬しています。

宮元さんがあの会社で多くの人の心を救ってきたことを、奥さまはもしかしたらよく知らないのかもしれません。


私はどうせもう居なくなる身。

場を荒らして消えるのは、本望ではありません。

最後ぐらい、クズじゃなくてもいい。


戻ってきて少し落ち込んでいる宮元さんを前に、私はハッキリとした口調で奥さまにも聞こえるようにこう言いました。今までにない流暢さで話したようにも思えます。

まるで、今まで眠っていた才能が突然目覚めたというか、魔法にかけられた感じがします。


「宮元さんには、本当にしっかりとした奥さまがついていらっしゃる。」


私の声の大きさに、宮元さんは少し驚いたようです。


「あ、ああ、ありがとう。」


私はさらに続けます。


「宮元さん、私みたいなのを雇うなんて、軽々しく言ってはいけませんよ。先ずは家族を優先してください。我々のような社会の敗者に、情けをかけて足を引っ張らせてはダメです。」


宮元さんは、呆気に取られているようです。


「…も、もちろん、家族を一番大事にしているよ。」


私はじっと宮元さんを見つめ、その姿を目に焼き付けます。


「私は、そろそろお暇することに致します。夕食、ご馳走様でした。」


そう言って立ち上がると、奥さまがスッと出てきました。


「あ、田中さん、先ほどの話が聞こえて…」


奥さまは少しバツが悪そうな顔をしていたので、こう言いました。


「奥さま、ご主人は、少々お人好しが過ぎる傾向にあります。そんなご主人が破綻しないのは、奥さまのような理性的な方がご主人を諭してくれるからです。これからも、この素晴らしい宮元さんを、よろしくお願い致します。」


奥さまと宮元さんは、互いを見つめ合います。少し照れくさそうです。


さて、この家を出れば、私にかけられた魔法も解けることでしょう。


玄関を出れば、カウントダウンの始まり…の、はずでした。


「あ、あの、田中さん!わ、私、私は…」


もう一歩踏み出した私は振り返りはしませんでしたが、立ち止まりました。


「いえ、主人は、やる時はやる人間です!一年後には主人の会社は必ず大きくなっています!私も、主人を支えます。その時に、もし新しい会社を見つけられていないのであれば、もう一度、この家のドアを叩いてみてください!」


僕はまたもや流れるまま、身体を振り向かせました。

どんな表情をしているのかは、分かりません。


「つ、釣り逃した魚が、大きいかもしれませんから…」


奥さまは、少し微笑んでくれたように思えます。

すると、後ろにいる宮元さんが、頷いてくれていました。

気持ち悪くはないです…


「…はい。」


なんてこった…


油断して、つい返事をしてしまいました。


本来はこの返事に責任を持つ必要なんて無いのです…

ゼロに、ゼロになれば、関係ないのです。


いや、本当に、ゼロなのか…?


私が消えてこの世界の負は、本当に無くなるのか…?


私がいなくなって悲しむ人がいる世界で、本当にゼロになると、言い切れるのか…?


ほんの小さな疑問は、私をアパートに戻しました。

そして、その日の夜の私の手は、年末年始のアルバイト募集の広告を開いてしまっていました…








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